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カテゴリ:巨匠の傑作 > フィリッポ・リッピ

 2013年3月にパラティーナ美術館(ピッティ宮殿内/フィレンツ)を訪問しました。今回は、フィリッポ・リッピ作「バルトリ―二のトンド」を紹介します。
 フィリッポ・リッピは1406年頃フィレンツェの肉屋の息子に生まれましたが幼くして孤児となり、修道院で育てられ修道士となりました。勉強嫌いで腕白だったフィリッポ・リッピは絵で仕えました。フィリッポ・リッピはゴシックを逸脱して、写実的・人間的な絵を描きました。1456年(50歳の時)に23歳の修道女を祭礼に紛れて自宅に連れ帰り、子(フィリッピーノ・リッポ)を設けました。当然問題になり修道院出入り禁止となりましたが、後に教皇から許され還俗して夫婦となりました。フィリッポ・リッピはボッテチェリの師匠になりますが、可成り破天荒な人物でした。
 トンドというのは、産後のお祝いです。出産後に滋養のつく食物を盆に載せて贈った習慣から来ているようです。1450年頃の出産を考えると、ピエロ・ディ・コジモが妻のルクレツィア・トルナブォーニが長男のロレンツォ・デ・メディチ(1449~1492年)を出産したお祝いに制作委嘱したと思われます。ロレンツォは将来のメディチ家当主で、フィレンツェの王となる運命です。ルクレツィア・トルナブォーニは500年以上続く名家の生まれで、実家はフィレンツェで銀行業などをしていました。更にルクレツィア・トルナブォーニは非常に博学で詩作なども行い、ピエロの政治顧問もしていました。まさに聖母子に例えるのに相応しい二人です。背景は、「聖母の生誕」です。ベッドの上の女性は、聖アンナです。右奥で階段を上っているのが、聖母の父親のイオアキムでしょうか。ルクレツィア・トルナブォーニの肖像画をギルランダイオが描いています。50歳近くの肖像なので、相当美人だったと思われます。聖母の容貌が、ボッティチェリの初期の絵と似ています。ボッティチェリはヴェロッキオ経由の孫弟子に当たります。
バルトリ―二のトンド(フィリッポ・リッピ、1450年頃作)
Lippi,バルトリーニのとんど
ルクレツィア・トルナブォーニの肖像
(ドメニコ・ギルランダイオ、1475年頃作、ワシントン・ナショナルギャラリー蔵)


 2013年3月3月にウフィツィ美術館(フィレンツェ)を訪問しました。今回は、フィリッポ・リッピ作「聖母戴冠」を紹介します。
 フィリッポ・リッピは1406年頃フィレンツェの肉屋の息子に生まれましたが幼くして孤児となり、修道院で育てられ修道士となりました。勉強嫌いで腕白だったフィリッポ・リッピは絵で仕えました。フィリッポ・リッピはゴシックを逸脱して、写実的・人間的な絵を描きました。1456年(50歳の時)に23歳の修道女を祭礼に紛れて自宅に連れ帰り、子(フィリッピーノ・リッポ)を設けました。当然問題になり修道院出入り禁止となりましたが、後に教皇から許され還俗して夫婦となりました。フィリッポ・リッピはボッテチェリの師匠になりますが、可成り破天荒な人物でした。
 サン・タンブロージョ教会の保護官(通俗の検察官に相当)フランチェスコ・マリンギが残した資金で委嘱され、司祭のドメニコ・マリンギ(名字から考えて親族?)が受領したようです。1810年までサン・タンブロージョ教会に飾られていたようです。裾絵が何枚かあったようですが、散失されました。
 鍍金の額縁もフィリッポ・リッピが職人を集めて制作したようです。上部の二つの円形窓に、大天使ガブリエルと聖母が描かれています。「受胎告知」を構成していると思います。中央上部に戴冠する聖母が描かれています。左端の聖人がミラノの守護聖人の聖アンブロジウス、右端に洗礼者ヨハネが描かれています。その左下に司祭ドメニコ・マリンギが描かれているというのが通説のようです。私の推定では、フランチェスコ・マリンギが描かれています。その前のリボンには、「作品が完成しました」と書かれています。中央下部やや左の杖を持っているのが司祭ドメニコ・マリンギと思われます。こちらの人物が司祭の正装をしているからです。左下の頬杖をした人物がフィリッポ・リッピと言われています。中央下部の一群の人々は、ドメニコ・マリンギの一族・家族と思われます。右端の女性が一段と豪華な衣装で、美貌に描かれています。マグダラのマリアというのが通常の理解のようですが、香油壺が描かれていません。髪も長くないので違うような気がします。幼児二人が描かれているので、聖母と幼いキリストと洗礼者ヨハネの可能性を感じます。
聖母戴冠(フィリッポ・リッピ、1441~47年作)

