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カテゴリ:巨匠の傑作 > ラファエロ

 2013年3月にパラティーナ美術館(ピッティ宮殿内/フィレンツ)を訪問しました。今回は、ラファエロ・サンティ作「天蓋の聖母」を紹介します。
 ラファエロ・サンティ(1483~1520年)は、ルネッサンスで最も有名な画家の一人です。大きな工房を構え、沢山の作品を残したことが知られています。
 ラファエロ・サンティは、ウルビーノ公国の(詩的才能もあった)宮廷画家の息子として生まれました。母は1491年(8歳の時)に死去、父も再婚後1494年に亡くなりました。11歳で孤児となってしまいました。後見人が父方叔父のバルトロメオで、継母が父の工房を細々と続けたようです。
 ペルジーノの工房に弟子入りして、1501年に僅か18歳でマスターに登録されたようです。次々と作品を描き、若くして工房を経営したようです。37歳で亡くなるまで、多くの傑作を残しました。
 「天蓋の聖母」はサントスプリト教会の礼拝堂の為に委嘱されました。未完だった為、他の画家が完成させたようです。初期のラファエロは師匠のペルジーノの画風に倣っていました。1504~05年に描かれた「コロンナの祭壇画」はペルジーノ作品そのままです。1505~07年作の「アンシデイの聖母」はそれが弱まっています。1508年にはラファエロ風になっています。ブダペスト西洋美術館蔵の「エステルハージの聖母」と画風が似ています。こちらは未完のままのようです。ラファエロが教皇からローマに呼び出され、描き掛けの作品を放り出してローマに向かったようです。お金を貰っていなければ、そんなことが許された時代なんでしょうか?
 二人の天使がワイヤーで吊られたように、空中に浮かんでいます。腰の辺りで吊り上げて、デッサンしたのでしょうか?そう思えるくらい本当らしいです。
玉座の聖母(ラファエロ・サンティ、1508年作)
玉座の聖母 カノピーの聖母 ラファエロ
コロンナの祭壇画
(ラファエロ・サンティ、1504~05年作、メトロポリタン美術館蔵)

アンシデイの聖母
(ラファエロ・サンティ、1505~07年作、ロンドン・ナショナルギャラリー蔵)

エステルハージの聖母
(ラファエロ・サンティ、1508年作、ブタペスト西洋美術館蔵)
Raffael_029エスタルハージの聖母

 2013年3月にパラティーナ美術館(ピッティ宮殿内/フィレンツ)を訪問しました。今回は、ラファエロ作「エゼキエルの幻視」を紹介します。
 ラファエロ・サンティ(1483~1520年)は、ルネッサンスで最も有名な画家の一人です。大きな工房を構え、沢山の作品を残したことが知られています。
 ラファエロ・サンティは、ウルビーノ公国の(詩的才能もあった)宮廷画家の息子として生まれました。母は1491年(8歳の時)に死去、父も再婚後1494年に亡くなりました。11歳で孤児となってしまいました。後見人が父方叔父のバルトロメオで、継母が父の工房を細々と続けたようです。
 ペルジーノの工房に弟子入りして、1501年に僅か18歳でマスターに登録されたようです。次々と作品を描き、若くして工房を経営したようです。37歳で亡くなるまで、多くの傑作を残しました。
 「エゼキエルの幻視」はボローニャの貴族エルコラーニ家のコレクションにあったと言われ、その後メディチ家のコレクションとなりました。旧約聖書の予言者エゼキエルのメルカバ(神の戦車)幻視の逸話だ題材です。捕囚の人々の間のエゼキエルが、北からの突風と雲から、四つの静物と四つの顔と四枚の翼を見ました。人、ライオン、牛、鷲、聖なる父神で、夫々聖マルコ、聖ルカ、聖ヨハネ、聖マタイの象徴と考えられています。ラファエロは制作で忙しい時期で、弟子の作品ではないかとの説もあったようです。天使の容貌や躍動的な父神や動物を描いていて、ラファエロの手になった作品と考えられています。
エゼキエルの幻視(ラファエロ・サンティ、1610年作)
Raffaello_Sanzio_-エゼキエルの透視

