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カテゴリ:巨匠の傑作 > ティツィアーノ

 2013年3月にアッカデミア美術館(ベネツィア)を訪問しました。今回は、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ作「聖母子」を紹介します。
 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1488~1576年)はヴェネツィア共和国ベッルーノ近郊ピエーヴェ・ディ・カドーレで、ピエーヴェ・ディ・カドーレ城の管理者の長男に生まれました。父親は評議員で軍人と言う名士でした。10歳チョットの時に弟とヴェネツィア在住の叔父の元に行き、ジョヴァンニ・ベリーニの下で修業しました。その後ジョルジョーネの助手となり、やがて共同制作者となりました。ジョルジョーネが1510年に、ベリーニも1516年に死去すると、ティツィアーノ・ヴェチェッリオはヴェネツィア派を代表する画家となりました。晩年にはスペイン王フェリペ2世の下で主に暮らしました。
  ティツィアーノは生涯で何枚も聖母・聖母子を描いています。何枚か紹介します。1510年頃の画風は、兄弟子・師匠のジョルジョーネとほとんど同じ画風です。1515年頃から徐々に自分独自の画風になっていきますが、聖母の容貌はまだジョルジョーネふうです。1530年頃まで、聖母の容貌にジョルジョーネの影響が残っています。1530年代後半から、完全に独自の画風になります。1560年頃からタッチが粗くなっていきます。70歳代になって、白内障の影響や老眼の影響が出たと推定します。クロード・モネと同じ症状のように感じます。本作品は1560年作とされていますが、ほぼ妥当な画風です。ティツィアーノの作品には、「見つめ合う姿」が良く描かれています。其れともよく一致しています。左上の雲の風景は、パトロンからの要求でしょうか?
  余分な話ですが、ロンドン・ナショナルギャラリー所蔵の「聖母子」は真作とは思えません。ここまで画力が落ちるとは考えにくいし、ここまで落ちたら描かないと思います。更に、見つめ合っていません。本作品「聖母子・アルベルティ―ニの聖母」を参考に、勉強・修業不足な追従者が描いたように思えます。ロンドン・ナショナルギャラリーの学芸員がそう思わないのは、不思議です。
聖母子・アルベルティ―ニの聖母
(ティツィアーノ・ヴェチェッリオ、1560年頃作)
聖母子 ティッツァーノ作
ジプシーの聖母
(ティツィアーノ・ヴェチェリオ、1511年作、ウィーン美術史博物館蔵)

聖人の居る聖母子
(ティツィアーノ・ヴェチェリオ、1515年作、ルーヴル美術館蔵)
Maria mit Kind, sowie hl. Stephans, Hieronymus und Mauritius von Tizian (Tiziano Vercellio/ Titian)
チェリーの聖母
(ティツィアーノ・ヴェチェリオ、1515年作、ウィーン美術史博物館蔵)
聖母子・アルドブランディ―二の聖母
(ティツィアーノ・ヴェチェリオ、1532年作)

聖母子
(ティツィアーノ・ヴェチェリオ、1570年頃作、ロンドン・ナショナルギャラリー蔵)
Titian's 'The Virgin and Child', probably 1570-1576. Mond bequest to National Gallery, 1924. Copyright The National Gallery, London.

 2013年3月にアッカデミア美術館(ベネツィア)を訪問しました。今回は、ティッツアーノ・ヴェチェッリオ「ピエタ」を紹介します。
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1488~1576年)はヴェネツィア派、或いはルネッサンスを代表する画家の一人です。
 ティツィアーノ・ヴェチェッリオはヴェネツィア共和国ベッルーノ近郊ピエーヴェ・ディ・カドーレで、ピエーヴェ・ディ・カドーレ城の管理者の長男に生まれました。父親は評議員で軍人と言う名士でした。10歳チョットの時に弟とヴェネツィア在住の叔父の元に行き、ジョヴァンニ・ベリーニの下で修業しました。その後ジョルジョーネの助手となり、やがて共同制作者となりました。ジョルジョーネが1510年に、ベリーニも1516年に死去すると、ティツィアーノ・ヴェチェッリオはヴェネツィア派を代表する画家となりました。晩年にはスペイン王フェリペ2世の下で主に暮らしました。  
 「ピエタ」は当初キリストと聖母マリアを描いただけの作品だった。その後自分の埋葬される教会・礼拝堂で揉めて、一度自分が引き取った。最終埋葬礼拝堂をイメージして、キャンバスと画面を大幅に拡大した。周りの神殿や天使を追加したが、完成前に亡くなった。ティッツアーノの作品模写などで修業していたパルマ・イル・ジョーヴァネ(1549年生まれの27歳)が最低限の加筆で完成させた。経緯は、キリストの下の石の銘文に記されている。
  最晩年の未完成数作品は、この作品と似た色調とラフなタッチで描かれています。作者の若い頃の画風とはかなり違います。最後の上塗りが施されていないのか、80歳を超えた老化(白内障)によるのか、自分の死を予感した画風変化か、飾られる場所(礼拝堂)を意識して粗いタッチにしたか、本人に聞かないと分からない変化です。
ピエタ(ティツィアーノ・ヴェチェッリオ、1576年作)
ピエタ ティッツァーノ作

