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カテゴリ:巨匠の傑作 > レオナルド・ダ・ヴィンチ

 2013年3月にアッカデミア美術館(ベネツィア)を訪問しました。今回は、レオナルド・ダ・ヴィンチ作「ウィトルウィウス的人体図」を紹介します。
 レノナルド・ダ・ヴィンチは1452年に(イタリア)トスカーナ地方のヴィンチ郊外で生まれました。父はフィレンツェで公証人をしていて、母は(恐らく)農夫の娘のカテリーナでした。暫く母に育てられましたが、1457年(5歳)から母と離れて、父・祖父母・叔父とヴィンチ都市部に住むようになりました。年長の庶子の扱いで複数の継母(正妻)に育てられ、家を継ぐことはありませんでした。1466年(14歳)から1476年(24歳)まで、ヴェロッキオに弟子入りしました。遅くとも1472年(20歳)までには、フィレンツェの聖ルカ組合でマスター(親方)の資格を認められました。マスターになってからも、ヴェロッキオの手助けはしばらく続けたようです。その後注文された宗教画/肖像画を描きました。1498年に有名な壁画の「最後の晩餐」を完成させました。
 1499年第二次イタリア戦争で、フランスがミラノに侵攻しました。ダ・ヴィンチもヴェネツィアへ避難するとともに、軍事技術者として働いたようです。1502年にはチェゼーナの軍事技術者や工兵の長も務めました。フィレンツェやヴァチカンで絵を描くなかで、フランス王のフランソウ1世の知己を得て、彼の別荘に招かれました。やがてそこで息を引き取りました。どうも「最後の晩餐」完成後(46歳)に戦争に巻き込まれて、画業に集中できなくなったようです。
 ウィトルウィウスは古代ローマの建築家で、「人体の調和」を研究しました。レオナルド・ダ・ヴィンチはメモ魔で、ウィトルウィウスの研究成果をメモしました。文字・文章はメモを短時間で盗み見されないように、左右反転で書いています。ウィトルウィウス的人体図は他の画家も描いていますが、レオナルド・ダ・ヴィンチのメモが一番美しいと思います。最も大きい主張は、「美しい人体の身長と両手を開いた長さと等しい」です。それを強調する為、正方形と円を書き込んでいます。それ以外にも身体の寸法の関係を、書き込んでいます。画家は感性で態と寸法・大きさのバランスを時折崩します。ミケランジェロの「ピエタ」の聖母マリアの下半身が巨大化されていたり、パルミジャニーノが左右で幅が違う女性を描いたりしています。レオナルド・ダ・ヴィンチは人体寸法の誇張などはしていないですネ。律儀なんでしょうか。
ウィトルウィウス的人体図(レオナルド・ダ・ヴィンチ、1487年頃作)
662px-Da_Vinci_ウィトルウィウス的人体図
ウィトルウィウス的人体図(チェーザレ・チェザリアーノ、1521年頃作)

