世界美術館巡り旅

世界の美術館・旅行・画家・絵画の情報共有サイト

カテゴリ:巨匠の傑作 > ルーベンス

 2013年3月にブレラ美術館(ミラノ)を訪問しました。今回は、ピーテル・パウル・ルーベンス作「最後の晩餐」を紹介します。
 ピーテル・パウル・ルーベンス(1577~1640年)はドイツ西部で、アントウェルペン出身のプロテスタントの家に生まれました。父の死後家族とアントウェルペンに戻りました。13歳で伯爵未亡人の下へ小姓として出されました。伯爵未亡人がピーテルの芸術的素養を見込んで、アントウェルペンの聖ルカ組合に入会させました。その後三人の画家に師事しました。1600~1608年の間、イタリアとスペインで古典の模写などで学びました。その後アントウェルペンに戻り、工房(ルーベンスの家)を設け、数々の宗教画、肖像画を描きました。 ピーテル・パウル・ルーベンス(1577~1640年)はドイツ西部で、アントウェルペン出身のプロテスタントの家に生まれました。父の死後家族とアントウェルペンに戻りました。13歳で伯爵未亡人の下へ小姓として出されました。伯爵未亡人がピーテルの芸術的素養を見込んで、アントウェルペンの聖ルカ組合に入会させました。その後三人の画家に師事しました。1600~1608年の間、イタリアとスペインで古典の模写などで学びました。その後アントウェルペンに戻り、工房(ルーベンスの家)を設け、数々の宗教画、肖像画を描きました。
 「最後の晩餐」はカテリーネ・レスクイエルが、彼女の父親の記念の為委嘱したと伝わります。アントウェルペン近くのメへレンの聖ロンバウツ教会の祭壇画の一部として描かれました。キリストはパンを手に持ち、卓上に赤ワインが置かれています。まさにイエスの血と肉です。
 準主役の位置づけのイスカリオテのユダは体をひねって、鑑賞者の方を見ています。顎に手を当て、何か言いたげです。ユダの足元には、犬が骨を加えて鑑賞者を見ています。犬は信教の見張り役です。イエスと十二使徒一行の会計係だったイスカリオテのユダが、祭司長に銀貨30枚でイエスを売り渡しました。イエスはそれを予知していたのに、そうさせました。非常に理解しがたい事件です。
 ユダはイエスのもう一段上のヤハウェの信奉者だったとも伝わります。ヤハウェはイエスの贖罪を立案・企画した神です。ユダが祭司長に密告しないと、贖罪(イエスの磔刑)が行われません。ユダはヤハウェの意志に従い、自分の役割を果たしたのです。ルーベンスはレオナルド・ダ・ヴィンチ作「最後の晩餐」をよく勉強して、自分なりの理解と創作を摸索していたようです。ルーベンスの理解は、「ユダも神の意志に従い行動した。」だったようです。作品中のユダは鑑賞者に対して、「貴方だったらどうする?」と問いかけているのです。
 疑問は、「委嘱主の(恐らく金持ちで名家出身の)女性はこの作品を何故望んだのか・許容したのか?」と「聖ロンバウツ教会はこの作品を主祭壇に飾り続けたのか?」です。
 メへレンは、商人・漁民・職人が中心の街だったようです。司教と大公の争いに便乗して、自治を勝ち取っていたようです。市庁や参審人会館(裁判所)もあったようです。教皇・王の権威の下裁判をするのではなく、名家の市民代表が裁判をする事になります。カテリーネ・レスクイエルの父親が審議官・裁判官だったならば、市民や被告の反感を買う判決をしたかもしれません。父の汚名を回復したい彼女が、「ユダさえも、神の意志の下に正しく行動した。父親は神の意志で、市民に恨まれたかも知れない判断をした。正義の為に、憎まれ役を務めた。」と主張したかったのかもしれません。この絵は「正義画」なのではないかと思います。市民・信徒は後から、「彼女の父親は正義に従って判決を下した。」と共感を持った。だから、飾り続けられた。そう思いたいのですが、読者の皆様はどうでしょうか?
 作品はルーベンスが下描きして、工房が彩色した。ルーベンスが最後に仕上げたという風に見えます。キリストとユダの顔はルーベンスが仕上げた。その他の使徒の顔は、ヤコブ・ヨルダーンスが描いたように思えますが・・・。彼は、ルーベンス工房の下請けもやっていたようです。
最後の晩餐(ピーテル・パウル・ルーベンス、1632年作)

