世界美術館巡り旅

世界の美術館・旅行・画家・絵画の情報共有サイト

カテゴリ: アメリカ人の画家

 アルバート・ビアスタット(1830~1902年)はドイツ生まれのアメリカ人画家です。ロマン主義的で雄大な風景画を多く描きました。
 アルバート・ビアスタットはドイツのゾーリンゲンで生まれ、家族とともにアメリカのマサチューセッツ州ニュー・ベッドフォードに移住しました。1853~57年の間デュッセルドルフ美術学校で絵を学びました。1859年にアメリカ土地調査官に同行して西部を旅行して、多くの風景をスケッチしました。その後何度も西部を旅行しました。1863年に発表した「ロッキー山脈のランダーズ・ピーク」で名声を得ました。年代順に作品を紹介します。
カッテイハンク島のゴースノルド(アルバート・ビアスタット 1858年作)
イメージ 1
カプリの小さな港(アルバート・ビアスタット 1859年作)
イメージ 2
インディアンの魚獲り(アルバート・ビアスタット 1862年作)
イメージ 3
ロッキー山脈のランダーズ・ピーク(アルバート・ビアスタット 1863年作)
イメージ 4
スイスのスターバッハ滝(アルバート・ビアスタット 1865年作)
イメージ 5
ヨセミテ渓谷(アルバート・ビアスタット 1868年作)
イメージ 6
山々の嵐(アルバート・ビアスタット 1870年作)
イメージ 7
カルフォルニアの春(アルバート・ビアスタット 1875年作)
イメージ 8
コーコラン山(アルバート・ビアスタット 1877年作)
イメージ 9
ロッキー山脈の嵐(アルバート・ビアスタット 1886年作)
イメージ 10
似たような絵を描き続けて、大衆からは徐々に忘れられた存在となったようです。制作年は分かりませんが、チョット毛色の違う作品を紹介します。
ローマの魚市場(アルバート・ビアスタット作)
イメージ 11

 ヴィルヘルム・ハイネ(1827~1885年)は黒船来航時にペリー提督随行していたことで知られるドイツ人・ドイツ系アメリカ人画家です。
 ヴィルヘルム・ハイネはドレスデンで、宮廷劇場付き喜劇役者の息子に生まれました。ドレスデン王立芸術学院で建築学を学びました。歴史画家ユリウス・ヒューブナーの工房で修行後、パリで三年ほど勉強しました。ドレスデンに戻り宮廷劇場の舞台美術の仕事をするとともに、絵画も教えていました。1848年革命のドレスデン蜂起に参加して、失敗後パリに亡命しました。1849年ニューヨークに移り、アトリエを構えました。外交官の知遇を得て中央アメリカ領事に同行することになりました。領事到着前には、領事代行を務めました。日本に向かうペリー提督に同行することを申し入れ、認められました。サスケハナ号甲板のアトリエを与えられました。
 南北戦争で北軍大尉として従軍しました。晩年の1871年にドイツ帝国に帰国しました。年代順に作品を紹介します。
ペリー提督横浜上陸(ヴィルヘルム・ハイネ 1855年作)
イメージ 1
玉泉寺から見た下田(ヴィルヘルム・ハイネ 1856年作)
イメージ 2
広東旧市街(ヴィルヘルム・ハイネ 1856年作)
イメージ 3
那覇(ヴィルヘルム・ハイネ 1856年作)
イメージ 4
箱根(ヴィルヘルム・ハイネ 1856年作)
イメージ 5
下田の公衆浴場(ヴィルヘルム・ハイネ作)
イメージ 6
ルビコン川/江戸湾入湾(ヴィルヘルム・ハイネ作)
イメージ 7
ナポリの港に入港した船(ヴィルヘルム・ハイネ作)
イメージ 8
芸術性よりも記録性を求められたんでしょう。