聖母戴冠(フラ・アンジェリコ、1434~35年作)



 2013年7月にワシントン・ナショナルギャラリー(ワシントン)を訪問しました。今回は、フィリッポ・リッピ作「東方三博士の礼拝」を紹介します。
 フィリッポ・リッピは1406年頃フィレンツェの肉屋の息子に生まれましたが幼くして孤児となり、修道院で育てられ修道士となりました。勉強嫌いで腕白だったフィリッポ・リッピは絵で仕えました。フィリッポ・リッピはゴシックを逸脱して、写実的・人間的な絵を描きました。1456年(50歳の時)に23歳の修道女を祭礼に紛れて自宅に連れ帰り、子(フィリッピーノ・リッポ)を設けました。当然問題になり修道院出入り禁止となりましたが、後に教皇から許され還俗して夫婦となりました。フィリッポ・リッピはボッテチェリの師匠になりますが、可成り破天荒な人物でした。
 この「東方三博士の礼拝」は当初フラ・アンジェリコにより描き始められましたが長く完成せず、アンジェリコの死(1455年)により、フィリッポの工房で完成したと推定されています。アンジェリコが聖母マリアの顔を描き、その後アンジェリコの弟子が描き込み、更にフィリッポ・リッピとその弟子が描き込んだと推定されています。メディチ家に飾られていた作品と考えられています。
 沢山の画家が重ね描きしたので、全体の統一性はありません。孔雀、大鷲、雉が小屋に比べて大きく描かれています。東方三博士が礼拝する後ろには、従者の長い列が続いています。青色と聖母の衣装はフィリッポ・リッポの特徴が良く出ています。聖母の顔はフィリッポ・リッピが描いたとは思えず、アンジェリコが描いたということになったのだと思います。
東方三博士の礼拝(フィリッポ・リッピ、1440~60年作)
東方三博士の礼拝854px-Fra_Filippo_Lippi_005
同上の拡大写真
  

