世界美術館巡り旅

世界の美術館・旅行・画家・絵画の情報共有サイト

カテゴリ:巨匠の傑作 > カラヴァッジョ

 2013年3月にパラティーナ美術館(ピッティ宮殿内/フィレンツ)を訪問しました。今回は、カラヴァッジョ作「眠るアモール」を紹介します。
 ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(1571~1610年)はミラノで三人兄弟の長男として生まれました。父親は、イタリア北部ベルガモのカラヴァッジョ侯爵家の邸宅管理と室内装飾を担当していました。1576年に(5歳で)一家でペストを避けて、ミラノからカラヴァッジョ村に移り住みました。翌年に父親が、1584年に母親が亡くなりました。1584年に(13歳で)ティツアーノの弟子だったシモーネ・ペテルツァーノに弟子入りして、4年間修業しました。1592年に(21歳で)恐らく喧嘩で役人を負傷させ、ミラノを飛び出しました。ローマに移り、ジュゼッペ・チェーザリの助手を務めました。静物画や人物画の注文が入るようになりました。1594年に(23歳で)病気でチェーザリの工房を解雇され、独り立ちしました。1595年から宗教画の注文を受けるようになりました。コンタレッリ礼拝堂の室内装飾を受注し、「聖マタイの殉教」と「聖マタイの召命」が大評判となりました。暴力的表現の宗教画の注文が増えました。
 1606年に(35歳で)一人の若者を殺害して殺人犯となり、ローマからナポリへ逃亡しました。更にマルタ騎士団を頼ってマルタい移りました。1608年に(37歳で)マルタで投獄された上、脱獄しました。シチリアの首都パレルモに逃れましたが、やがてナポリに戻りました。知人の根回しで恩赦を得られる見込みとなり、ナポリからローマに向かう船の中で亡くなりました。鉛中毒であった可能性が高いようです。当時の画家の職業病だったようです。
 「眠るアモール」はマルタ騎士団統領アロフ・ド・ヴィニャクールから、フィレンツェ出身の書記兼騎士のフラ・フランチェスコ・デランテッラに贈る為に委嘱されました。アモールは愛の象徴で、キューピッドに当たります。弓の弦が切れて矢も脇に投げ出され、アモールが寝ています。贈られるフラ・フランチェスコ・デランテッラの「フラ」は修道士の意味です。名前の頭は、修道士フランチェスコです。世俗的喜びを放棄して、マルタ騎士団に加わったのでしょう。書記の仕事に邁進するよう、励ましの贈り物でしょう。作品の裏に珍しく制作年も書かれているようです。
眠るアモール
(ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ、1608年作)

 2013年3月にパラティーナ美術館(ピッティ宮殿内/フィレンツ)を訪問しました。今回は、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ作「フラ・アントニオ・マルテッリの肖像」を紹介します。
 ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(1571~1610年)は絵画史上最も上手い画家の一人で、最も喧嘩っ早かった画家でしょう。
 カラヴァッジョはミラノで三人兄弟の長男として生まれました。父親は、イタリア北部ベルガモのカラヴァッジョ侯爵家の邸宅管理と室内装飾を担当していました。1576年に(5歳で)一家でペストを避けて、ミラノからカラヴァッジョ村に移り住みました。翌年に父親が、1584年に母親が亡くなりました。1584年に(13歳で)ティツアーノの弟子だったシモーネ・ペテルツァーノに弟子入りして、4年間修業しました。1592年に(21歳で)恐らく喧嘩で役人を負傷させ、ミラノを飛び出しました。ローマに移り、ジュゼッペ・チェーザリの助手を務めました。静物画や人物画の注文が入るようになりました。1594年に(23歳で)病気でチェーザリの工房を解雇され、独り立ちしました。1595年から宗教画の注文を受けるようになりました。コンタレッリ礼拝堂の室内装飾を受注し、「聖マタイの殉教」と「聖マタイの召命」が大評判となりました。暴力的表現の宗教画の注文が増えました。
 1606年に(35歳で)一人の若者を殺害して殺人犯となり、ローマからナポリへ逃亡しました。更にマルタ騎士団を頼ってマルタに移りました。いざこざで1608年に(37歳で)マルタで投獄された上、脱獄しました。シチリアの首都パレルモに逃れましたが、やがてナポリに戻りました。知人の根回しで恩赦を得られる見込みとなり、ナポリからローマに向かう船の中で亡くなりました。鉛中毒であった可能性が高いようです。当時の画家の職業病だったようです。
 カラヴァッジョのトラブルを調べると、数人と数人の争いが結構多いです。原因は画家仲間の画法・画風の無断使用や誹謗・悪口が多そうです。女性(娼婦?)の取り合いもあったそうです。要するに数人同士の喧嘩で、カラヴァッジョは手加減が出来ないようです。最後まで本気でやるので、殺したり怪我させたりしたようです。
 「フラ・アントニオ・マルテッリの肖像」は画風・画力から、カラヴァッジョ真筆で異論は無いようです。モデルは色々説があって、恐らくフラ・アントニオ・マルテッリの肖像だろうという事です。フラ・アントニオ・マルテッリは1558年にマルタ騎士団の騎士に任命され、その後数々の役職に就いたようです。カラヴァッジョとしてはアッサリト描かれており、何らかの作品の為の習作ではないかと言う研究者が居るようです。
 カラヴァッジョの他の作品と比べると、黒い背景が仕上げられていない。キャンバスの繋ぎ目のような線が見えてしまっている上、黒の描き分けでの奥行き感が出ていない。絵の具表面がテカリ具合が、違う。恐らく未完成と思われます(仕上げの一塗りがされていない)。
 カラヴァッジョはこの年の8月頃騒ぎを起こし、投獄されました。11月に除名され、その後脱獄してシチリアへ逃げたようです。その影響で、未完成だったのではと思います。
フラ・アントニオ・マルテッリの肖像(カラヴァッジョ、1608年作)
フラ・アントニオ・マルテッリの肖像 カラヴァッジョ