 この作品で貴婦人が何故白貂を抱いているのか不思議でした。再評価してみました。
 2017年6月に、クラクフ(ポーランド)を観光しました。ヴァヴェル城に行ったところ、クラクフ国立博物館本館で展示されていると言われました。徒歩15分程で移動して、クラクフ国立博物館本館に行きました。早速「白貂を抱く貴婦人」の展示室に行きました。部屋は非常に暗く、作品に暗めのスポット・ライトが当たっていました。空いていたので近寄って斜めから良く見たところ予想以上に平坦で、絵の具の凹凸はほとんど見られませんでした。かなり短期間で、サラッと描かれたようでした。
 レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519年)は美術史上最も有名な画家の一人です。技術的な資料を多く残しましたが一方、非常に作品が少ない画家です。後半生では「ダ・ヴィンチは絵が(遅くて)描けなくなった。」とまで言われました。
 レオナルド・ダ・ヴィンチは1452年に(イタリア)トスカーナ地方のヴィンチ郊外で生まれました。父はフィレンツェで公証人をしていて、母は(恐らく)農夫の娘のカテリーナでした。暫く母に育てられましたが、1457年(5歳)から母と離れて、父・祖父母・叔父とヴィンチ都市部に住むようになりました。年長の庶子の扱いで複数の継母(正妻)に育てられ、家を継ぐことはありませんでした。1466年(14歳)から1476年(24歳)まで、ヴェロッキオに弟子入りしました。遅くとも1472年(20歳)までには、フィレンツェの聖ルカ組合でマスター(親方)の資格を認められました。マスターになってからも、ヴェロッキオの手助けはしばらく続けたようです。その後注文された宗教画/肖像画を描きました。1498年に有名な壁画の「最後の晩餐」を完成させました。
 1499年第二次イタリア戦争で、フランスがミラノに侵攻しました。ダ・ヴィンチもヴェネツィアへ避難するとともに、軍事技術者として働いたようです。1502年にはチェゼーナの軍事技術者や工兵の長も務めました。フィレンツェやヴァチカンで絵を描くなかで、フランス王のフランソウ1世の知己を得て、彼の別荘に招かれました。やがてそこで息を引き取りました。どうも「最後の晩餐」完成後(46歳)に戦争に巻き込まれて、画業に集中できなくなったようです。
 レオナルド・ダ・ヴィンチはミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァに招かれ、ミラノに移りました。 「白貂を抱く貴婦人」はミラノで仕事をした初期に描かれました。モデルはミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァの愛妾のチェチーリア・ガッレラーニだと言われています。1491年にルドヴィーコ・スフォルツァがベアトリーチェ・デステを妃に迎えて、別居しました。更に3年後に貴族と結婚して、子をもうけました。レオナルド・ダ・ヴィンチは1484年にチェチーリア・ガッレラーニと初めて会って、当時17歳だったと伝わります。この作品の当時は、23歳に当たります。
 ルドヴィーコ・スフォルツァは1490年にベアトリーチェ・デステと婚約し、1491年1月に結婚しています。ベアトリーチェ・デステは非常に聡明で、学者・詩人・芸術家との交流の中心になったようです。1498年に第三子を産んだ際に亡くなったようです。その前にヴェネツィアへ大使として訪れ、ミラノを救う働きをしたようです。レオナルド・ダ・ヴィンチは結婚祝いに彼女の肖像画を贈ったと記録に在ります。レオナルド・ダ・ヴィンチは愛妾のチェチーリア・ガッレラーニよりも、ベアトリーチェ・デステ寄り・シンパだったと思われます。ベアトリーチェ・デステは1490年は15~6歳だった筈で、23歳の愛妾チェチーリア・ガッレラーニを敵意を持っていたと考えられます。ベアトリーチェ・デステと結婚したルドヴィーコ・スフォルツァは徐々に愛妾のチェチーリア・ガッレラーニを遠ざけました。ルドヴィーコ・スフォルツァは1493年に別の貴族と結婚しました。
 画面の白貂をイタチ系の動物と比較すると、体形的にはヨーロッパ・マツケン(貂)が一番近そうです。ただし冬毛が白くはならないようです。この白い個体はアルビノで、非常に珍しいと思われます。更に臭腺から酷い悪臭を放つ可能性があります。臭腺除去手術が確立したのは、20世紀と思われます。更に、同じイタチ種系家畜のフィレットなどのイメージは、「悪臭、騙す、裏切る、泥棒」等悪いものばかりです。この絵の制作意図は、次のように推定します。
 ベアトリーチェ・デステと婚約したミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァにこの絵を提出して、「愛妾チェチーリア・ガッレラーニは確かに知的美人ですが遠ざけて、妃になる若いベアトリーチェ・デステを大事にした方が良い。」とアドバイスしたように思えます。愛妾に男子が生まれた場合の継承問題、自分の体験も含め庶子の人生の悲哀も訴えたような気がします。ルドヴィーコ・スフォルツァはレオナルド・ダ・ヴィンチを信頼していたので、諫言とこの作品を受け取ったのではないかと思います。 
白貂を抱く貴婦人(レオナルド・ダ・ヴィンチ、1490年頃作)
19歳のベアトリーチェ・デステの肖像(1494年作)


ベアトリーチェ・デステの可能性がある肖像画
(ジョヴァンニ・アンブロージオ・デ・プレディス作)

貂の写真(Wikipediaから)

フェレットの写真(Wikipediaから)

夏毛のオコジョ(Wikipediaから)

冬毛のオコジョ(Wikipediaから)

ヨーロッパ・マツテンの写真(Wikipediaから)

