世界美術館巡り旅

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カテゴリ: 巨匠の傑作

 2015年4月にカポディモンテ美術館(ナポリ)を訪問しました。今回は、サンドロ・ボッティチェリ作「聖母子と二天使」を紹介します。
 サンドロ・ボッティチェリ(1445~1510年)は、フィレンツェの皮なめし職人の四男(末子)として生まれました。幼少期は病弱で、次兄のアントニオの金細工工房で修業をしたと考えられます。1464年から3年間フィリッポ・リッピ工房のプラート大聖堂フレスコ画制作を手伝いました。その後、アントニオ・デル・ポッラィオーロ(1433~1498年)の工房、アンドレア・デル・ヴェッロッキオ(1435~1488年)の工房に入っていたようです。
 1469年に独立して、1472年にフィレンツェの聖ルカ組合に登録しました。師匠だったフィリッポ・リッピの息子のフィリッピーノ・リッピを弟子にとっていたようです。メディチ家を中心に、フィレンツェの貴族・実業家からの依頼で絵を描きました。
 「聖母子と二天使」は当時の師匠・親方に当たるアンドレア・デル・ヴェロッキオ作「授乳の聖母」にヒントを得て描いたように思えます。ヴェロッキオの作品では、中央に描かれた天使が鑑賞者をジロッと見つめてきます。「見るなよ。」とか「遠慮しろ。」と言いたいように見えます。ボッティチェリの作品では、幼いキリストも二天使も聖母を見ています。この方が、穏やかに見れます。服装も普段の物に描かれています。背景の風景も、トスカーナ地方風に描かれています。普段の風景として描かれています。
聖母子と二天使(サンドロ・ボッティチェリ、1468~69年作)
聖母子と二天使 ボッティチェリ作
授乳の聖母
(アンドレア・デル・ヴェロッキオ、1467~69年作、ロンドン・ナショナルギャラリー蔵)

 2013年3月にアッカデミア美術館(ベネツィア)を訪問しました。今回は、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ作「聖母子」を紹介します。
 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1488~1576年)はヴェネツィア共和国ベッルーノ近郊ピエーヴェ・ディ・カドーレで、ピエーヴェ・ディ・カドーレ城の管理者の長男に生まれました。父親は評議員で軍人と言う名士でした。10歳チョットの時に弟とヴェネツィア在住の叔父の元に行き、ジョヴァンニ・ベリーニの下で修業しました。その後ジョルジョーネの助手となり、やがて共同制作者となりました。ジョルジョーネが1510年に、ベリーニも1516年に死去すると、ティツィアーノ・ヴェチェッリオはヴェネツィア派を代表する画家となりました。晩年にはスペイン王フェリペ2世の下で主に暮らしました。
  ティツィアーノは生涯で何枚も聖母・聖母子を描いています。何枚か紹介します。1510年頃の画風は、兄弟子・師匠のジョルジョーネとほとんど同じ画風です。1515年頃から徐々に自分独自の画風になっていきますが、聖母の容貌はまだジョルジョーネふうです。1530年頃まで、聖母の容貌にジョルジョーネの影響が残っています。1530年代後半から、完全に独自の画風になります。1560年頃からタッチが粗くなっていきます。70歳代になって、白内障の影響や老眼の影響が出たと推定します。クロード・モネと同じ症状のように感じます。本作品は1560年作とされていますが、ほぼ妥当な画風です。ティツィアーノの作品には、「見つめ合う姿」が良く描かれています。其れともよく一致しています。左上の雲の風景は、パトロンからの要求でしょうか?
  余分な話ですが、ロンドン・ナショナルギャラリー所蔵の「聖母子」は真作とは思えません。ここまで画力が落ちるとは考えにくいし、ここまで落ちたら描かないと思います。更に、見つめ合っていません。本作品「聖母子・アルベルティ―ニの聖母」を参考に、勉強・修業不足な追従者が描いたように思えます。ロンドン・ナショナルギャラリーの学芸員がそう思わないのは、不思議です。
聖母子・アルベルティ―ニの聖母
(ティツィアーノ・ヴェチェッリオ、1560年頃作)
聖母子 ティッツァーノ作
ジプシーの聖母
(ティツィアーノ・ヴェチェリオ、1511年作、ウィーン美術史博物館蔵)

