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カテゴリ: 日本人の画家

 レオナール・フジタ(1886~1968年)はパリで活躍した日本人画家です。彼の作品が「乳白色の肌」で評判となり、パリの画壇に受け入れられました。
 東京で医者(軍医)の末っ子として生まれました。7~11歳の間は父親の転勤で、熊本に暮らしました。その後高等師範学校付属小学校・中学校を卒業して、1905年に東京美術学校に入学しました。黒田清輝の印象派・写実派への傾倒に反発して、1913年渡仏しました。パリ モンパルナスに住み、モディリアーニやスーティンを通じてピカソなどとも知己を得ました。1914年から第一次世界大戦が勃発しましたが、1917年頃から少しずつ絵が売れるようになりました。個展を開いた際に美術評論家のアンドレ・サルモンに序文を書いてもらい、評価が高まっていきました。1920年頃からは、サロン・ドートンヌの審査員に選ばれました。1922年のサロン・ドートンヌに出品した「寝室の裸婦キキ」が好評で、高額で買い取られました。1925年にフランスからレジオン・ドヌール勲章を、ベルギーからレオポルド勲章を受章しました。
 1931年から南北アメリカに渡り、個展を開いたりしました。1933年に日本へ帰国ししましたが、中国へ従軍画家として派遣されました。1939年に渡仏しましたが、第二次世界大戦が始まりパリ陥落直前に日本へ帰国しました。帰国後陸軍美術協会理事長に就任して、戦争画を描きました。戦後戦犯騒ぎに巻き込まれ、1949年に渡仏しました。1955年にフランス国籍取得、1957年にフランス政府からレジオン・ドヌール勲章を再度受賞しました。1968年チューリッヒでガンにより亡くなりました。年代順に作品を紹介します。
東京美術学校時代作品(フジタ、1909年作)
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シクラメン(フジタ、1917年作)
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家族(フジタ、1917年作)
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パリでの生誕(フジタ、1918年作)
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二人の女性(フジタ、1918年作)
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徐々に絵が売れるようになった頃の作品です。
横たわる裸婦と猫(フジタ、1921年作)
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寝室の裸婦キキ(フジタ、1922年作)
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裸婦(フジタ、1923年作)
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アトリエでの自画像(フジタ、1924年作)
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エレーヌ・フランク(フジタ、1924年作)
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狐売り(フジタ、1933年作)
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秋田の行事(フジタ、1937年作)
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猫(闘争)(フジタ、1940年作)
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猫の居る静物(フジタ、1940年作)
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十二月八日の真珠湾(フジタ、1942年作)
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次の「アッツ島玉砕」には悲惨さから反戦も感じますが、この絵は醒めた絵ですネ。戦意高揚さえも感じません。
アッツ島玉砕(フジタ、1943年作)
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私の夢(フジタ、1947年作)
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カフェにて(フジタ、1949年作)
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アージュ・メカニック(フジタ、1959年作)
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キリスト生誕(フジタ、1960年作)
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軍医の息子のフジタは戦時中に、陸軍から描けと言われたから描いたのでしょう。戦意高揚も反戦もなかったような気がします。画題を正直に描いただけだったのでしょう。戦後戦犯扱いされたのは不本意だったと思います。「赤紙が来たから従軍した人たちと何が違うのか。」と言いたかったでしょう。片や人殺しに出かけ、片や絵を描いた。片や被害者で、片や加害者という色分けに不満だっただろうと思います。

 黒田清輝(1866~1924年)は日本の油絵発展の礎となった画家です。名前や作品をご記憶の方も多いと思います。
 黒田清輝は薩摩藩士黒田清兼の子として生まれ、伯父の黒田清綱の養子となりました。1872年に(6歳で)上京して、二松学舎に通いました。1878年(12歳)から高橋由一の門人の細田季治に師事しました。東京外国語学校を経て、1884年~93年の間、渡仏しました。当初は法律を学んだのですが、1886年に絵画に転向しました。ラファエル・コランに師事して、絵画を学びました。1893年のサロンで「朝妝」が入選しました。その後米国経由で帰国して、1894年に「天心道場」を開設しました。1895年の内国勧業博覧会に「朝妝」を出品して、論争を巻き起こしました。当時日本では、裸婦画を芸術として受け入れる文化が出来ていませんでした。1896年に「白馬会」を発足しました。東京美術学校西洋画科の教員となり、1898年には教授に就任しました。1900年に白馬会で裸体夫人像を展示して警察に咎められ、下半分に布を掛けるという腰巻事件を起こしました。1900年のパリ万国博覧会に出品した「智・感・情」が銀盃を受賞しました。1910年帝室技芸員に選ばれ、帝国美術院長を歴任しました。1917年に義父が亡くなり、子爵を引き継ぎました。1920年貴族院議員に就任しました。1924年に尿毒症で亡くなりました。年代順に作品を紹介します。
読書(黒田清輝、1892年作)
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朝妝(黒田清輝、1893年作)
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舞子(黒田清輝、1893年作)
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智・感・情(黒田清輝、1900年作)
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裸体夫人像(黒田清輝、1900年作)
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野辺(黒田清輝、1907年作)
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桜島噴火(黒田清輝、1914年作)
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花野(黒田清輝、1915年作)
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梅林(黒田清輝、1924年作)
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「智・感・情」を描いた1900年以降は、描き込みが甘くなっています。忙しかったのか、ハングリー精神が薄まったのかだと思われます。

 高橋由一(1828~1894)は、日本油絵絵画の先駆けとなった画家です。「鮭」という縦長の作品をご存知の方も多いと思います。
 高橋由一は佐野藩士高橋源十郎の嫡子として、江戸藩邸で生まれました。婿養子だった父は離縁の上家を出て、母と祖父母に育てられました。2歳の時に人面を描き、母を驚かせたという逸話が残っているようです。1836年に(8歳で)藩主の堀田正衡の近習となり、12、3歳から狩野派に学びました。その後近習長になり、図画取り扱い兼務したようです。1847年に(20歳で)廣尾稲荷神社拝殿天井画 黒竜図(日本画)を製作しました。病弱で剣術修行も休みがちな由一に、祖父も画学に進むことを許しました。初めて見た洋画に驚き、洋画に興味を覚えました。1862年(34歳)から蕃書調所の画学局で川上冬崖に師事しました。1866年からは、横浜在住のイギリス人ワーグマンに師事しました。明治に入り画学教官となりましたが、程なく官職を持して「天絵舎」を創設しました。1876年からは工部美術学校教師のイタリア人画家アントニオ・フォンタネージに師事しました。1879年には、明治天皇の肖像がも描きました。年代順に作品を紹介します。
花魁(高橋由一、1872年作)
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左官(高橋由一、1876年作)
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鮭(高橋由一、1877年作)
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この絵が一番よく知られています。
なまり節(高橋由一、1877年作)
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豆腐(高橋由一、1877年作)
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鯛(高橋由一、1879年作)
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不忍池図(高橋由一、1880年作)
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宮城県庁門前図(高橋由一、1881年作)
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酢川にかかる常盤橋(高橋由一、1882年作)
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長良川鵜飼図(高橋由一、1891年作)
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1877年頃から絵の発色が良くなった気がします。それまでは良質な溶き油の入手も大変だったのだろうと思います。日本の油絵を開拓した画家です。

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