 2013年3月3月にウフィツィ美術館(フィレンツェ)を訪問しました。今回は、レオナルド・ダ・ヴィンチ作「受胎告知」を紹介します。
 レノナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519年)は、(イタリア)トスカーナ地方のヴィンチ郊外で生まれました。父はフィレンツェで公証人をしていて、母は(恐らく)農夫の娘のカテリーナでした。暫く母に育てられましたが、1457年(5歳)から母と離れて、父・祖父母・叔父とヴィンチ都市部に住むようになりました。年長の庶子の扱いで複数の継母(正妻)に育てられ、家を継ぐ可能性はありませんでした。
 1466年(14歳)から1476年(24歳)まで、ヴェロッキオに弟子入りしました。く1472年(20歳)にフィレンツェの聖ルカ組合でマスター(親方)の資格を認められました。マスターになってからも、ヴェロッキオの助手はしばらく続けたようです。その後注文された宗教画/肖像画を描きました。1498年に有名な壁画の「最後の晩餐」を完成させました。
 1499年第二次イタリア戦争で、フランスがミラノに侵攻しました。ダ・ヴィンチもヴェネツィアへ避難するとともに、軍事技術者として働いたようです。1502年にはチェゼーナの軍事技術者や工兵の長も務めました。フィレンツェやヴァチカンで絵を描くなかで、フランス王のフランソウ1世の知己を得て、彼の別荘に招かれました。やがてそこで息を引き取りました。
 「最後の晩餐」はフィレンツェ郊外の聖バルトロメオ・オリーブ山修道院に1867年まで飾られていました。レオナルド・ダ・ヴィンチの師匠のヴェロッキオとレオナルド・ダ・ヴィンチに制作されたと考えられています。1469年に亡くなったヴェロッキオのパトロンのピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチの大理石の棺の四隅の飾りと同じ飾りが、この絵の書台の足にも使われています。この作品がメディチ家の委嘱により制作されたと考えられます。
 本作品は他の画家が描いた「受胎告知」と比べると、幾つかの相違点があります。①画面横長で、聖母と大天使ガブリエルとが大きく離れている。②二人の間に立派な書台があり、二人を隔てている。
③大天使ガブリエルが指日本で聖母を指している。古い(ゴシックの)受胎告知の絵の形式を使っている。④聖母の左手が大天使ガブリエルの告知に、「私です。」と答えている。⑤遠景がトスカーナ地方の風景。更に聖バルトロメオ・オリーブ山修道院に飾るために描かれました。この絵は単に受胎告知を描いただけではなさそうです。何か政治的な意図が含まれていそうです。
 当時政治的な状況を説明します。北イタリアの各都市は、ローマ教皇派のゲルフ党か聖ローマ皇帝派のギベリン党が支配していました。フィレンツェは元来ゲルフ党が支配していましたが、メディチ家が勢力を強めて実効支配を始めました。この絵を制作した頃はフィレンツェのゲルフ党が勢力を弱め、ローマ教皇の後ろ盾で辛うじて存続していたようです。この後メディチ家とローマ教皇との戦争が始まり、メディチ家が勝利しました。戦争前夜の一触即発の政治情勢でした。聖バルトロメオ・オリーブ山修道院の聖バルトロメオは、皮剥ぎの刑で殉教した聖人です。オリーブ山はキリストが変容・昇天した場所で、キリスト教の聖書を重要視する事の象徴です。修道院は清貧を重んじる修道士の集まりです。要するに、ローマ教皇に取り込まれていない集団です。メディチ家はお金とこの絵を寄付・寄進して、メディチ家側に付くよう要請したと思われます。メディチ家と非常に強い関係を持っていたヴェロッキオとメディチ家が相談して構成を決めたと思います。レオナルド・ダ・ヴィンチは師匠の指示で、この作品を描いたはずです。この内容を完全に理解したら、ローマ教皇を敵に回す覚悟がいります。20歳前後のレオナルド・ダ・ヴィンチはそこまでする覚悟は無かったと思います。これらを前提に絵を理解します。
(1)遠景がトスカーナ地方で書台に百合の紋章があり、フィレンツェでの絵です。
(2)受胎告知の様式が、カソリック普及以前です。フランチェスコ会やドミニク会の
   清貧の集団です。
(3)書台の足はライオンで、「王、権力、ユダ」の象徴です。横にホタテ貝が彫られ、
   聖ヤコブの象徴です。書物と大天使ガブリエルのしっかりした(鷲の)翼は、使徒
   ヨハネの象徴です。オリーブ山でのキリスト変容の目撃者の聖ペトロが不在です。
   聖ペテロの象徴の「鍵」がどこにもありません。聖ペテロは逆さ磔で殉教して、
   キリストから天国の鍵を授けられ、カソリック教会の初代教皇になった伝承があり
   ます。
 この作品はローマ教皇を排除した「受胎告知」です。作品を見た所少なくとも二人の顔と遠景は、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いたと感じます。一点消失遠近法からズレている稜線が見られます。複数の画家で描かれたと思われます。
   受胎告知(レオナルド・ダ・ヴィンチ、1472~75年作)
翼の力強さなどで、初めて高い名声を得た作品のようです。
ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチの棺