 2013年3月にパラティーナ美術館(ピッティ宮殿内/フィレンツ)を訪問しました。今回は、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ作「ラ・ベッラ」を紹介します。
 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1488~1576年)はヴェネツィア派を代表する画家の一人です。
 ティツィアーノ・ヴェチェッリオはヴェネツィア共和国ベッルーノ近郊ピエーヴェ・ディ・カドーレで、ピエーヴェ・ディ・カドーレ城の管理者の長男に生まれました。父親は評議員で軍人と言う名士でした。10歳チョットの時に弟とヴェネツィア在住の叔父の元に行き、ジョヴァンニ・ベッリーニの下で修業しました。その後ジョルジョーネの助手となり、やがて共同制作者となりました。ジョルジョーネが1510年に、ベッリーニも1516年に死去すると、ティツィアーノ・ヴェチェッリオはヴェネツィア派を代表する画家となりました。晩年にはスペイン王フェリペ2世の下で主に暮らしました。
 「ラ・ベッラ」はウルビーノ公爵フランチェスコ・マリーア1世デッラ・ローヴェルのコレクションの中の「青い衣装の貴婦人」に対応していると考えられています。ヴェネツィア滞在中に購入したと推定されています。モデルの女性は、「ウルビーノのヴィーナス」や「毛皮を着た貴婦人」のモデルと同じ人物というのが定説です。「ラ・ベッラ」の意味は、「お気に入り」とか「最愛の人」です。
 当時カソリック教は、裸婦モデルという職業を認めていません。当時の裸婦モデルは妻・愛人・家族のどれかだと思います。ティツィアーノ・ヴェチェッリオの愛人は画家(弟子)のパルマ・イル・ヴェッキオ(1480~1528年)の娘ヴィオランテです。この女性がモデルとして一番可能性が高いと思います。ただ研究者の一部から否定されています。別のグループ(別の時期の1510~20年)の作品のモデルがヴィオランテだと考えているようです。だから、「ラ・ベッラ」のモデルは別人だと考えているようです。私は、そちらの方が別人で、「ラ・ベッラ」のモデルがヴィオランテだと思います。
理由の1;
 
パルマ・イル・ヴェッキオは1510年頃にヴェネツィアに来たようです。1511年に(31歳で)ジョヴァンニ・ベッリーニの弟子のアンドレア・プレヴィターリド(1480~1528年)に弟子入りしたようです。31歳で同世代(生没が同じ)画家に弟子入りした、晩成型画家です。恐らく晩婚だったと思います。1510~20年の間に結婚して娘が生まれたとして、1535年前後に娘(ヴィオランテ)が20歳前後だと思います。「ラ・ベッラ」の時期(1536年)に、20歳前後でピッタリです。逆に1510~20年は精々幼児の年齢です。「ヴィオランテ」のモデルの女性は、別人です。
理由の2;
 
パルマ・イル・ヴェッキオの肖像素描が残っています。眼の辺りを比較すると、「ラ・ベッラ」の女性と共通性を感じます。「ヴィオランテ」の女性の目元も少し似ていますが、ふっくらしています。ヴィオランテの母親(パルマ・イル・ヴェッキオの妻・愛人)の可能性を感じます。パルマ・イル・ヴェッキオもこの女性をモデルに、何作品か描いています。
 ラファエロも裕福になって、愛人(パン屋の娘)に豪華な衣装と装身具を身に着けて描いています。
ティツィアーノ・ヴェチェッリオも同じように描いたのでしょう。  
ラ・ベッラ(ティツィアーノ・ヴェチェッリオ、1536年作)
Tizian_sabella d'Este
ウルビーノのヴィーナス
(ティツィアーノ・ヴェチェッリオ、1538年作、ウフィツイ美術館蔵)

