世界美術館巡り旅

世界の美術館・旅行・画家・絵画の情報共有サイト

カテゴリ: オーストリア人の画家

 アントン・フォン・マロン(1733~1808年)はオーストリア出身の画家で、主にローマで活躍しました。
自画像(アントン・フォン・マロン作)
イメージ 1
 アントン・フォン・マロンはウィーンで画家の息子に生まれました。1751~54年の間ウィーン美術アカデミーで学び、1755年にローマに移りました。アントン・ラファエロ・メングの弟子となり、1766年にアカデミア・ディ・ルカの会員となりました。1772年からウィーン美術アカデミー再編に尽力し、ウィーンやローマで学生を指導しました。作品を紹介します。
ヨハン・セアヒム・ヴィンケルマンの肖像
(アントン・フォン・マロン 1768年作)
イメージ 2
ヨーゼフ2世の肖像(アントン・フォン・マロン 1772年作)
イメージ 3
ヨーゼフ2世の肖像(アントン・フォン・マロン 1775年作)
イメージ 4
自画像(アントン・フォン・マロン 1789年作)
イメージ 5
Michelangelo_Cambiasoの肖像(アントン・フォン・マロン 1792年作)
イメージ 6
オレステスの帰還(アントン・フォン・マロン作)
イメージ 7
羊飼いと聖母(アントン・フォン・マロン作)
イメージ 8
マリア・テレジアの肖像(アントン・フォン・マロン作)
イメージ 9
Anna_Pieri_Brignoleの肖像(アントン・フォン・マロン作)
イメージ 10
貴婦人の肖像(アントン・フォン・マロン作)
イメージ 11
貴婦人の肖像(アントン・フォン・マロン作)
イメージ 12
 眼差しをうまく描いた画家のようです。

 エゴン・シーレ(1890~1918年)は独自の捻じれた人物画で知られたオーストリア人画家です。
 エゴン・シーレはウィーン近郊で、帝国鉄道員の父とチェコ系オーストリア人の母の間に生まれました。家族は伝統的にカソリックではなくルター派に属していました。15歳で父が亡くなり、叔父に引き取られました。16歳でクリムトも通っていたウィーン工芸学校に入学し、更にウィーン美術アカデミーに進学しました。古典的なウィーン美術アカデミーに馴染まず、工芸学校先輩のクリムトの工房に出入りしていました。クリムトから推薦され、ウィーン工房に入会しました。
 1908年に個展を開催して、翌年にはウィーン美術アカデミーを正式に退学しました。ノン・クンスト・グルッペ(古い芸術を否定する集団)を仲間と設立しました。ゴッホやドイツ表現主義の絵画に強く影響を受けました。
 1914年に第一次世界大戦が勃発すると、オーストリア・ハンガリー軍に召集されました。軍上層部に画家であることを説明して理解され、前戦には出ずにスケッチなどの習作を続けました。1918年に終戦となり、クリムト主催の第49回ウィーン分離派展に多数出品しました。妻に引き続き、スペイン風邪で若くして亡くなりました。年代順に作品を紹介します。
バルコニーのある家(エゴン・シーレ 1905年作)
イメージ 1
メロン(エゴン・シーレ 1905年作)
イメージ 2
15歳で正式な絵画教育を受ける前の作品です。上手いですね。
マリア・シーレ(エゴン・シーレ 1907年作)
イメージ 3
まだ工芸学校生のころ描いた(恐らく)母親の肖像です。
舟遊び(エゴン・シーレ 1907年作)
イメージ 4
画家Anton Peschkaの肖像(エゴン・シーレ 1909年作)
イメージ 5
この絵はクリムトの画風の強い影響を受けているように見えます。
ダナエ(エゴン・シーレ 1909年作)
イメージ 6
アナキスト(エゴン・シーレ 1910年作)
イメージ 7
独自の画風に目覚め始めたようです。
胎児と女(エゴン・シーレ 1910年作)
イメージ 8
野の花(エゴン・シーレ 1910年作)
イメージ 9
三様の自画像(エゴン・シーレ 1911年作)
イメージ 10
秋の木々(エゴン・シーレ 1911年作)
イメージ 11
青い川の街(エゴン・シーレ 1911年作)
イメージ 12
Cardinal and Nun(エゴン・シーレ 1912年作)
イメージ 13
自画像(エゴン・シーレ 1912年作)
イメージ 14
橋(エゴン・シーレ 1913年作)
イメージ 15
聖家族(エゴン・シーレ 1913年作)
イメージ 16
自画像(エゴン・シーレ 1914年作)
イメージ 17
川の上の家(エゴン・シーレ 1914年作)
イメージ 18
眼の見えない母親(エゴン・シーレ 1914年作)
イメージ 19
死と乙女(エゴン・シーレ 1915年作)
イメージ 20
従軍中のスケッチ(エゴン・シーレ 1915年作)
イメージ 21
うつぶせの裸婦(エゴン・シーレ 1917年作)
イメージ 22
四本の木(エゴン・シーレ 1917年作)
イメージ 23
家族(エゴン・シーレ 1918年作)
イメージ 24
画商グイド・アルノの肖像(エゴン・シーレ 1918年作)
イメージ 25
街の端(エゴン・シーレ 1918年作)
イメージ 26
僅か28歳で病に倒れ、亡くなってしまいました。10年20年更に修練した後の絵を見たかったですネ。