 2012年7月にルーヴル美術館(パリ)を訪問しました。今回は、伝レオナルド・ダ・ヴィンチ作「ミラノの貴婦人の肖像」を紹介します。この作品は、「ラ・ベル・フェロニエール(貴金属で着飾った貴婦人)」と呼ばれているようです。
 レノナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519年)は美術史上最も有名な画家の一人です。技術的な資料を多く残しましたが、一方非常に作品が少ない画家です。後半生では「ダ・ヴィンチは絵が(遅くて)描けなくなった。」とまで言われました。
 レノナルド・ダ・ヴィンチは1452年に(イタリア)トスカーナ地方のヴィンチ郊外で生まれました。父はフィレンツェで公証人をしていて、母は(恐らく農夫の娘の)カテリーナでした。暫く母に育てられましたが、1457年(5歳)から母と離れて、父・祖父母・叔父とヴィンチ都市部に住むようになりました。年長の庶子の扱いで複数の継母(正妻)に育てられ、家を継ぐことはありませんでした。1466年(14歳)から1476年(24歳)まで、ヴェロッキオに弟子入りしました。遅くとも1472年(20歳)までには、フィレンツェの聖ルカ組合でマスター(親方)の資格を認められました。マスターになってからも、ヴェロッキオの助手をしばらく続けたようです。その後注文された宗教画/肖像画を描きました。1498年に有名な壁画の「最後の晩餐」を完成させました。
 1499年第二次イタリア戦争で、フランスがミラノに侵攻しました。ダ・ヴィンチもヴェネツィアへ避難するとともに、軍事技術者として働いたようです。1502年にはチェゼーナの軍事技術者や工兵の長も務めました。フィレンツェやヴァチカンで絵を描くなかで、フランス王のフランソウ1世の知己を得て、彼の別荘に招かれました。やがてそこで息を引き取りました。どうも「最後の晩餐」完成後(46歳)に戦争に巻き込まれて、画業に集中できなくなったようです。
 「ミラノの貴婦人の肖像」を所蔵している学芸員も、「レオナルド・ダ・ヴィンチに近い画家の可能性もある。」と言っているようです。私も、幾つかの違和感を感じます。
 ① レオナルド・ダ・ヴィンチの真作間違いない作品の絵の具ひび割れは、縦・横線が
   見える、斜めの平行線が見える傾向があります。これは絵の具と塗り方に依存して
   いると思われます。この作品にはその傾向が見られません。絵の具製法か塗り方が
   違っているように思えます。
 ② ダ・ヴィンチの肖像画は、手と指先に相当神経を使っています。「手は口ほどに物
   を言う」と思っていたようです。この絵の前方に描かれている木製構造物の上面が
   不自然です。テーブル上なら狭すぎるし、柵にしては広すぎる。何のために描いた
   のか良く分からず、ダ・ヴィンチらしくない。近寄ってはいけない高貴な人ならば、
   柵・区切りのような幅にすべき。穿った見方をすると、手を描きたくなかったとも
   思える。
 ③ ダ・ヴィンチは聖母やキリスト以外の肖像は、比較的正直に(盛らずに)描いた
   ようです。どうしても美人に描かなければならないときは、普通では居ない物を
   描き込むのが当時の暗黙のルールです。例えば、一角獣とか頭だけでなく体も
   白い貂など。この白い貂はフェレットだという説がありますが、そうだとすると
   もっと小さくて臭い(スカンクに近い)。そんな動物を貴婦人が抱くと思えない。
   フェレットがペットに出来るようになったのは、20世紀に入ってからです。
   盛った肖像画を描く作法のもう一つが、「〇〇に扮した・・・」とか、「実際に鎧
   を着た男性に描く」とかです。この作品は随分と美人です。多分「盛っている」と
   思いますが・・・。
 ④ ダ・ヴィンチの描く肖像画の女性は、ほとんどが理知的で冷たい感じです。この
   作品の女性は、その感じ・傾向から外れている。
  上記のような考察から、伝レオナルド・ダ・ヴィンチとしました。
ミラノの貴婦人の肖像(伝レオナルド・ダ・ヴィンチ、1490~96年作)
聖アンナと聖母(レオナルド・ダ・ヴィンチ作)
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岩窟の聖母(レオナルド・ダ・ヴィンチ作)
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 2015年4月にスコットランド・ナショナルギャラリー(エジンバラ)を訪問しました。今回は、伝レオナルド・ダ・ヴィンチ作「糸車の聖母(バクルーの聖母)」を紹介します。
 「糸車の聖母」はマントヴァ候妃からレオナルド・ダ・ヴィンチに依頼した肖像画の進捗確認を依頼したのに対して、レオナルド・ダ・ヴィンチの一行が滞在していたフィレンツェのカルメル会修道院長の返信に記述があります。フランス王ルイ12世の秘書官フロリモン・ロベルタからの依頼で、糸車の聖母の制作にダ・ヴィンチが注力中だとの記述です。このバクルーの聖母に似た作品のようですが、前方に籠が描かれていると書かれています。バクルーの聖母と類似の模写が多く現存していて、その内この作品と「ランズダウンの聖母」が、ダ・ヴィンチが描いた部分がありそうだと言われています。
 原作と思われる作品は1507年にフランス王宮に持ち込まれたとの記録がありますが、その後行方不明です。当初から大事にされた筈の作品で、行方不明とは不思議です。
 「バクルーの聖母」の記録は、1765年にパリで開かれたフランス・ボルドーのオスタン公遺産オークションでイギリス庶民院議員上がりのモンタギュー男爵が購入したというものです。娘がバクルー家に嫁入りする際持参させたようです。籠が描かれていない、フランス王から送られた形跡がない、簡単に売却・プレゼントされた、画風が何となく違うことから、レオナルド・ダ・ヴィンチの真作とは考えられない。特にレオナルド・ダ・ヴィンチが描く聖母は、非常に知的で気品があります。どこか違います。「ランズダウンの聖母」も違うように思えます。特に背景の山並みの青色に違和感があります。もっと新しい時代の顔料のように思えます。
 「バクルーの聖母」も「ランズダウンの聖母」も蛍光X線分析などによると、同じように書き換えた(描き重ねた)痕跡があるようです。レオナルド・ダ・ヴィンチが「糸車の聖母」描き掛けの時から模写を始め、ダ・ヴィンチが書き換えると同じように描き替えたと考えられます。どうも(複数の)弟子が師匠と並行して模写したようです。レオナルド・ダ・ヴィンチも多くの弟子を指導して、夫々ダ・ヴィンチの画風と似たところがあります。弟子の作品も下に紹介します。
 どの弟子の模写か特定したいと思いましたが、難しいです。ギブアップです。
 読者の皆様も、特定に挑戦してみてください。
糸車の聖母/バクルーの聖母(伝レオナルド・ダ・ヴィンチ作)

