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カテゴリ:巨匠の傑作 > ハンス・メムリンク

 2013年3月3月にウフィツィ美術館(フィレンツェ)を訪問しました。今回は、ハンス・メムリンク作「パガニョッティ三連祭壇画中央パネル」を紹介します。
 ハンス・メムリンク(1435年頃~1494年)は初期フランドル派の画家で、ヤン・ファン・エイクやファン・デル・ウェイデンに続いて活躍しました。
 ハンス・メムリンクはドイツ フランクフルト近郊のゼーリゲンシュタットに生まれました。ブリュッセルのファン・デル・ウェイデンの工房で修業しました。ファン・デル・ウェイデンが1464年に亡くなったのを機にブルッヘ(ブルージュ)に移り、1465年にブルッヘ市民権を得たようです。その後ブルッヘで活躍して、多くの作品を制作しました。現存する作品の大部分が、宗教画です。
 ロンドン・ナショナルギャラリー所蔵の両翼とこの中央パネルは様式・縦寸法の一致性と紋章などから、三連祭壇画を成していたと考えられています。紋章などから、フィレンツェの聖職者ベネデット・パガニョッティからの委嘱で制作されたと考えられています。当時のブルッヘにはメディチ銀行の支店があり、フィレンツェから絵画・祭壇画が多く依頼されたようです。ベネデット・パガニョッティは1443年フィレンツェで生まれ、1461年ドミニコ会に入会して進学と占星術の教授を務めました。プロヴァンスのヴァイソンの司教に任命されましたが、フィレンツェで活動しました。ローマ教皇派内の紛争を裁定する立場でした。
 「パガニョッティ三連祭壇画」の聖母の容貌は、ブルッヘで典型的な面長です。描き方や窓の奥の風景も、典型的なブルッヘ・ベルギー風です。聖母の頭上の飾りは、イタリア風と言われています。左翼は子羊を抱いた聖ヨハネで、フィレンツェの守護聖人です。右翼は聖ラウレンティウス(聖ローレンス)でローマの守護聖人で、火事・火災・熱病を防ぐ守護聖人、火を扱う職業などの守護聖人です。両翼のパネルの幅が短く閉じない仕様か、閉じると聖母子だけが見える仕様だったと思われます。両翼の裏面には夜明け前の鶴が描かれていますが、イタリアで後世描かれたものと思われます。
 ベネデット・パガニョッティはローマ教皇派内の紛争の調停・裁定をローマ教皇と連絡を取って執行していました。フィレンツェではメディチ家の興隆とローマ教皇派の弱体化が進んでいました。苦しい立場を、聖ラウレンティウスに重ねたのでしょうか。聖ラウレンティウスは258年にローマで殉教した7人のうちの一人です。迫害されて自分が殉教する前に、教皇の指示(遺言)で教会の財産を貧しい人々に分け与えてしまいました。網の上での火あぶりで殉教しました。
  中央パネルでは聖母子の周りで、天使が音楽を奏でています。ベネデット・パガニョッティは平和を願ったのでしょう。
パガニョッティ三連祭壇画中央パネル(ハンス・メムリンク、1480年頃作)

パガニョッティ三連祭壇画全体写真(両翼はロンドン・ナショナルギャラリー蔵)