 エドワード・ホッパー(1882~1967年)は、日常の風景(都会の街路、事務所、レストラン、給油所・・・)を描いた多数の作品を残したアメリカ人画家です。
 エドワード・ホッパーはニューヨーク州ナイアックに生まれ、商業美術学校に進学しました。更にニューヨーク美術学校で絵画を学びました。アシュカン派(ゴミ箱派)の教師だったロバート・ヘンライの影響を受けました。
 1915年一旦エッチング画とイラストレーションに転向しましたが、1930年水彩画と油絵に復帰しました。1925年からの「線路脇の家」連作で、名声を得ました。年代順に作品を紹介します。
自画像(ホッパー 1906年作)
イメージ 1
夏の室内(ホッパー 1909年作)
イメージ 2
グロスター港(ホッパー 1912年作)
イメージ 3
ミシンの女(ホッパー 1921年作)
イメージ 4
線路脇の家(ホッパー 1925年作)
イメージ 5
自動販売機レストラン(ホッパー 1927年作)
イメージ 6
線路の夕日(ホッパー 1929年作)
イメージ 7
炒め煮ごはん(ホッパー 1929年作)
イメージ 8
日曜日の早朝(ホッパー 1930年作)
イメージ 9
高速ヨット(ホッパー 1935年作)
イメージ 10
ニューヨークの映画館(ホッパー 1939年作)
イメージ 11
コッド岬の夕(ホッパー 1939年作)
イメージ 12
ガソリン・スタンド(ホッパー 1940年作)
イメージ 13
ナイトホークス(ホッパー 1942年作)
イメージ 14
この絵が代表作だと言われます。ナイトホークスとは、夜鷹たち(夜更かし族)という意味のようです。
夏の夕(ホッパー 1947年作)
イメージ 15
コッド岬の朝(ホッパー 1950年作)
イメージ 16
海辺の部屋(ホッパー 1951年作)
イメージ 17
日差しの下の人々(ホッパー 1963年作)
イメージ 18
空き部屋に入る日差し(ホッパー 1963年作)
イメージ 19
 寂しいというか、孤独を感じさせる絵ばかりです。絵には人が居ないか、人が居ても画家を無視しています。複数の人が掛かれていても、カップル以外はそれぞれ無視しあっている感じです。良く見ると、カップルの間にも隙間風が吹いているように思えます。これほど徹底して孤独の寂しさを描いた画家は他に居ないように思います。

 ジョン・シングレドン・コプレイ(1738~1815年)と言えば、デトロイト美術館所蔵の次の作品で有名です。
ワトソンとその鮫(コプレイ、1775年作)
イメージ 12
 ジョン・シングレドン・コプレイは1738年に、ボストンのアイリッシュ夫婦の間に生まれました。家族はその2年前にボストンに移住したようです。母はタバコ店を経営していた。1743年(5歳)から夕方の絵画塾に通ったという伝承もあるようです。16歳で描かれた作品が残っているので、あながち嘘とも言い切れません。基本的には、ほぼ独学で絵を学んだようです。中産階級の人の肖像画家として名声を得て、1774年に(36歳で)イギリスに移住しました。イタリアで短期間学んだあと、1776年末からロンドンに定住しました。年代順に作品を紹介します。
マース、ヴィーナス、ヴァルカン(コプレイ、1754年作)
イメージ 1
16歳の時に描かれた絵です。ビックリですネ。
トーマス・ゲージの肖像(コプレイ、1756年作)
イメージ 2
ダニエル・サージェント夫人の肖像(コプレイ、1763年作)
イメージ 3
25歳の時の絵です。この辺りから注文が次々と入る画力になったようです。
リス(モモンガ?)と少年(コプレイ、1765年作)
イメージ 4
ジョージ・ワトソン夫人(コプレイ、1765年作)
イメージ 5
マーガレット・ケンブル・ゲージ(コプレイ、1771年作)
イメージ 6
昇天(コプレイ、1775年作)
イメージ 7
コプレイ家族の肖像(コプレイ、1776年作)
イメージ 8
ジブラルタル海戦の敗北(コプレイ、1782年作)
イメージ 9
ジャージーの戦い(コプレイ、1783年作)
イメージ 10
ジョージ・ルイスの肖像(コプレイ、1794年作)
イメージ 11
 コプレイは典型的肖像画家だったようです。「ワトソンとその鮫」のような絵が描かれたか不思議です。特殊な注文があったのでしょうか?イギリスに移住した直後というか、イタリアへ勉強に行った前後です。高尚なパトロンが得られたのでしょうか?