 2013年3月にパラティーナ美術館(ピッティ宮殿内/フィレンツ)を訪問しました。今回は、ラファエロ・サンティ作「大公の聖母」を紹介します。
 ラファエロ・サンティ(1483~1520年)は、ルネッサンスで最も有名な画家の一人です。大きな工房を構え、沢山の作品を残したことが知られています。
 ラファエロ・サンティは、ウルビーノ公国の(詩的才能もあった)宮廷画家の息子として生まれました。母は1491年(8歳の時)に死去、父も再婚後1494年に亡くなりました。11歳で孤児となってしまいました。後見人が父方叔父のバルトロメオで、継母が父の工房を細々と続けたようです。
 ペルジーノの工房に弟子入りして、1501年に僅か18歳でマスターに登録されたようです。次々と作品を描き、若くして工房を経営したようです。37歳で亡くなるまで、多くの傑作を残しました。
 「大公の聖母」は長らく存在が知られず、1799年に貧しい未亡人の家で発見されました。トスカーナ大公フェルナンド3世が購入して、大公が長年愛でた絵でした。
 ラファエロはペルジーニの弟子となり、1500年(17歳)頃に助手となりました。1501年にマスター(親方)に登録されました。当時の基準から考えて、6年前の1495年(12歳)頃に弟子入りしたと思われます。独立から暫くは、単発の依頼を受けていたようです。1504年のどこかの時点まで、師匠のペルジーノの画風が色濃く残っていました。1502年頃からフィレンツェの戻っていたレオナルド・ダ・ヴィンチから手ほどきを受けて徐々に変化して、1504年にペルジーノの画風から完全脱却しました。それ以降の依頼作品が、この「大公の聖母」です。研究者が調べると輪郭の要所要所にピン穴があり、下絵から正確に輪郭を写し取ったようです。下絵の一案と思われる素描も残っています。フィレンツェの貴族辺りが依頼したかと思われます。背景は室内だったのが、後の時代に黒く塗りつぶされたようです。素描と見比べたりすると、「大公の聖母」の幼いキリストの抱かれ具合が絶妙です。これにラファエロが拘り、大公が愛でたのではないかと思われます。聖母のトロントした眼差しとこちらを見つめる幼いキリストの眼差しも絶妙です。これを強調したがため、背景を黒く塗りつぶして修復したのでしょう。ペルジーノもラファエロも、絵の具がひび割れて剥落し易かったようです。絵の具の製造方法(配合)はペルジーノ仕込みで、変える必要性を感じなかったのでしょうか。
大公の聖母(ラファエロ・サンティ、1505~6年作)
大公の聖母,_por_Rafael
大公の聖母の素描(ラファエロ・サンティ作、ウフィツイ美術館蔵)

聖母戴冠(ラファエロ・サンティ、1502~04年作、ヴァチカン美術館蔵)

聖母の婚礼(ラファエロ・サンティ、1504年作、ブレラ美術館蔵)

三美神(ラファエロ・サンティ、1504年作、コンデ美術館蔵)

聖ゲオルギウスと竜
(ラファエロ・サンティ、1505~06年作、ルーヴル美術館蔵)

 2013年3月にパラティーナ美術館(ピッティ宮殿内/フィレンツ)を訪問しました。今回は、ラファエロ・サンティ作「ヴェールを被る婦人」を紹介します。
 ラファエロ・サンティ(1483~1520年)は、ルネッサンスで最も有名な画家の一人です。大きな工房を構え、沢山の作品を残したことが知られています。
 ラファエロ・サンティは、ウルビーノ公国の(詩的才能もあった)宮廷画家の息子として生まれました。母は1491年(8歳の時)に死去、父も再婚後1494年に亡くなりました。11歳で孤児となってしまいました。後見人が父方叔父のバルトロメオで、継母が父の工房を細々と続けたようです。
 ペルジーノの工房に弟子入りして、1501年に僅か18歳でマスターに登録されたようです。次々と作品を描き、若くして工房を経営したようです。37歳で亡くなるまで、多くの傑作を残しました。
 ラファエロ・サンティはローマ教皇ユリウス2世の招きで、ローマに移りました。ヴァチカン宮殿の教皇専用図書館・ラファエロの間・署名の間などの装飾壁画を描きました。ラファエロの最高傑作と言われる「アテナイの学堂」も描きました。やがて教皇から屋敷や年金も貰い、貴族に準ずる身分となりました。やがてヴァチカン宮殿以外の仕事も引き受けました。その中の「システーナの聖母」のモデルと言われるのが、ラ・フォルナリーナ(パン屋の娘)と呼ばれたマルゲリータ・ルーティです。1520年頃に「ラ・フォルナリーナ」という画題の作品を描いています。これらの容姿を比較すると、同一人物がモデルと考えられます。1514年にビッビエーナ枢機卿の姪のマリア・ビッビエーナと婚約しました。ラファエロ・サンティは直後の1~2年は大人しくしていたようですが、その後女性交友を再開しています。婚約解消の噂もあったようですが、事実かは不明です。
 「ヴェールを被る婦人」と「
ラ・フォルナリーナ」の両方の髪には、真珠が描かれています。真珠のラテン語はマルゲリータのようです。この目印は、二人ともマルゲリータ・ルーティ(パン屋の娘)である事を示しています。「ヴェールを被る婦人」は似つかわしくないほど豪華な衣装と(既婚で子持ちを象徴する)ヴェールを被っていることから、別人・彼女をモデルにした聖人という研究者もいるようです。その時の状況を考えると、ラファエロ・サンティはマルゲリータ・ルーティ(パン屋の娘)に、「僕の妻・愛人になってくれ。こんな上流社会の衣装を着て、子供にも恵まれるだろう。」と言うために描いたと思われます。この絵を彼女に贈ったか、見せただけで所有を続けたかは分かりません。1584年時点でフィレンツェの商人が「ヴェールを被る婦人」を自宅に飾っていたという目撃記録があるようです。ローマに旅行した際に購入したと思われます。
ヴェールを被る婦人(ラファエロ・サンティ、1516年作)
Raffaello_Sanzio_ヴェールの女性
ラ・フォルナリーナ
(ラファエロ・サンティ、1520年頃作、バルベリーニ宮国立古典絵画館)