 ジョヴァンニ・セガンティーニ(1858~1899年)はアルプスの絵画作品で知られたイタリア画家です。美しい作品が多いのですが、経歴を調べたら壮絶な前半生を過ごしたようです。それが逆に美しい絵を描くことになったのでしょうか。
 ジョヴァンニ・セガンティーニはオーストリア(現在はイタリア)のトレンティーノで、貧しい大工の息子に生まれました。母は1863年に(29歳で)亡くなりました。ジョヴァンニは僅か5歳でした。父親はジョヴァンニを連れてミラノの前妻家族の家に行きました。さらに父は、ジョヴァンニの異母兄を連れてアメリカに行きました。ジョヴァンニは異母姉に預けられましたが、姉が働きに行くとジョヴァンニは一人で留守番をする生活でした。その後薬屋で働きましたがやがて、他の店員に誘われてお店の金を持ち逃げしました。更にそのお金をその店員に持ち逃げされ、自宅に戻されました。
 やがてミラノで画家の助手兼弟子となりました。その後ブレラ美術学校の夜学に入学し、肖像画や劇場の小道具作製などで生活費を稼ぎました。1879年に(21歳で)ミラノの展覧会へ「聖アントニオ合唱の間」を出品して、銀賞を受けました。古典的な画法を忠実に守る事を拒んで、問題児扱いされました。やがてトラブルを起こし、美術学校を退学になりました。
 その後友人の助けを借りて、ミラノにアトリエを構えました。1881年に(23歳で)コモ湖畔に移住して、画作に励みました。アムステルダム万国博覧会に出品した「湖を渡るアヴェ・マリア 三部作」が金賞に輝きました。1886年に(28歳で)アルプスのスイス側に移住し、結婚して子供も設けました。1899年に(41歳で)腹膜炎で亡くなりました。年代順に作品を紹介します。
聖アントニオ合唱の間(セガンティーニ、1879年作)
イメージ 1
21歳の時に銀賞を受けた作品です。痛みが激しくて、技量はよく読み取れません。
牧歌(セガンティーニ、1882年作)
イメージ 2
バグパイプを吹くブリアンツァの男たち(セガンティーニ、1883年作)
イメージ 3
湖を渡るアヴェ・マリア 第二作(セガンティーニ、1886年作)
イメージ 4
28歳で画力・画風とも完成したようです。
 編み物をする娘(セガンティーニ、1888年作)
イメージ 5
二つの母性(セガンティーニ、1889年作)
イメージ 6
アルプスの真昼 風の日(セガンティーニ、1891年作)
イメージ 7
悪しき母たち(セガンティーニ、1891年作)イメージ 8
涅槃のマドンナ(セガンティーヌ、1891年作)
イメージ 9
アルプスの真昼(セガンティーヌ、1892年作)
イメージ 10
最後の旅(セガンティーヌ、1895年作)
イメージ 11
アルプス三部作 生(セガンティーニ、1899年作)
イメージ 12
アルプス三部作 自然(セガンティーニ、1899年作)
イメージ 13
アルプス三部作 死(セガンティーニ、1899年作)
イメージ 14
子供の頃に受けた深い心の傷を、アルプスの美しい風景で癒していたのでしょうか。どこか静かな絵が多いです。

