2013年3月3月にウフィツィ美術館(フィレンツェ)を訪問しました。今回は、アルブレヒト・デューラー作「東方三博士の礼拝」を紹介します。
アルブレヒト・デューラー(1471~1528年)は、その精緻なデッサン力で有名なドイツの画家です。「野兎」という作品のデッサン力には、驚愕します。
アルブレヒト・デューラーは1471年(ドイツの)ニュルンベルクで、裕福な金細工職人の次男として生まれました。兄弟が十人以上いたようです。アルブレヒト・デューラーは2~3年学校に通った後、父親から金細工や描写の基礎を仕込まれたようです。15歳頃にはその卓越した描写力を見せました。「ニュルンベルク年代記」の木版挿絵を造っていたヴォルゲムートの手伝い(見習い)をしました。1490年に(19歳で)見習いを終了すると、5年程遍歴をしたようです。絵画の手ほどきを受けるため、各地を巡ったようです。概ねフランクフルト→コルマール→ストラスブール→バーゼル→ニュルンベルク→ヴェネツィア→ニュルンベルクの順路のようです。1495~1520年の間ニュルンベルクで作業場(工房)を持ったようです。1505年から2年程、再度ヴェネツィアを遍歴したようです。類稀なデッサン力の上に、フランドル派とヴェネツィア派の画法を吸収して、当時最先端の技術を習得したと思われます。
マルティン・ルターが神学を享受していた事で知られるヴィッテンベルクのシュロス教会の祭壇に飾る為、フリードリヒ3世がデューラーに制作依頼したのが「東方三博士の礼拝」です。1603年にザクセン選帝侯クリスティアン2世が、ウィーンの神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世に贈りました。
デューラーは2回イタリア旅行をしていますが、その間に描かれました。左側に聖母子と牛と二人の博士が、右側に黒人の博士と十社が描かれています。中央上の博士は、デューラーの自画像と言われています。この作品の前に描かれた自画像も紹介します。髪と髭が似ていますが、チョット目力が弱いと思います。中央手前の博士は依頼主のフリードリヒ3世のような気がします。髭と容貌の感じが似ています。画家が自画像を描き込んでいるのに、依頼主を描き込まないとは考え難い。フリードリヒ3世をモデルに手前の博士として、聖母と目を合わせて尊敬の念を表した。依頼主を尊重して、自画像の容貌を控えめに描いたと考えます。
マルティン・ルターが神学を享受していた事で知られるヴィッテンベルクのシュロス教会の祭壇に飾る為、フリードリヒ3世がデューラーに制作依頼したのが「東方三博士の礼拝」です。1603年にザクセン選帝侯クリスティアン2世が、ウィーンの神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世に贈りました。
デューラーは2回イタリア旅行をしていますが、その間に描かれました。左側に聖母子と牛と二人の博士が、右側に黒人の博士と十社が描かれています。中央上の博士は、デューラーの自画像と言われています。この作品の前に描かれた自画像も紹介します。髪と髭が似ていますが、チョット目力が弱いと思います。中央手前の博士は依頼主のフリードリヒ3世のような気がします。髭と容貌の感じが似ています。画家が自画像を描き込んでいるのに、依頼主を描き込まないとは考え難い。フリードリヒ3世をモデルに手前の博士として、聖母と目を合わせて尊敬の念を表した。依頼主を尊重して、自画像の容貌を控えめに描いたと考えます。
東方三博士の礼拝(アルブレヒト・デューラー、1504年作)

26歳の自画像
(アルブレヒト・デューラー、1498年作、プラド美術館蔵)

28歳の自画像
(アルブレヒト・デューラー、1500年作、アルテ・ピナコテーク蔵)

ザクセン選帝侯フリードリヒ3世(ルーカス・クラナハ作)

ザクセン選帝侯フリードリヒ3世(ルーカス・クラナハ、1510年作)

(アルブレヒト・デューラー、1498年作、プラド美術館蔵)
28歳の自画像
(アルブレヒト・デューラー、1500年作、アルテ・ピナコテーク蔵)
ザクセン選帝侯フリードリヒ3世(ルーカス・クラナハ作)
ザクセン選帝侯フリードリヒ3世(ルーカス・クラナハ、1510年作)
13歳の自画像(アルブレヒト・デューラー 1484年作)