 2012年7月にルーヴル美術館(パリ)を訪問しました。今回は、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ作「聖母の死」を紹介します。
 ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(1571~1610年)はミラノで生まれ、その後父親が亡くなりました。1584年に(13歳の時に)母親も亡くなり、画家の工房で修行しました。1592年に(21歳で)ミラノで役人を負傷させ、ローマに逃げました。その後装飾用絵画を描いて評判を得て、1595年頃から宗教画を描き始めました。1599年にカラヴァッジョ風の描き方を確立しました。その後は大評判の宗教画を描き続けました。カラヴァッジョの特徴は極端な写実主義と、背景を暗めにすることで光を感じさせる画法、ポーズなどで一瞬を切り取ったと感じさせる画面作りが特徴です。
 「聖母の死」はローマのサンタ・マリア・デッラ・スカラ教会礼拝堂に飾る為、カラヴァッジョに制作依頼がありました。カラヴァッジョは聖母の死んだ姿と使徒の悲しみをリアルに描きました。教会では聖母は死んだのではなく昇天した(聖母被昇天)と教えていたので、それに反するものでした。この作品を飾ると信徒には大評判となったようですが、教義に反すると受け取り拒否(返品)されました。その後マントヴァ公爵ゴンザーガが購入しました。画面が暗いですが、カラヴァッジョらしい傑作のひとつです。
 ルーヴル美術館はカラヴァッジョ作とされる「女占い師」も所蔵しています。同名の作品をカピトリーナ美術館も所蔵しています。両作品とほぼ同じ時期に描かれた「トランプ詐欺師」も紹介します。素晴らしい画力です。この素晴らしい作品を描ける画家が、「女占い師」を描いたとは到底思えません。恐らくカラヴァッジョが描いた「女占い師」は別にあったと思われます。
 ルーヴル美術館所蔵「女占い師」では、騎士少年の右手の現れる方向がおかしいです。肘を普通に下げていたら、右手はもっと下から出てくるはずです。肘を外側に張っていたら、もっと手前に向かって右手が出て来る筈です。この右手の出てくる方向になるのは、右ひじを相当後ろに引いた場合です。人に右手を差し出す時に、普通肘は前に出すような気がします。更に女占い師の顔がまともに描けていません。美人の女占い師に騙されて、少年が指輪を盗まれるストーリーだと考えられています。女占い師の美貌がこの作品のハイライトなので、カラヴァッジョがこんな描き方をするとは思えない。未完成の可能性も考えてみましたが、チョット考えにくい。カピトリーナ美術館所蔵品は、更にレベルが低い。
 カラヴァッジョ追従者がカラヴァッジョ作品を短時間見て、記憶で描いたのかと思うレベルです。
聖母の死(カラヴァッジョ、1604~06年作)

女占い師(伝カラヴァッジョ、1595年作)

女占い師(伝カラヴァッジョ、1594年作、カピトリーナ美術館蔵)

トランプ詐欺師(カラヴァッジョ、1594年作、キンベル美術館蔵)

