2013年3月3月にウフィツィ美術館(フィレンツェ)を訪問しました。今回は、ハンス・メムリンク作「パガニョッティ三連祭壇画中央パネル」を紹介します。
「パガニョッティ三連祭壇画」の聖母の容貌は、ブルッヘで典型的な面長です。描き方や窓の奥の風景も、典型的なブルッヘ・ベルギー風です。聖母の頭上の飾りは、イタリア風と言われています。左翼は子羊を抱いた聖ヨハネで、フィレンツェの守護聖人です。右翼は聖ラウレンティウス(聖ローレンス)でローマの守護聖人で、火事・火災・熱病を防ぐ守護聖人、火を扱う職業などの守護聖人です。両翼のパネルの幅が短く閉じない仕様か、閉じると聖母子だけが見える仕様だったと思われます。両翼の裏面には夜明け前の鶴が描かれていますが、イタリアで後世描かれたものと思われます。
ベネデット・パガニョッティはローマ教皇派内の紛争の調停・裁定をローマ教皇と連絡を取って執行していました。フィレンツェではメディチ家の興隆とローマ教皇派の弱体化が進んでいました。苦しい立場を、聖ラウレンティウスに重ねたのでしょうか。聖ラウレンティウスは258年にローマで殉教した7人のうちの一人です。迫害されて自分が殉教する前に、教皇の指示(遺言)で教会の財産を貧しい人々に分け与えてしまいました。網の上での火あぶりで殉教しました。
中央パネルでは聖母子の周りで、天使が音楽を奏でています。ベネデット・パガニョッティは平和を願ったのでしょう。
ハンス・メムリンク(1435年頃~1494年)は初期フランドル派の画家で、ヤン・ファン・エイクやファン・デル・ウェイデンに続いて活躍しました。
ハンス・メムリンクはドイツ フランクフルト近郊のゼーリゲンシュタットに生まれました。ブリュッセルのファン・デル・ウェイデンの工房で修業しました。ファン・デル・ウェイデンが1464年に亡くなったのを機にブルッヘ(ブルージュ)に移り、1465年にブルッヘ市民権を得たようです。その後ブルッヘで活躍して、多くの作品を制作しました。現存する作品の大部分が、宗教画です。
ロンドン・ナショナルギャラリー所蔵の両翼とこの中央パネルは様式・縦寸法の一致性と紋章などから、三連祭壇画を成していたと考えられています。紋章などから、フィレンツェの聖職者ベネデット・パガニョッティからの委嘱で制作されたと考えられています。当時のブルッヘにはメディチ銀行の支店があり、フィレンツェから絵画・祭壇画が多く依頼されたようです。ベネデット・パガニョッティは1443年フィレンツェで生まれ、1461年ドミニコ会に入会して進学と占星術の教授を務めました。プロヴァンスのヴァイソンの司教に任命されましたが、フィレンツェで活動しました。ローマ教皇派内の紛争を裁定する立場でした。「パガニョッティ三連祭壇画」の聖母の容貌は、ブルッヘで典型的な面長です。描き方や窓の奥の風景も、典型的なブルッヘ・ベルギー風です。聖母の頭上の飾りは、イタリア風と言われています。左翼は子羊を抱いた聖ヨハネで、フィレンツェの守護聖人です。右翼は聖ラウレンティウス(聖ローレンス)でローマの守護聖人で、火事・火災・熱病を防ぐ守護聖人、火を扱う職業などの守護聖人です。両翼のパネルの幅が短く閉じない仕様か、閉じると聖母子だけが見える仕様だったと思われます。両翼の裏面には夜明け前の鶴が描かれていますが、イタリアで後世描かれたものと思われます。
ベネデット・パガニョッティはローマ教皇派内の紛争の調停・裁定をローマ教皇と連絡を取って執行していました。フィレンツェではメディチ家の興隆とローマ教皇派の弱体化が進んでいました。苦しい立場を、聖ラウレンティウスに重ねたのでしょうか。聖ラウレンティウスは258年にローマで殉教した7人のうちの一人です。迫害されて自分が殉教する前に、教皇の指示(遺言)で教会の財産を貧しい人々に分け与えてしまいました。網の上での火あぶりで殉教しました。
中央パネルでは聖母子の周りで、天使が音楽を奏でています。ベネデット・パガニョッティは平和を願ったのでしょう。
パガニョッティ三連祭壇画中央パネル(ハンス・メムリンク、1480年頃作)

パガニョッティ三連祭壇画全体写真(両翼はロンドン・ナショナルギャラリー蔵)

両翼が閉じられた状態

パガニョッティ三連祭壇画全体写真(両翼はロンドン・ナショナルギャラリー蔵)
両翼が閉じられた状態










