世界美術館巡り旅

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カテゴリ: ロシア人の画家

 マルク・シャガール(1887~1985年)は妻のベラへの愛や結婚をテーマの絵を多く描き「愛の画家」と呼ばれたロシア(現ベラルーシ)出身のフランス人画家です。
マルク・シャガールの肖像(Yury Pen作)
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 マルク・シャガールは帝政ロシアのヴィテブスクで、ユダヤ系家族に生まれました。1907年にサンクトペテルスブルクの美術学校に入学しましたが、アカデミック志向の教育に満足しませんでした。1909年にレオン・バクストのズヴァンリェヴァ美術学校に移りました。1910年から5年間パリに滞在後、帰国しました。1915年に母が亡くなり、ベラと結婚しました。1923年にベルリン経由でパリに移住しました。1941年に第二次世界大戦勃発してナチスの迫害を恐れ、米国に亡命しました。妻のベラは1944年に米国で亡くなりました。
 1947年にパリへ戻り南フランスに永住する決心をして、フランス国籍を取得しました。1960年にエラスムス賞を受賞し、1964年にはオペラ座の天井画を作成しました。年代順に作品を紹介します。
私の許嫁へ(マルク・シャガール 1911年作)
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扇を持った花嫁(マルク・シャガール 1911年作)
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私と村(マルク・シャガール 1911年作)
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3時半の詩人(マルク・シャガール 1911年作)
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バイオリン奏者/のらくら暮らす男(マルク・シャガール 1912年作)
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カルヴェリの丘(マルク・シャガール 1912年作)
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母性(マルク・シャガール 1913年作)
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窓の向こうのパリ(マルク・シャガール 1913年作)
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アクロバット(マルク・シャガール 1914年作)
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誕生日(マルク・シャガール 1915年作)
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墓地の門(マルク・シャガール 1917年作)
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酔っ払い(マルク・シャガール 1923年作)
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緑のバイオリン奏者(マルク・シャガール 1923~24年作)
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天使と読書する男(マルク・シャガール 1930年作)
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光と影の間(マルク・シャガール 1938~43年作)
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黄色いRooster(マルク・シャガール 1948年作)
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青い風景(マルク・シャガール 1949年作)
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ダンスとサーカス(マルク・シャガール 1950年作)
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エレミアの預言者(マルク・シャガール 1968年作)
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アコーディオン弾き(マルク・シャガール 1970年作)
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花と赤い果物(マルク・シャガール 1970~75年作)
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赤い花束と新郎新婦(マルク・シャガール 1980年作)
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自画像?(マルク・シャガール作)
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オペラ座の天井画(マルク・シャガール 1964年作)
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サン・ステファン・カテドラルのステンドグラス(マルク・シャガール作)
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「愛の画家」というよりも、何か強い自己批判や自己否定を感じます。

 ヴィクトル・ヴァスネツォフ(1848~1926年)は、ロシア帝国末期の神話・宗教・歴史画を多く描いた移動派の画家です。幻想的な作品を残しました。
 ヴィクトル・ヴァスネツォフはモスクワ東方900kmほどのブャートカ近くの寒村の司祭の息子に生まれました。祖父が、イコン画家だったようです。10歳でブャートカの神学校に入学しました。在学中も、イコン画やフレスコ画を制作したようです。神学校を卒業すると美術に転向しようとしました。自作の絵を競売にかけて、費用を捻出したようです。
 1867年に(19歳で)ペテルブルク帝国美術アカデミーに入学しましたが、3年後に移動派に参加しました。1874年のロンドン万博で、版画2枚が銀賞を受けました。1876年パリに行くと、印象派も吸収しました。翌年モスクワに戻って、画作を続けました。1880年代に入ると、彼の宗教的絵画が高評価を得るようになりました。1890年以降は活動領域が広がり、舞台美術、陸軍のユニフォームデザイン、建築設計なども手がけました。1912年にニコライ2世から、貴族に列せられました。更にトレチャコフ美術館の評議員もやって、移動派画家の作品の収集・保存に貢献しました。年代順に作品を紹介します。
アルヒープ・クインジの肖像(ヴァスネツォフ、1869年作)
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自画像(ヴァスネツォフ、1873年作)
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パリ郊外の軽業師(ヴァスネツォフ、1877年作)
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岐路に立つ騎士(ヴァスネツォフ、1878年作)
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冥界の三人の女王(ヴァスネツォフ、1879年作)
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空飛ぶ絨毯(ヴァスネツォフ、1880年作)
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アリョーヌシカ(ヴァスネツォフ、1881年作)
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タチヤナ・マモントヴァ(ヴァスネツォフ、1884年作)
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イーゴリ・スヴャトスラヴィチとポロヴェツの合戦
(ヴァスネツォフ、1884年作)
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灰色の狼に乗ったイワン王子(ヴァスネツォフ、1889年作)
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悲しみの鳥と歓喜の鳥(ヴァスネツォフ、1896年作)
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イワン雷帝(ヴァスネツォフ、1897年作)
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予言の鳥(ヴァスネツォフ、1897年作)
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三人の勇士(ヴァスネツォフ、1898年作)
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トレチャコフ美術館の主要所蔵絵画のひとつです。
雪女(ヴァスネツォフ、1899年作)
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最後の審判(ヴァスネツォフ、1904年作)
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カエルの王女(ヴァスネツォフ、1818年作)
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象徴主義というか神秘主義というか、傑作が多く残っていますネ。