聖人の居る聖母子
(ティツィアーノ・ヴェチェリオ、1515年作、ルーヴル美術館蔵)
Maria mit Kind, sowie hl. Stephans, Hieronymus und Mauritius von Tizian (Tiziano Vercellio/ Titian)
チェリーの聖母
(ティツィアーノ・ヴェチェリオ、1515年作、ウィーン美術史博物館蔵)
聖母子・アルドブランディ―二の聖母
(ティツィアーノ・ヴェチェリオ、1532年作)

聖母子
(ティツィアーノ・ヴェチェリオ、1570年頃作、ロンドン・ナショナルギャラリー蔵)
Titian's 'The Virgin and Child', probably 1570-1576. Mond bequest to National Gallery, 1924. Copyright The National Gallery, London.

 2013年3月にアッカデミア美術館(ベネツィア)を訪問しました。今回は、ティッツアーノ・ヴェチェッリオ「ピエタ」を紹介します。
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1488~1576年)はヴェネツィア派、或いはルネッサンスを代表する画家の一人です。
 ティツィアーノ・ヴェチェッリオはヴェネツィア共和国ベッルーノ近郊ピエーヴェ・ディ・カドーレで、ピエーヴェ・ディ・カドーレ城の管理者の長男に生まれました。父親は評議員で軍人と言う名士でした。10歳チョットの時に弟とヴェネツィア在住の叔父の元に行き、ジョヴァンニ・ベリーニの下で修業しました。その後ジョルジョーネの助手となり、やがて共同制作者となりました。ジョルジョーネが1510年に、ベリーニも1516年に死去すると、ティツィアーノ・ヴェチェッリオはヴェネツィア派を代表する画家となりました。晩年にはスペイン王フェリペ2世の下で主に暮らしました。  
 「ピエタ」は当初キリストと聖母マリアを描いただけの作品だった。その後自分の埋葬される教会・礼拝堂で揉めて、一度自分が引き取った。最終埋葬礼拝堂をイメージして、キャンバスと画面を大幅に拡大した。周りの神殿や天使を追加したが、完成前に亡くなった。ティッツアーノの作品模写などで修業していたパルマ・イル・ジョーヴァネ(1549年生まれの27歳)が最低限の加筆で完成させた。経緯は、キリストの下の石の銘文に記されている。
  最晩年の未完成数作品は、この作品と似た色調とラフなタッチで描かれています。作者の若い頃の画風とはかなり違います。最後の上塗りが施されていないのか、80歳を超えた老化(白内障)によるのか、自分の死を予感した画風変化か、飾られる場所(礼拝堂)を意識して粗いタッチにしたか、本人に聞かないと分からない変化です。
ピエタ(ティツィアーノ・ヴェチェッリオ、1576年作)
ピエタ ティッツァーノ作