システーナの聖母
(ラファエロ・サンティ、1513~14年作、アルテ・マイスター絵画館蔵)

上のシステーナの聖母の容姿拡大写真

 2013年3月にパラティーナ美術館(ピッティ宮殿内/フィレンツ)を訪問しました。今回は、ラファエロ・サンティ作「小椅子の聖母」を紹介します。
 ラファエロ・サンティ(1483~1520年)は、ルネッサンスで最も有名な画家の一人です。大きな工房を構え、沢山の作品を残したことが知られています。
 ラファエロ・サンティは、ウルビーノ公国の(詩的才能もあった)宮廷画家の息子として生まれました。母は1491年(8歳の時)に死去、父も再婚後1494年に亡くなりました。11歳で孤児となってしまいました。後見人が父方叔父のバルトロメオで、継母が父の工房を細々と続けたようです。
 ペルジーノの工房に弟子入りして、1501年に僅か18歳でマスターに登録されたようです。次々と作品を描き、若くして工房を経営したようです。37歳で亡くなるまで、多くの傑作を残しました。
 ラファエロは1508年にローマ教皇ユリウス2世に招かれてローマに移住して、そのまま滞在しました。ヴァチカンの「署名の間」等の壁画を描き上げた後に「小椅子の聖母」を描きました。ローマ教皇から屋敷と年金を与えられ、裕福な生活となりました。1514年に枢機卿メディチ・ビッビエーナの姪のマリア・ビッビエーナと婚約しました。モデル兼愛人となったパン屋の娘マルガリータ・ルティともこの頃知り合ったと思われます。作画一筋だった30歳のラファエロに、突然春(心がウキウキする時期)が来ました。そのような時期にこの「小椅子の聖母」を描き、死期(1520年)まで手放さなかったようです。
 ラファエロの描く聖母を順番に紹介すると、当初師匠のペルジーノの影響・様式が強く出ています。その後徐々にミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチの影響を受けて、1513~14年頃に、ラファエロ独自の画風・様式を極めました。「小椅子の聖母」と「システーナの聖母」が、ラファエロの聖母の頂点だと思います。画期的な作品です。ラファエロというと、この二作品を先ず思い出します。
 「小椅子の聖母」は円形のトンド形式の作品です。ラファエロの作品では、もう一作品「アルバの聖母」だけです。この頃のトンドは、出産後の女性に贈る形式の作品です。ラファエロは自分の子供が生まれた時に贈るつもりで持ち続けたのでしょうか。ラファエロは残念ながら、子供に恵まれませんでした。ラファエロの死後トスカーナ大公が買い取り、メディチ家が保管しました。ラファエロの婚約者のマリア・ビッビエーナも同じ年に亡くなったと伝わります。事情は現在に伝わっていません。
小椅子の聖母(ラファエロ・サンティ、1513~14年作)
Raffael子椅子の聖母
モンドの磔刑
(ラファエロ・サンティ、1503年、ロンドン・ナショナルギャラリー蔵)

聖母戴冠の祭壇画
(ラファエロ・サンティ、1502~04年作、ヴァチカン美術館蔵)

ベルヴェデーレの聖母
(ラファエロ・サンティ、1506年作、ウィーン美術史博物館蔵)

アルバの聖母
(ラファエロ・サンティ、1510年作、ワシントン・ナショナルギャラリー蔵)

システーナの聖母
(ラファエロ・サンティ、1513~14年作、アルテ・マイスター絵画館蔵)

ラ・ドンナ・ヴァレータ(ラファエロ・サンティ、1516年作)

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