 メアリー・カサット(1844~1926年)はアメリカで絶大な評価を受けている、米国生まれの印象派女性画家です。アメリカの美術館には、例外なく彼女の作品が展示されています。非常に明るい色彩ですが、印象派からはチョット外れた印象の絵が多いです。彼女がどのように独特の画風に到達したか興味が湧き、調べて見ました。
 メアリー・カサットは米国ペンシルベニア州アレゲー(現ピッツバーグ)に、株式仲買人を父と、銀行家の出の母の間に生まれました。親の教育方針で、10歳までにロンドン、パリ、ベルリンと家族と一緒に渡り住みました。メアリー・カサットは家族の反対を押し切って、1861年(17歳)からフィラデルフィアのペンシルベニア美術アカデミーで4年間学びました。1866年にパリに移り住みましたが、普仏戦争を避けて間もなく帰国しました。1871年にピッツバーグの大教主からイタリア絵画模写の依頼を受けました。
 1872年(28歳)からパリで、カミーユ・ピサロの下で絵を学びました。その頃からパリのサロンに出品しましたが、明るすぎると酷評を受けました。私の眼からは明るすぎるとは思えず、実際は米国人で女性画家に意地悪な難癖をつけたという印象です。結構いるんですよね、このような既得権益を守ろうというか、余所者を排除するとかいう選考委員が。
 ドガから薦められて、印象派展に出品するようになりました。同じ女性画家のモリゾとも親交を重ねたようです。1891年(47歳)には独立したようです。1904年にフランス政府から、レジオンドヌール勲章を授与されたようです。
 1911年に糖尿病起因のリウマチ/白内障を患い、1914年に筆をおいたようです。その後も女性参政権運動に加わり、1926年に亡くなったようです。年代順に作品を紹介します。
マンドリンを弾く女性(カサット、1868年作)
イメージ 1
バラを投げる女性(カサット、1872年作)
イメージ 2
作画年度的に考えると、これが明るすぎると酷評を受けた絵と思われます。
バルコニーにて(カサット、1873年作)
イメージ 3
「明るすぎる。」とケチをつけられた翌年の作品と思われます。逆に暗いですよネ。根性の悪い選考委員が居ると、こうなっちゃうでしょうネ。
カサットの1873年作品
イメージ 4
コルティ婦人(カソット、1874年作)
イメージ 5
カサットのモデルは全て画家(鑑賞者)を見ていません。この絵のモデルだけは、画家を見ています。何か特別の人のような気がします。画家の理解者や応援者で、信頼を寄せていたのでしょうか>
 ここまでは暗めのオーソドックスというか、面白みのない絵でした。この後数年、絵を描かなかった、残らなかったようです。この間に両親と腎炎を患った姉が渡仏して、一緒に住むようになったようです。暫く画作しなかったのか、家族と同居した効果か、彼女の絵が変わります。「他人の意見など気にせず、自分の描きたいように描くんだ。」と吹っ切れたのでしょうか?
桟敷席(カサット、1878年作)
イメージ 6
ルノアールの絵と同じ劇場での絵のようです。女性が画家の方を無視して、オペラグラスを覗いています。彼女の決意の表れでしょうか。次の自画像より後の絵から、カサットの画風が完成します。
自画像(カサット、1878年作)
イメージ 7
カサットの1878年作品
イメージ 8
この絵も当初、評価が低かったようです。でも、カサットの画風の完成と思えます。
桟敷席で真珠を着けた女性(カサット、1879年作)
イメージ 9
お茶(カサット、1880年作)
イメージ 10
浜辺の子供(カサット、1884年作)
イメージ 11
ランプ(カサット、1891年作)
イメージ 12
湯浴み(カサット、1891年作)
イメージ 13
この絵は版画なので、あちこちの美術館に展示されています。
子供の入浴(カサット、1893年作)
イメージ 14
舟遊び(カサット、1894年作)
イメージ 15
母と子(カサット、1903年作)
イメージ 16
緑色の服を着た婦人(カサット、1914年作)
イメージ 17
カサットが筆をおいた年の作品です。

↑このページのトップヘ