両翼が閉じられた状態


 2018年6月にカナダ国立美術館(オタワ)を見てきました。今回は、ハンス・メムリンク作「聖母子と聖アントニーと寄進者」を紹介します。
 ハンス・メムリンク(1430/40~1494年)はフランクフルト近郊で、下級貴族の家庭に生まれました。1451年頃両親が亡くなり、ブリュッセルのウェイデン工房に弟子入りしました。その後ブルッヘ(ブリュージュ)に移住して、1465年にはブルッヘ市民権を得ました。やがて工房を構え、1480年には裕福な227人の中に入っていました。
 聖アントニーが聖母子に寄進者を紹介しています。寄進者(依頼者)は聖アントニーを守護聖人として、豚を描き込めば誰か分かる人物だったと思われます。肉屋のギルトの建物はアントワープで際立っていました。ギルトの建物の地下で肉を販売していたようです。肉屋で財を成した一族の若旦那なんでしょうか?ハンザ同盟の時代なので、何か関係があるのでしょうか?後ろのタペストリーらしきものに、花のような模様があります。家紋なのかもしれません。寄進者は若そうなので、代替わりしての繁栄祈願かもしれません。ブルッヘ移住後7年で、メムリンクの評判が上昇していたのでしょう。
  寄進者の容貌もよく描けていますし、床のタイルやタペストリーの模様も細密です。赤と青空の対比も良いです。
聖母子と聖アントニーと寄進者(ハンス・メムリンク、1472年作)
「聖母子と聖アントニーと寄進者」の前で記念撮影
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 2017年6月にメムリンク美術館(ブルージュ/ベルギー)を訪問しました。今回はハンス・メムリンク作の「聖カトリナの神秘の結婚の祭壇画」を紹介します。
 ハンス・メムリンク(1430年頃~1494年)はブルッへで活躍した初期フランドル画家です。この「聖カトリナの神秘の結婚の祭壇画」は聖ヨハネ関係者が製作依頼・寄進したと思われます。中央には玉座の聖母子と聖カトリーヌの神秘の結婚の場面と聖人が描かれています。左側(右翼)にはサロメが洗礼者ヨハネの首を持っています。右側(左翼)には流刑地パトモス島に贈られた福音書記者聖ヨハネが描かれています。閉じると左側に聖ヒエロニムスと聖アントニウスと二人の男性寄進者が、右側には聖アグネスと聖クララと二人の女性寄進者(聖ヨハネ病院の看護人と婦長)が描かれています。
          聖カトリナの神秘の結婚の祭壇画(ハンス・メムリン作)
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閉じた「聖カトリーヌの神秘の結婚の祭壇画(メムリンク作)」
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「聖カトリーヌの神秘の結婚の祭壇画」の前で
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 2017年6月にメムリンク美術館(ブルージュ/ベルギー)を訪問しました。今回はハンス・メムリンク作の「聖母子とマールテン・ファン・ニーウウェンホーフェの二連画」を紹介します。
 ハンス・メムリンク(1430年頃~1494年)はブルッへで活躍した初期フランドル画家です。この「マールテン・ファン・ニーウウェンホーフェ」は後にブルッへ市長になる人物で、23歳の時の肖像です。ブルッへの貴族に生まれたようで、金持ちだったと思われます。寄進者が本人か本人の父親辺りと思われます。将来に備え寄進して、神の加護を祈ったと思います。
 聖母子の後ろの凸面鏡にマールテンらしき人物が描かれており、聖母子と同じ部屋にいることが暗示されています。マールティンの右奥のガラス窓には聖マルティヌス(袖を破って乞食に分け与えた。フランス発の修道院を建てた。)が彼の守護聖人として描かれています。聖母子の後ろのステンドグラスには聖ゲオルギウスも描かれています。マールテンが将来庶民を助けるという宣言が込められています。 
聖母子とマールテン・ファン・ニーウウェンホーフェ二連画(メムリンク、1487年作)

           聖母子とマールテン肖像画の前で
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 2017年6月にメムリンク美術館(ブルージュ/ベルギー)を訪問しました。この美術館で一番有名なハンス・メムリンク作「聖ウルスラの聖遺物箱」を紹介します。
  ハンス・メムリンク(1440年頃~1494年)はフランクフルト近郊で生まれ、ブリュッセルのファン・デル・ウェイデン工房で修業しました。1465年にブルッへ(ブルージュ)市民権を得て、ブルッへで活動しました。
  聖ウルスラは9世紀ケルン発祥の伝説で、現在は実在が疑われています。四世紀ブルタニア南西部の王女が11,000人の処女を引き連れてローマに殉教したという伝説です。帰路ケルンで一行が野蛮人に殺されたという伝説です。聖ウルスラと「同行者の名前」、「十一人の殉教した処女」などがラテン語の「11倍の千」に間違われ、11,000人の処女の殉教という話になったようです。
  13世紀ケルンの礼拝堂内で「ウルスラ」と刻まれた墓石が見つかり、「聖ウルスラ伝説」が更に盛り上がったようです。この時期にソルボンヌ大学(パリ)、コインブラ大学(ポルトガル)、ウィーン大学などが聖ウルスラを守護聖人とした。毛織物組合の守護聖人も聖ウルスラのようです。ブルッへも毛織物業が盛んだったようです。更に頭痛治癒や幸福な死の守護聖人でもあったようです。聖ヨハネ病院にあった「古い聖ウルスラ聖遺物箱」を新調するために依頼されたもののようです。聖ウルスラの聖遺物が何であったかは調べても分かりませんでした。目につくのは豪華なマントで、その切れ端なんでしょうか?
聖ウルスラの聖遺物箱(メムリンク作)
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この作品は「ベルギー七大秘宝」のひとつだそうです。夫々の面に描かれている絵もいくつか紹介します。
             聖母子          聖ウルスラ
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聖ウルスラのローマ到着
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聖ウルスラの聖遺物箱の前で
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聖ウルスラの聖遺物箱の展示の様子
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古い「聖ウルスラの聖遺物箱」

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