2012年7月にルーヴル美術館(パリ)を訪問しました。今回は、レンブラント・ファン・レイン作「ダビデ王の手紙を手にしたバティシバ」を紹介します。
レンブラント・ファン・レイン(1606~1669年)はバロック期のオランダ人画家です。集団肖像画の作品が有名で、特に「夜警」は世界三大絵画に選ばれるくらいです。オランダのライデンで、製粉業者の9番目の子として生まれました。1620年ライデン大学に飛び級入学を許されました。やがて画家を志向して、アムステルダムで高名な歴史画家だったピーテル・ラストマンに師事しました。ライデンに帰郷後アトリエ・工房を構え、弟子も多く抱えました。当初は宗教的テーマの絵を描きました。
旧約聖書に「イスラエル王ダビデがヒッタイト人ウリヤの妻の入浴場面を見て横恋慕の上、夫のウリヤを戦地に行かせて敵地に残しました。その後、バティシバを妃にした。」と記されています。かなり特徴的に描き方をしています。手紙を見たバティシバは悲しそうで、落ち込んでいます。夫のウリヤが戦死したという手紙でしょうか?バティシバの膝のチョット上から、脚の肌の色をくすませて描いています。水に未だ濡れていると表現したのでしょうか?侍女が拭いている右足先は色が戻っているので、乾いたと描いているのでしょうか?推定する為に、レンブラントの私生活を整理してみます。
レンブラントはアムステルダムで名士・金持ちの娘のサスキアと結婚しました。子供は殆ど短命で、四番目の子供の息子一人だけが育ちました。1642年にサスキアが亡くなりました。亡くなる直前に遺書を書き、「遺産は息子と夫で半々に、夫が再婚したら全て息子に相続させる」という内容でした。レンブラントをあまり信用していなかったようです。息子の養育の為農家の未亡人ヘールトヘ・ディルクを家政婦として雇いましたが、やがて愛人関係となりました。1649年に若い家政婦ヘンドリッキエ・ストッフェルド・ヤーレルを雇いましたが、やがて愛人関係となりました。前の家政婦は贈られた宝石類を証拠に、婚約していたと訴えました。その訴えが認められ、毎月生活費を渡す判決が出ました。その家政婦が贈った宝石類を勝手に売ったと訴えて、今度はその家政婦が施設に入れられました。1654年はその騒ぎが治まり、若い家政婦と同棲しました。サスキアの遺言書があり、正式な結婚はしませんでした。1654年作の「ヘンドリッキエ・ストッフェルド・ヤーレルの肖像」もルーヴル美術館が所蔵しています。更に同じ年に弟子のウイレム・ドロステもバティシバをテーマに作品を描いていますが、そちらは妖艶に描いています。
レンブラントは女性問題が小康状態となり、自分の状況を描いたのか、自分なりの理想的妻を描いたのかだと思います。
メトロポリタン美術館所蔵の「沐浴するバティシバ」は画力が少し劣っているのと、画題の場面に対して周りが空き過ぎているのが気になります。レンブラントならキャンバスを切って、好ましいサイズに縮めたような気がします。真贋再評価が必要な作品と思えます。
レンブラント・ファン・レイン(1606~1669年)はバロック期のオランダ人画家です。集団肖像画の作品が有名で、特に「夜警」は世界三大絵画に選ばれるくらいです。オランダのライデンで、製粉業者の9番目の子として生まれました。1620年ライデン大学に飛び級入学を許されました。やがて画家を志向して、アムステルダムで高名な歴史画家だったピーテル・ラストマンに師事しました。ライデンに帰郷後アトリエ・工房を構え、弟子も多く抱えました。当初は宗教的テーマの絵を描きました。
旧約聖書に「イスラエル王ダビデがヒッタイト人ウリヤの妻の入浴場面を見て横恋慕の上、夫のウリヤを戦地に行かせて敵地に残しました。その後、バティシバを妃にした。」と記されています。かなり特徴的に描き方をしています。手紙を見たバティシバは悲しそうで、落ち込んでいます。夫のウリヤが戦死したという手紙でしょうか?バティシバの膝のチョット上から、脚の肌の色をくすませて描いています。水に未だ濡れていると表現したのでしょうか?侍女が拭いている右足先は色が戻っているので、乾いたと描いているのでしょうか?推定する為に、レンブラントの私生活を整理してみます。
レンブラントはアムステルダムで名士・金持ちの娘のサスキアと結婚しました。子供は殆ど短命で、四番目の子供の息子一人だけが育ちました。1642年にサスキアが亡くなりました。亡くなる直前に遺書を書き、「遺産は息子と夫で半々に、夫が再婚したら全て息子に相続させる」という内容でした。レンブラントをあまり信用していなかったようです。息子の養育の為農家の未亡人ヘールトヘ・ディルクを家政婦として雇いましたが、やがて愛人関係となりました。1649年に若い家政婦ヘンドリッキエ・ストッフェルド・ヤーレルを雇いましたが、やがて愛人関係となりました。前の家政婦は贈られた宝石類を証拠に、婚約していたと訴えました。その訴えが認められ、毎月生活費を渡す判決が出ました。その家政婦が贈った宝石類を勝手に売ったと訴えて、今度はその家政婦が施設に入れられました。1654年はその騒ぎが治まり、若い家政婦と同棲しました。サスキアの遺言書があり、正式な結婚はしませんでした。1654年作の「ヘンドリッキエ・ストッフェルド・ヤーレルの肖像」もルーヴル美術館が所蔵しています。更に同じ年に弟子のウイレム・ドロステもバティシバをテーマに作品を描いていますが、そちらは妖艶に描いています。
レンブラントは女性問題が小康状態となり、自分の状況を描いたのか、自分なりの理想的妻を描いたのかだと思います。
メトロポリタン美術館所蔵の「沐浴するバティシバ」は画力が少し劣っているのと、画題の場面に対して周りが空き過ぎているのが気になります。レンブラントならキャンバスを切って、好ましいサイズに縮めたような気がします。真贋再評価が必要な作品と思えます。
ダビデ王の手紙を手にしたバテシバの水浴
(レンブラント・ファン・レイン、1654年作)
(レンブラント・ファン・レイン、1654年作)