聖ロンバルド

 2013年3月にパラティーナ美術館(ピッティ宮殿内/フィレンツ)を訪問しました。今回は、ピーテル・パウル・ルーベンス作「戦争の恐怖」を紹介します。
 ピーテル・パウル・ルーベンス(1577~1640年)は、ドイツ ケルン郊外のジーゲンで生まれました。父はネーデルランド総督のプロテスタント迫害を避けて、アントウェルペンからケルンに逃れて来た法律家でした。父親が1587年に亡くなると、家族は間もなくアントウェルペンに戻りました。
 生活が苦しく、ピーテル・パウル・ルーベンスは1590年(13歳)にフィリップ・ファン・ラレング未亡人の小姓に出されました。そこで芸術的素養を認められ、アントウェルペンの画家に弟子入りすることになりました。その後経緯は良く分かりませんが、合計3人の画家に師事しました。ハンス・ホルバインの木版画やラファエロの絵画模写で修業したようです。
 1598年(21歳)でアントウェルペンの画家ギルドの聖ルカ組合に入会しました。1600年にマントヴァ公の支援でイタリアに留学して、有名作品の模写をしました。1603年にマントヴァ公から外交官としてスペインに派遣され、ラファエロやティッツアーノの名品を見る機会を与えられました。1604年から4年間再度イタリア留学をしました。母が倒れた為、1608年にアントウェルペンに帰国しました。アントウェルペンで工房を構える許可を得て、1610年に工房(現在のルーベンスの家)を建てました。工房にアンソニー・ヴァン・ダイクが弟子入りして、ルーベンスが亡くなった後には工房を引き継ぎました。
 「戦争の恐怖」はフェルディナンド2世・デ・メディチの為に描かれました。兜・盾・剣を身に着けた軍神マルスを、ヴィーナスが押しとどめています。マルスは書物を踏みつけ、音楽奏者や庶民を押し倒しています。まさに戦争の恐怖を表しています。
 当時ドイツでカソリック教会派とプロテスタント派の争いが起こったのが切っ掛けで、ヨーロッパじゅうで独立戦争や領地争いが続きました。三十年戦争と呼ばれました。ネーデルランドの外交官もしていたルーベンスが、フェルナンド2世・デ・メディチの為にこの絵を描きました。イタリアのトスカーナ大公にこの全面戦争を終息させる力はありません。恐らく弟の枢機卿と共に、ローマ教皇に戦争終結の働きかけをする事を期待したのだと思います。
戦争の恐怖(ピーテル・パウル・ルーベンス、1637年作)
聖家族(ピーテル・パウル・ルーベンス作)
Rubens,聖家族
 大傑作とまでは言えないですが、名品・傑作が多数所蔵・展示されていました。

 2019年7月にフランス・ノルマンデイ地方ルーアンにあるルーアン美術館を訪問しました。今回は、ピーテル・パウル・ルーベンス工房作「羊飼いの礼拝」を紹介します。
 ピーテル・パウル・ルーベンス(1577~1640年)は、ドイツ ケルン郊外のジーゲンで生まれました。父はネーデルランド総督のプロテスタント迫害を避けて、アントウェルペンからケルンに逃れて来た法律家でした。父親が1587年に亡くなると、家族は間もなくアントウェルペンに戻りました。生活が苦しく、ピーテル・パウル・ルーベンスは1590年(13歳)にフィリップ・ファン・ラレング未亡人の小姓に出されました。そこで芸術的素養を認められ、アントウェルペンの画家に弟子入りすることになりました。その後経緯は良く分かりませんが、合計3人の画家に師事しました。ハンス・ホルバインの木版画やラファエロの絵画模写で修業したようです。
 1598年(21歳)でアントウェルペンの画家ギルドの聖ルカ組合に入会しました。1600年にマントヴァ公の支援でイタリアに留学して、有名作品の模写をしました。1603年にマントヴァ公から外交官としてスペインに派遣され、ラファエロやティッツアーノの名品を見る機会を与えられました。1604年から4年間再度イタリア留学をしました。母が倒れた為、1608年にアントウェルペンに帰国しました。アントウェルペンで工房を構える許可を得て、1610年に工房(現在のルーベンスの家)を建てました。工房にアンソニー・ヴァン・ダイクが弟子入りして、ルーベンスが亡くなった後には工房を引き継ぎました。
 1615年~25年の間には制作依頼が多く、自分の工房だけではこなせない状態でした。外部の工房や画家に委託する状態でした。1610年に工房(現在のルーベンスの家)を構えました。それから弟子を養成したと思われます。それ以前の作品は、ルーベンスが自分で描いた可能性が高い。羊飼いの礼拝も、1608年、1609年の作品はその迫力からルーベンスが殆ど描いたと見えます。このルーアン所蔵品(1619年)は少しおとなしくてボケた画風です。ルーベンス自身の寄与は少ないと思われます。この画風は、ルーベンス作と言われる幾つかの作品にみられます。ルーベンスの弟子や共作者画家の作品を見てみたのですが、該当しそうな作者が見つかりませんでした。とりあえず、ルーベンス工房作品としました。
羊飼いの礼拝(ピーテル・パウル・ルーベンス工房、1619年作)
Rubens-adoration-bergers-rouen[1]
羊飼いの礼拝(ピーテル・パウル・ルーベンス、1608年作、フェルモ市民絵画館蔵)