犬の足の習作(レオナルド・ダ・ヴィンチ作)
犬の足の習作 ダ・ヴィンチ
糸車の聖母/ランズダウンの聖母(伝レオナルド・ダ・ヴィンチ作、アメリカ個人蔵)

聖アンナと聖母子と幼い聖ヨハネ
(レオナルド・ダ・ヴィンチ、1498年作、ロンドン・ナショナルギャラリー蔵)

聖アンナと聖母子
(伝レオナルド・ダ・ヴィンチ、1508年作、ルーヴル美術館蔵)
マントヴァ候妃イザベラ・デステ習作
(伝レオナルド・ダ・ヴィンチ、1500年作、ルーヴル美術館蔵)

モナ・ヴァンナ素描(サライ作、コンデ美術館蔵)

モナ・ヴァナ(サライ作、ルーヴル美術館蔵)

洗礼者ヨハネ(サライ作、アンブロジアーナ図書館蔵)

フローラ(フランチェスコ・メルツィ、1520年頃作、エルミタージュ美術館蔵)

バラの聖母(ベルナルディーノ・ルイ―二作、ブレラ美術館蔵)

子羊と聖母子(チェザレ・ダ・セスト作、ポルディ・ペッツォーリ美術館蔵)

聖母子
(ジョヴァンニ・アントーニオ・ボルトラッフィオ作、ブタペスト国立西洋美術館蔵)

三人の大天使の祭壇画(マルコ・ドッジョノ作、ブレラ美術館蔵)

緑のクッションの聖母子(アンドレア・ソラリオ作、ルーヴル美術館蔵)
File:Andrea Solario 002.jpg
チェリーを持つ少女(ジョヴァンニ・アンブロ―ジョ・デ・プレディス作)

最後の晩餐模写
(ジャンピエトリーノ作、ロンドン・ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ蔵)

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