毛皮を着た貴婦人(ティツィアーノ・ヴェチェッリオ、1535年作、ウィーン美術史博物館蔵)
ヴィオランテ(ティツィアーノ・ヴェチェッリオ、1510~15年作、ウィーン美術史博物館蔵)

パルマ・イル・ヴェッキオの肖像


 2012年7月にルーヴル美術館(パリ)を訪問しました。今回は、伝ティッツァーノ・ヴェチェッリオ作「田園の奏楽」を紹介します。
 ティッツァーノ・ヴェチェッリオ(1490年頃~1576年)はヴェネツィア近郊で、ピエーヴェ・ディ・カドーレ城管理者で鉱山経営者・評議員・軍人上がりの父親の長男として生まれました。弟共にヴェネツィアのジョヴァンニ・ベッリーニに弟子入りして、ジョルジョーネの助手・共同制作者となりました。1510年にジョルジョーネが夭折すると、共同作品など完成させました。その中に有名な「眠れるヴィーナス」があります。ジョルジョーネが手掛けていた作品を、ジョルジョーネ死去後にティッツアーノが完成させたと伝わります。
 「田園の奏楽」も長らくジョルジョーネ作とされていましたが、20世紀にティッツアーノの筆使いが見られるという事で、ティッツアーノ・ヴェチェッリオ作とされています。私の眼からは、背景の描き方、裸婦の腰回り描き方、やや平面的な顔の描き方、全体色調などにジョルジョーネの特徴がみられます。逆にティッツアーノ作品で最もこの作品に近いのは、1514年作の「
ノリ・メ・タンゲレ」ですが、それでも体つきや容貌がだいぶ違います。制作時期からも私には「ジョルジョーネの完成間近な作品をティッツアーノが完成させた。」思えます。
田園の奏楽(伝ティッツァーノ・ヴェチェッリオ、1510年頃作)
イメージ 18
 この作品は兄弟子のジョルジョーネ作と伝わっていましたが、現在はティッツァーノ作というのが定説になったようです。
エマオの夕食(ティッツァーノ・ヴェチェッリオ、1530年作)
イメージ 22
眠れるヴィーナス(ジョルジョーネ、1510年頃作、アルテ・マイスター絵画館蔵)

テンペスタ(ジョルジョーネ作、1508年頃作、アカデミア美術館蔵)

ノリ・メ・タンゲレ
(ティッツァーノ・ヴェチェッリオ、1514年頃作、ロンドン・ナショナルギャラリー蔵)


 2015年4月にロンドン・ナショナルギャラリーを訪問しました。今回は、ティツィアーノ・ヴェチェリオ作「バッカスとアリアドネ」を紹介します。
 ティツィアーノ・ヴェチェリオ(1490年頃~1576年)はピエーヴェ・ディ・カドーレ城管理責任者兼鉱山管理責任者の長男に生まれました。弟とともに、ジョヴァンニ・ベリーニの下で修業しました。兄弟子のジョルジョーネの助手をした後、独立しました。
 「バッカスとアドリアネ」はフェラーラ公爵アルファンソ・テスト依頼のバッカス祭3連作の2作目の作品です。1作目が「ヴィーナスへの奉献」、3作目が「アンドロス島の人々」です。宮殿の装飾の為ラファエロ・サンティに「バッカスの勝利」を依頼していたが、1520年にラファエロが亡くなりました。ティツィアーノ・ヴェチェリオが引き継いで、三連作を完成させました。他の2作品も紹介します。
  ギリシャ神話によるとクレタ王女アリアドネはテセウスが怪物退治するのに協力しましたが、ナクソス島に置き去りにされました。二匹の豹に引かせた戦車に乗り、バッカスが登場しました。その後二人は結ばれました。バッカスが到着して戦車から飛び降りる場面が描かれています。
バッカスとアリアドネ(ティッツァーノ、1520~23年作)

ヴィーナスへの奉献
ティツィアーノ・ヴェチェリオ、1518~19年作、プラド美術館蔵

アンドロス島の人々
ティツィアーノ・ヴェチェリオ、1523~24年作、プラド美術館蔵

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