 2013年3月にアッカデミア美術館(ベネツィア)を訪問しました。今回は、レオナルド・ダ・ヴィンチ作「ウィトルウィウス的人体図」を紹介します。
 レノナルド・ダ・ヴィンチは1452年に(イタリア)トスカーナ地方のヴィンチ郊外で生まれました。父はフィレンツェで公証人をしていて、母は(恐らく)農夫の娘のカテリーナでした。暫く母に育てられましたが、1457年(5歳)から母と離れて、父・祖父母・叔父とヴィンチ都市部に住むようになりました。年長の庶子の扱いで複数の継母(正妻)に育てられ、家を継ぐことはありませんでした。1466年(14歳)から1476年(24歳)まで、ヴェロッキオに弟子入りしました。遅くとも1472年(20歳)までには、フィレンツェの聖ルカ組合でマスター(親方)の資格を認められました。マスターになってからも、ヴェロッキオの手助けはしばらく続けたようです。その後注文された宗教画/肖像画を描きました。1498年に有名な壁画の「最後の晩餐」を完成させました。
 1499年第二次イタリア戦争で、フランスがミラノに侵攻しました。ダ・ヴィンチもヴェネツィアへ避難するとともに、軍事技術者として働いたようです。1502年にはチェゼーナの軍事技術者や工兵の長も務めました。フィレンツェやヴァチカンで絵を描くなかで、フランス王のフランソウ1世の知己を得て、彼の別荘に招かれました。やがてそこで息を引き取りました。どうも「最後の晩餐」完成後(46歳)に戦争に巻き込まれて、画業に集中できなくなったようです。
 ウィトルウィウスは古代ローマの建築家で、「人体の調和」を研究しました。レオナルド・ダ・ヴィンチはメモ魔で、ウィトルウィウスの研究成果をメモしました。文字・文章はメモを短時間で盗み見されないように、左右反転で書いています。ウィトルウィウス的人体図は他の画家も描いていますが、レオナルド・ダ・ヴィンチのメモが一番美しいと思います。最も大きい主張は、「美しい人体の身長と両手を開いた長さと等しい」です。それを強調する為、正方形と円を書き込んでいます。それ以外にも身体の寸法の関係を、書き込んでいます。画家は感性で態と寸法・大きさのバランスを時折崩します。ミケランジェロの「ピエタ」の聖母マリアの下半身が巨大化されていたり、パルミジャニーノが左右で幅が違う女性を描いたりしています。レオナルド・ダ・ヴィンチは人体寸法の誇張などはしていないですネ。律儀なんでしょうか。
ウィトルウィウス的人体図(レオナルド・ダ・ヴィンチ、1487年頃作)
662px-Da_Vinci_ウィトルウィウス的人体図
ウィトルウィウス的人体図(チェーザレ・チェザリアーノ、1521年頃作)

 2013年3月にアッカデミア美術館(ベネツィア)を訪問しました。今回は、ジョヴァンニ・ベッリーニ作「サン・ジョッべの祭壇画」を紹介します。
 ジョバンニ・ベッリーニ(1430~1516年)は画家一族に生まれ、父がヤーコポ・ベッリーニ、兄がジェンティーレ・ベッリーニです。叔父の画家もいたようです。家族の間で画力を磨いたと思われます。姉がパドヴァ派のマンテーニャと結婚しました。若いころはテンペラ技法で、やや硬い感じの絵を描いていました。1480年頃から油彩の技法を取り入れました。絵の具が乾くのに時間的余裕ができ、柔和な(グラデーション)表現が出来ました。
 「サン・ジョッべの祭壇画」はヴェネツィアのサン・ジョッべ教会祭壇を飾る為に委嘱されました。ナポレオン・ボナパルトに略奪され、ヴェネツィアのアカデミア美術館に返還されました。教会の建物の延長に見える「聖会話」の形式の絵です。サン・ジョッべ(聖ヨブ)はサタンに眼を付けられ、神から度重なる試練を受けました。試練を受けても受けても信仰を貫き、最後には神から祝福されました。このヨブ記を教義にした教会・教団です。
  聖母子の下に三人の天使たちが居て、楽器を奏でています。典型的「聖会話」様式です。聖母の左側には端から聖フランチェスコ、洗礼者ヨハネ、褌姿の聖ヨブが居ます。右側には矢を受けた聖セバスティヌス、聖ドミニコと右端にトゥールーズのフランシスコ会司教の聖ルイが居ます。天井ドームにラテン語で「雹のない、処女の謙虚な花」と書かれています。無原罪のお宿りの象徴と思われます。
  ジョヴァンニ・ベッリーニは当初テンペラ技法で描き、義兄のマンティーニャの画風を引きつでいました。1480年頃から油彩の技法を習得して、微妙な・柔らかい表現が進みました。人物の描き方を見るとゴシックを完全離脱して、「ルネッサンス!」を描きました。
サン・ジョッベの祭壇画(ジョヴァンニ・ベッリーニ作)



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