 アンゲリカ・カウフマン(1741~1807年)はスイス生まれのオーストリア人新古典主義派の女性画家です。最初の女性画家の可能性があります。写実的な肖像作品を多数残しました。
 アンゲリカ・カウフマンはオーストリア画家の娘としてスイスで生まれ、程なくオーストリアに家族そろって戻りました。父親が絵画の手ほどきして、母親が語学を教えました。音楽の勉強もしました。絵画と音楽(オペラ)の両方の才能があり、悩んだ結果絵画を採りました。12歳の頃には、地元の僧侶や貴族の間で彼女は有名になっていたそうです。
 1754年に(13歳で)母親が亡くなりました。それを機会に父親がミラノに連れて行き、その後イタリアの各地を回りました。フィレンツェではアカデミー会員に若くして選ばれたようです。ローマ→ボローニャ→ヴェネツィアを最後に、1764年に(23歳で)帰国しました。イタリアの最後の頃は各地でその美貌と上手い歌と流暢な語学も加わって大評判だったようです。ドイツ語とイタリア語が流暢で、フランス語や英語も理解したと伝わります。
 1767年に(26歳で)スウェーデンの伯爵を騙った冒険家とだまされて結婚しました。程なく別居しましたが、離婚成立まで期間を要したようです。1768年にイギリスでロイヤル・アカデミー創立起案者のメンバーとなり、翌年には署名の最後にR.A.と記してあるので、ロイヤル・アカデミーの会員となっていたと思われます。年代順に作品を紹介します。
紳士とその娘の肖像(カウフマン、1764年作)
イメージ 1
自画像(カウフマン、1770~75年作)
イメージ 2
ヴェスタルに扮した女性の肖像(カウフマン、1770年代作)
イメージ 3
仲間との自画像(カウフマン、1778年作)
イメージ 4
若い女性の肖像(カウフマン、1781年作)
イメージ 5
眠るニンフを見る羊飼い(カウフマン、1781年作)
イメージ 6
ミランダとフェルディナンドの情景(カウフマン、1782年作)
イメージ 7
自画像(カウフマン、1785年作)
イメージ 8
自画像(カウフマン、1787年作)
イメージ 9
ヘレンを恋に落ちさせるヴィーナス(カウフマン、1790年作)
イメージ 10
女性の肖像(カウフマン、1795年作)
イメージ 11
どの絵も美男美女ばかりです。自画像も実際よりかなり若く見えます。盛る(実際よりきれいに描く)画家だったようです。

 アントン・ロマコ(1832~1889年)はウィーンで生まれ、ローマでそれなりに成功しました。1876年にウィーンに戻りましたが、鳴かず飛ばずで失意の内に亡くなりました。アクの強い作品を描いていたようなので、価値を認められるかどうかが微妙だったと思います。
 アントン・ロマコはウィーン近郊の工場経営者と家政婦の間に生まれました。1847年(15歳)から2年程ウィーン美術アカデミーに通いました。先生のヴァルトミュラーから「才能無し。」の判定を受けました。1849年にミュンヘンでWilhelm kaulbachに師事しました。
壁画の習作(Wilhelm kaulbach作)
イメージ 1
この画家の影響を一生引き継いだようです。
 その後ヴェニス、ローマ、ロンドンと居を移したようです。1850年代に個人的にCarl Rahlに師事しました。
若き未亡人(Carl Rahl、1849年作)
イメージ 2
二人の師匠の絵を見ると、自分好みの画家に弟子入りしたと思われます。
 1854年からイタリア、スペインを旅行して、1857年からローマに定住しました。ここで結婚して5人の子供にも恵まれました。ローマの外国人居留地で、画家として成功したようです。1876年に(44歳で)ウィーンに戻りました。ハンス・マカルトの名声とウィーン画壇権威から、ロマコは画風の再構築が必要となりました。ハンガリー、イタリア、フランスに度々出かけました。1887年には二人の娘が自殺するという事件にも遭遇しました。失意のうちに、ウィーンで亡くなりました。年代順に、作品を紹介します。
漁師の少年(アントン・ロマコ、1875年作)
イメージ 3
ウィーンに戻る直前の作品と思われます。
リサの海戦(アントン・ロマコ、1880年作)
イメージ 4
エリザベート皇妃(アントン・ロマコ、1883年作)
イメージ 5
若い男の肖像(アントン・ロマコ、1883年作)
イメージ 6
居間で寛ぐ紳士とご婦人(アントン・ロマコ、1887年作)
イメージ 7
制作年代の分からない代表削進も紹介します。
糸紡ぎ(アントン・ロマコ作)
イメージ 8
画家の娘(アントン・ロマコ作)
イメージ 9
ヨハン・シュトラウス 2世(アントン・ロマコ作)
イメージ 10
落穂ひろい(アントン・ロマコ作)
イメージ 11
ウィーンに戻らない方が幸せだったと思われます。故郷に錦を飾りたかったのでしょうか。

↑このページのトップヘ