 2015年4月にロンドン・ナショナルギャラリーを訪問しました。今回は、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ作「エマオの晩餐」を紹介します。
 ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(1571~1610年)はミラノで生まれ、その後父親が亡くなりました。1584年に(13歳の時に)母親も亡くなり、画家の工房で修行しました。1592年に(21歳で)役人を負傷させ、ローマに逃げました。その後装飾用絵画を描いて評判を得て、1595年頃から宗教画を描き始めました。1599年にカラヴァッジョ風の描き方を確立しました。その後は大評判の宗教画を描き続けました。カラヴァッジョの特徴は極端な写実主義と、背景を暗めにすることで光を感じさせる画法、ポーズなどで一瞬を切り取ったと感じさせる画面作りが特徴です。
 聖書によると、イエスが磔刑後に復活して最初に現れたのがエマオです。イエスの弟子の一人クレオパとその弟子が旅路の途中で青年と出会い、夕食に誘いました。晩餐の際青年のパンを取り分ける仕草をみて、イエスだとクレオパは確信しました。パン取り分け終わるとイエスは消えたと書かれています。カラヴァッジョ作「エマオの晩餐」では、パンを取り分けたイエスにクレオパが気づいた瞬間を描いています。クレオパの驚きは、その腕と手で表現しました。カラヴァッジョの絵は、登場人物とその視線で劇的場面を表現しています。右端のクレオパはイエスの左右の手を見つめています。イエスはパン三つを見ています。左端のクレオパの弟子は、イエスとクレオパの顔を見ています。左奥の宿屋の主は、イエスとクレオパの様子を見ています。この奇跡の重要な証人の位置づけです。色調は、同時期作品の「聖マタイの召命」と「エジプト逃避行途上の休息」と類似しています。カラヴァッジョの特徴の明暗のコントラストから光を感じさせます。そして劇的です。カラヴァッジョの真作で間違いないと感じます。不思議なのは右のクレオパの右手がチョット大きすぎるように感じます。読者の皆様はどう感じますでしょうか?不思議ですが、「弘法も筆の誤り」の一種でしょうか?
 カラヴァッジョ作と伝わる「エマオの晩餐」はもう一枚が、ミラノのブレラ美術館に所蔵されています。カラヴァッジョは有名作品を複数枚描いた(模写)の事例があります。同じテーマで違う作品を描いた事例は余りありません。そういう目でブレラ美術館の作品を見直すと、妙な点があります。①絵の具が違うように見えます。明暗のコントラストが弱く、光を強く感じられない。②場面が劇的な一瞬とは言えない。③クレオパの前にパンがない。クレオパの両手はテーブルの端を掴み、緊張している。イエスを恐ろしいもののように見つめている。④イエスの左手がテーブル上にあり、パンを取り分けていない。イエスはクレオパの弟子と何か喋っている。⑤宿屋の主人は手をポケットに突っ込み、イエスの前のパンをぼんやり見ている。奇跡の証人らしくない。⑥右奥の老婆は、クレオパの背中を見ている。手が正しく描かれていない。何のために描き加えたか目的不明。この老婆は、カラヴァッジョ真作か怪しい作品にシバシバ登場する。ブレラ美術館の作品は、カラヴァッジョ派画家の作品に思えますが、読者の皆様はどうでしょうか?
エマオの晩餐(ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ、1601年作)

エマオの晩餐
(伝ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ、1606年作、ブレラ美術館蔵)

聖マタイの召命
カラヴァッジョ、1599~1600年作、サン・ルイジ・ディ・フランチェージ教会蔵

ロレートの聖母(カラヴァッジョ、1604~06年作、サン・タゴスティーノ聖堂蔵)

 2015年4月にテッセン・ボルネミッサ美術館(マドリード)を訪問しました。今回は、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ作「アレキサンドリアの聖カトリーヌ」を紹介します。
 カラヴァッジョは1571年にミラノで生まれ、その後父親が亡くなりました。1584年に(13歳の時に)母親も亡くなり、画家の工房で修行しました。1592年に(21歳で)役人を負傷させ、ローマに逃げました。その後装飾用絵画を描いて評判を得て、1595年頃から宗教画を描き始めました。1600年過ぎにカラヴァッジョ風の描き方を確立しました。その後は大評判の宗教画を描き続けました。カラヴァッジョの特徴は極端な写実主義と、背景を暗めにすることと光を感じさせる画法、ポーズなどで一瞬を切り取ったと感じさせる画面作りが特徴です。
 「アレキサンドリアの聖カトリーヌ」は、カラヴァッジョがフランチェスコ・マリア・デル・モンテ枢機卿のマダーマ宮に住んでいた時に描かれました。カラヴァッジョが入れ込んだローマの娼婦フィリーデ・メラントローニをモデルに描いたと顰蹙を買ったと伝わります。
 聖カトリーヌは高貴な出自で、幻視によりキリスト教に改宗しました。18歳の時ローマ皇帝と対峙しました。多くの哲学者を改宗させました。皇帝は投獄しましたが、皇后や将軍を改宗させました。皇帝はに車裂きの刑を命じましたが、聖カトリーヌが車輪に触った瞬間壊れました。皇帝は斬首刑に処しました。聖カトリーヌは図書館・教育関係者や車輪で生計のたてる人々の守護聖人です。実在したかは、疑われているようです。参考に、ラファエロ作の同画題作品も紹介します。
アレキサンドリアの聖カトリーヌ
(ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ、1598年作)
アレキサンドリアの聖カテリナ カラヴァッジョ
アレキサンドリアの聖カトリーヌ
(ラファエロ・サンツィオ、1507年頃、ロンドン・ナショナルギャラリー蔵)


↑このページのトップヘ