 2011年8月にメトロポリタン美術館(ニューヨーク)を訪問しました。今回は、フィリッポ・リッピ作「玉座の聖母子と二人の天使」を紹介します。
  フィリッポ・リッピは1406年頃フィレンツェの肉屋の息子に生まれましたが幼くして孤児となり、修道院で育てられ修道士となりました。勉強嫌いで腕白だったフィリッポ・リッピは絵で仕えました。フィリッポ・リッピはゴシックを逸脱して、写実的・人間的な絵を描きました。1456年(50歳の時)に23歳の修道女を祭礼に紛れて自宅に連れ帰り、子(フィリッピーノ・リッポ)を設けました。当然問題になり修道院出入り禁止となりましたが、後に教皇から許され還俗して夫婦となりました。フィリッポ・リッピはボッテチェリの師匠になりますが、破天荒な人物でした。
 「玉座の聖母子と二人の天使」は「聖母子、天使と聖人」三連祭壇画の中央パネルと思われ、1949年にアメリカの収集家・銀行家のジュール・バッシュの遺産が寄付されたものです。ジュール・バッシュのコレクションは多数の絵画で構成され、それらから考えて入手経路は多岐にわたると思われます。この絵の入手ルートは不明のようです。一方脇祭壇画の両翼は、イタリア北西部トリノのアカデミア・アルベルティ―ナ(美術学校)付属美術館所蔵です。1828年に当時の大司教から、この美術学校に寄贈されたと伝わります。少なくともその時点では、三連祭壇画は分断されていたと思われます。この三連祭壇画がフィレンツェの教会所蔵だったという記録がなく、それ以外の都市の教会所蔵だったと考えられています。トリノを首都とするサヴォイア公国のアメ・デーオ8世が、宗教上の主流争いで1439年から1449年までフェリクス5世として(対立)教皇に就任しています。その後反主流になった教皇は、対立教皇と呼ばれるようです。この祭壇画が描かれた頃のトリノはキリスト教が盛んで、公爵が一時的に教皇になった。左右翼パネルがトリノにあったので、三連祭壇画はトリノの教会にあったような気がします。その後カソリックがトリノに入って、多くの教会を建てました。4~5世紀頃からあった古い教会は、廃墟となったようです。そのような古い教会の一つに飾られていたような気がします。
 主パネルの天使が開いている巻物は、旧約聖書のようです。恐らくキリストの持っているのも旧約聖書と思われます。聖母子・天使の容貌はゴシックを逸脱して、ルネッサンス風です。
 左翼には聖アウグスティヌスと聖アンブロジウスが、右翼には聖グレゴリウスと聖ヒエロニムスが描かれています。当時フィレンツェ派は(聖母が聖書より優先の)正教会と統合しようとしていました。トリノが含まれるバーゼル派はそれに反対で、聖書優先でした。これが四聖人(博士)が描かれた理由だと思います。これもトリノの教会で飾られたと思える根拠です。幼いキリストがこちらを見て、「聖書に従え。」と言っているように感じます。
玉座の聖母子と二人の天使(フィリッポ・リッピ、1437~40年作)
聖母子、天使と聖人祭壇画再現写真(フィリッポ・リッピ、1437~40年作)
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 2019年7月にローマを訪問した際、パラッツォ・バルベリーニを鑑賞しました。今回はフィリッポ・リッピ作の「二人の跪く寄進者の居る受胎告知」を紹介します。
  フィリッポ・リッピは1406年頃フィレンツェの肉屋の息子に生まれましたが幼くして孤児となり、周度院で育てられ修道士となった。勉強嫌いで腕白だったフィリッポ・リッピは絵で仕えました。フィリッポ・リッピはゴシックを逸脱して、写実的・人間的な絵を描きました。1456年(50歳の時)に23歳の修道女を祭礼に紛れて自宅に連れ帰り、子(フィリッピーノ・リッポ)を設けました。当然問題になり修道院出入り禁止となりましたが、後に教皇から許され還俗して夫婦となりました。フィリッポ・リッピはボッテチェリの師匠になりますが、可成り破天荒な人物でした。
 この絵はその騒ぎを起こす前の修道士時代の絵です。二人の寄進者の前で受胎告知が演じられています。可成り無理な(俗っぽい)画面ですが、フィリッポ・リッピはヘッチャラで描いています。聖母マリアも非常に人間的に描かれています。フィレンツエの寄進者と言えば、メディチ家の人たちでしょうか?
二人の跪く寄進者の居る受胎告知(フィリッポ・リッピ、1440年作)
受胎告知と二人の寄進者 フィリッポ・リッピ
二人の跪く寄進者の居る受胎告知」の前で
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 フィリッポ・リッピの代表作の一つを鑑賞でき、満足しました。ここにはフィリッポ・リッピ作の「タルキニアの聖母」もありました。それも紹介します。これも30歳頃の作品で、前半生の作品です。
タルキニアの聖母(フィリッポ・リッピ、1437年作)
タルキニアの聖母 フィリッポ・リッピ
              

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