 ヴァシーリー・ヴェレシチャーギン(1842~1904年作)はロシア帝国の戦場従軍画家です。トレチャコフ美術館所蔵・展示作品の「戦争の結末」で名前が知られています。悲惨な戦いを眼のあたりにして、平和主義的な絵も描きました。作品を多数眺めると、戦争画も描いた画家と言うべきかと思います。
 ヴァシーリー・ヴェレシチャーギンはモスクワ南方の豪農の息子に生まれました。8歳で幼年学校に、11歳で海軍士官学校に入学しました。1859年に(17歳で)士官にもなりました。1860年に(18歳で)ペテルブルク美術学校へ入学しましたが、3年学んだ時点で退学しました。パリへ行き、エコール・デ・ボザールで学びました。1867年に誘われてトルキスタン遠征に従軍しました。帰国後の1868年に個展を開きました。1877年には露土戦争に従軍しました。従軍の合間に世界中を旅行して、スケッチ描きました。日本を訪れた時の絵も残っているようです。日露戦争の際搭乗していた戦艦が沈み、亡くなりました。年代順に作品を紹介します。
アフガニスタン人(ヴェレシチャーギン、1868年作)
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26歳の時の作品です。トルキスタン遠征の際のスケッチが基になっていると思われます。
お祝い(ヴェレシチャーギン、1868年作)
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ゴルゴダの丘の夕べ(ヴェレシチャーギン、1869年作)
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戦争の結末(ヴェレシチャーギン、1871年作)
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キルギスの裕福な鷹匠(ヴェレシチャーギン、1871年作)
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タージマハール(ヴェレシチャーギン、1874年作)
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シプカの戦場(ヴェレシチャーギン、1878年作)
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敗北。パニヒダ(ヴェレシチャーギン、1878年作)
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勝者たち(ヴェレシチャーギン、1879年作)
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ボロジノのナポレオン(ヴェレシチャーギン、1897年作)
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ナポレオンとロリストン元帥(ヴェレシチャーギン、1900年作)
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従軍した際の光景を描いた作品は、戦争の悲惨さを描いています。ナポレオン関連の作品を何故描いたかは、私には分かりません。依頼があったとしても、依頼主が思い浮かびません。

 ワシリー・スルコフ(1848~1916年)は、ロシア帝国末期の歴史画家です。テレチャコフ美術館で見た「モロゾワ侯爵の令嬢」という作品に感動して、画歴を調べました。
 ワシリー・スルコフは、シベリアのクラスノヤルスクのコサックの家庭に生まれました。1869年~71年にサンクトペテルスブルク帝国美術アカデミーに学びました。1877年からモスクワに定住しました。1881年巡回美術展協会(移動派)に参加しました。1893年サンクトペテルスブルク美術アカデミーの正会員となりました。年代順に作品を紹介します。
ピョートル大帝記念碑の眺め(スリコフ、1869年作)
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ユリウス・カエサルの暗殺(スリコフ、1875年作)
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自画像(スリコフ、1879年作)
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ストレリツィ処刑の朝(スリコフ、1881年作)
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モロゾワ侯爵の令嬢(スリコフ、1886年作)
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娘オルガの肖像(スリコフ、1888年作)
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盲人を癒すイエス・キリスト(スリコフ、1888年作)
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イエルマークによるシベリア征服(スリコフ、1895年作)
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アルプスを越えるスヴォーロフ(スリコフ、1899年作)
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ステパン・ラージン(スリコフ、1910年作)
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女子修道院を訪問する公女(スリコフ、1912年作)
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細密描写の密度の濃い絵が多いですネ。

 イワン・クラムスコイ(1837~1887年)は、ロシアの移動派(官立美術アカデミーの制約に反抗した人々)のリーダー的な画家です。「見知らぬ女/忘れられぬ女」という作品の写真を見られた方も多いと思います。
 イワン・クラムスコイはロシア南部の小市民階級出身で、1857年~1863年の間サンクトペテルスブルグの帝国美術アカデミーに学びました。イタリア芸術至高主義の官立美術アカデミーの方針に反発した「14人の反乱者」の首謀者として追放されました。仲間とともに「美術家組合」を結成して、ヴァシリエフスキー島にアトリエを設けて創作を続けました。夏はロシア独自の風俗画を、冬は歴史画を描きました。1863年~1868年の間実用芸術奨励協会の絵画教室の教員をやりました。肖像画で徐々に名を知られるようになりました。年代順に作品を紹介します。
自画像(クラムスコイ、1867年作)
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マーメイド(クラムスコイ、1871年作)
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荒野のイエス・キリスト(クラムスコイ、1872年作)
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月明りの夜(クラムスコイ、1880年作)
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見知らぬ女/忘れられぬ女(クラムスコイ、1883年作)
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トレチャコフ美術館所蔵・展示の目玉作品の一つです。この絵をご存じの方も多いと思います。製作直後は非常に不評だったそうです。
遣る瀬無い悲しみ(クラムスコイ、1884年作)
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娘の肖像を描く画家(クラムスコイ、1884年作)
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美しいというか、澄み切った絵を描く画家ですネ。

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