羊飼いの礼拝(ピーテル・パウル・ルーベンス、1609年作、聖パウルス教会蔵)

 2012年7月にルーヴル美術館(パリ)を訪問しました。今回は、ピーテル・パウル・ルーベンス作「東方三博士の礼拝」を紹介します。
 ピーテル・パウル・ルーベンス(1577~1640年)はドイツ西部で、アントウェルペン出身のプロテスタントの家に生まれました。父の死後家族とアントウェルペンに戻りました。13歳で伯爵未亡人の下へ小姓として出されました。伯爵未亡人がピーテルの芸術的素養を見込んで、アントウェルペンの聖ルカ組合に入会させました。その後三人の画家に師事しました。1600~1608年の間、イタリアとスペインで古典の模写などで学びました。その後アントウェルペンに戻り、工房(ルーベンスの家)を設け、数々の宗教画、肖像画を描きました。
 ルーベンスは生涯に亘り、多くの「東方三博士の礼拝」を描きました。カソリック教の祭壇画に相応しいと人気の高い画題だったようです。ルーベンスは多くの「東方三博士の礼拝」を描いていますが、1609年作プラド美術館所蔵品は、画面全面にルーベンスの画風・筆致を感じます。恐らく、全面ルーベンス一人で描いたと思われます。リヨン美術館所蔵品とアントウェルペン王立美術館所蔵品は、なんとなくヨルダーンスの画風を感じます。ルーベンスが下絵を描いて、ヨルダーンスが描いたと思われます。ルーベンス下絵+ヨルダーンス描画+ルーベンス仕上げという契約は、記録にもあるようです。
 ルーヴル美術館所蔵の本作品は、ブリュッセルのアノンシアード修道女会教会の主祭壇の為に描かれました。ルーベンスがデッサンと下絵を描いた、ルーベンス工房作品と見えます。気のせいか、ヨルダーンスの画風を感じる人物も描かれています。前方の四人には、ルーベンスの筆が入っているように感じます。全体の雰囲気を壊さない程度に慎重に加筆したのかなと思います。専門家ではないので、個人的な感想です。
東方三博士の礼拝(ピーテル・パウル・ルーベンス、1626~27年作)
村祭り(ピーテル・パウル・ルーベンス作)
イメージ 21
東方三博士の礼拝
(ピーテル・パウル・ルーベンス、1609年作、プラド美術館蔵)

東方三博士の礼拝
(ピーテル・パウル・ルーベンス、1618~19年作、リヨン美術館蔵)

東方三博士の礼拝
(ピーテル・パウル・ルーベンス、1619年作、聖ヨハネ教会所蔵)

東方三博士の礼拝
(ピーテル・パウル・ルーベンス、1624年作、アントウェルペン王立美術館蔵)

 2017年6月にリヨン美術館(リヨン)を訪問しました。今回は、ピーテル・パウル・ルーベンス作「東方三博士の礼拝」を紹介します。
 ピーテル・パウル・ルーベンス(1577~1640年)はドイツ西部で、アントウェルペン出身のプロテスタントの家に生まれました。父の死後家族とアントウェルペンに戻りました。13歳で伯爵未亡人の下へ小姓として出されました。伯爵未亡人がピーテルの芸術的素養を見込んで、アントウェルペンの聖ルカ組合に入会させました。その後三人の画家に師事しました。1600~1608年の間、イタリアとスペインで古典の模写などで学びました。その後アントウェルペンに戻り、工房(ルーベンスの家)を設け、数々の宗教画、肖像画を描きました。
 ルーベンスは「東方三博士の礼拝」を何回か描いています。プラド美術館所蔵品も紹介します。1609年作とされていますが、アントウェルペンに戻って直ぐの頃の作品です。画面全面がルーベンスらしい色調と確かな画力で描かれています。恐らくルーベンスが全面描いたと思われます。
 リヨン美術館の「東方三博士の礼拝」は前方の主要人物だけをルーベンスが描いたように思えます。後方の人物や背景は、ヤーコブ・ヨルダーンスの画調を思い出させます。記録によると、ルーベンスの下絵を拡大して作品に仕上げる仕事を、ヤーコブ・ヨルダーンスがしていたようです。この作品も、ルーベンス下絵+ヤーコブ・ヨルダーンス拡大+前方主要人物をルーベンス描いた合作のような気がします。ルーベンスはヤン・ブリューゲルとの合作が確認された作品もあるようです。
 リヨン美術館は「聖スティファンの石打ち」も所蔵していますがルーベンスらしさが薄く、ルーベンス工房の作品のような気がします。
東方三博士の礼拝(ピーテル・パウル・ルーベンス、1617~18年作)

聖スティファンの石打ち(ピーテル・パウル・ルーベンス、1625年作)

東方三博士の礼拝(ピーテル・パウル・ルーベンス、1609年作、プラド美術館)

↑このページのトップヘ