世界美術館巡り旅

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カテゴリ: スイス人の画家

 ジュール・ジラルデ(1856~1938年)はパリで活躍した画家です。歴史画、肖像画、風俗画を多く描きました。
 ジュール・ジラルデはスイス ユグノーで作家の息子に生まれました。兄も弟も画家になりました。エコール・デ・ボザールで絵画を学び、アレクサンドル・カバネルの指導を受けました。1881年のサロン・ド・パリで栄冠を得て、1892年パリ万博で銀メダルを受賞しました。作品を調べると予想以上に風俗画が多く残っていました。年代順に作品を紹介します。
ルィーズ・ミッシェルの逮捕(ジュール・ジラルデ 1871年作)
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 この製作年が本当だとすると、15歳の時に描いたことになります。恐ろしいほどの早熟だったのか製作年が間違って伝わったのか、どちらなのか分かりません。
駐屯所のルィーズ・ミッシェル(ジュール・ジラルデ 1871年作)
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ロワール川を渡るレスキュールとヴァンデ軍(ジュール・ジラルデ 1882年作)
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ショレの敗走(ジュール・ジラルデ 1883年作)
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カンペールの国民衛兵に逮捕されたフェナンの反乱者
(ジュール・ジラルデ 1886年作)
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上記以外の作品は製作年が伝わっていないようです。いくつか紹介します。
シュアヌリの逸話(ジュール・ジラルデ作)
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1815年8月、プリマス・サウンドのナポレオン(ジュール・ジラルデ作)
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ウィーンのナポレオン・ボナパルトと家族(ジュール・ジラルデ作)
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ここからは風俗画を紹介します。
上の空の勉学(ジュール・ジラルデ作)
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庭の戯れ(ジュール・ジラルデ作)
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危険な登山(ジュール・ジラルデ作)
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花売り(ジュール・ジラルデ作)
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祖母の誕生日(ジュール・ジラルデ作)
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鳥の餌やり(ジュール・ジラルデ作)
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訪問者の歓迎(ジュール・ジラルデ作)
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恋文(ジュール・ジラルデ作)
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恋人たち(ジュール・ジラルデ作)
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 若い頃の力を込めた歴史画から、晩年は風俗画が多くなりました。色調も若い頃は明暗強めでデッサン重視です。晩年は明るく明暗も弱めです。何か心境・環境の変化があったのだと思われます。

 シャルル・グレール(1806~1874年)はスイスで生まれ、フランスで活躍した画家です。
自画像(シャルル・グレール作)
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 シャルル・グレールはスイス ローザンヌ近郊のシュヴィイで生まれましたが、9歳頃までに両親とも亡くなりました。リヨン在住の叔父に引き取られ産業学校に通う傍ら、地元画家の下で絵を学びました。
 その後パリのエコール・デ・ボザール(官立絵画学校)に進学しましたが、アカデミー・シュイス(私立画塾)にも出席しました。その後イタリアに行き、オラース・ヴェルネと知己を得ました。彼の推薦でアメリカ人の東地中海旅行に同行、更に中近東まで足を伸ばしました。1838年にフランス帰国し、1840年のサロン・ド・パリに出品した「聖ヨハネの黙示」注目され、1843年出品の「夕暮れ」で第二級メダルを受賞しました。1843年にポール・ドラローシュのアトリエを引き継ぎ、モネ、ルノアール、ホィッスラー等の若い画家を指導しました。授業料を徴収せず、自由に学ばせたようです。年代順に作品を紹介します。
トルコの女性(シャルル・グレール 1834年作)
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トロイの王族(シャルル・グレール 1835年作)
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シバの女王(シャルル・グレール 1838年作)
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エジプトの神殿(シャルル・グレール 1840年作)
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福音の伝道に向かう使徒の出発(シャルル・グレール 1845年作)
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許しを請うダヴリュイ(シャルル・グレール 1850年作)
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くびきに繋がれたローマ人(シャルル・グレール 1858年作)
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東洋の貴婦人(シャルル・グレール 1865年作)
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詩人サッポーの日没(シャルル・グレール 1867年作)
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夜又は失われた幻影(シャルル・グレール 1867年作)
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入浴(シャルル・グレール 1868年作)
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放蕩息子の帰還(シャルル・グレール 1873年作)
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ヴィーナスとパンデモス(シャルル・グレール作)
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アトリエでの教え子の間では、ホィッスラーが一番師の影響を受けたのでしょうか?

 テオフォルト・アレクサンドル・スタンラン(1859~1923年)はスイス生まれのフランス アールヌーボー画家・版画家です。ポスターを多く手がけました。
スタンランの肖像(ピーター・デュポン作)
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 テオフォルト・アレクサンドル・スタンランはスイス ローザンヌで生まれ、ローザンヌ大学で学びました。フランス東部ミュルズの織物工場のデザイン練習生となりました。その後パリ モンマルトルの芸術家コミュニティに住みました。キャバレー黒猫の集まりに参加して、ポスター制作にライを受けました。1890年代の独立美術家協会展に出品しました。年代順に作品を紹介します。
ルドルフ・サリの黒猫の巡業(スタンラン 1896年作)
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コケコッコウ(スタンラン 1896年作)
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ミルク飲料ポスター(スタンラン 1896~900年作)
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踊るマハラジャとドリア(スタンラン 1896~900年作)
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洗濯屋から帰る主婦と子供(スタンラン 1899年作)
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洗濯女たち(スタンラン 1899年作)
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モーターサイクル・コミオット(スタンラン 1899年作)
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クッションの上の猫(スタンラン 1909年作)
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洗濯屋からの帰り(スタンラン 1912年作)
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6月25日スラヴの日(スタンラン 1916年作)
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フランス兵(スタンラン 1917年作)
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カフェ・レオン(スタンラン 1921年作)
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ローザンヌのベルモント湾(スタンラン作)
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シェザンヌ・ヴァラドンの肖像(スタンラン作)
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油絵は余り描かなかったようです。

 アルノルト・ベックリン(1827~1901年)は、スイス出身の象徴主義の画家です。「死の島」や「波間の戯れ」などの作品をご存知の方もおられると思います。
 アルノルト・ベックリンはスイス バーゼルで生まれ、1845年(18歳)~47年(20歳)の間デュッセルドルフで学びました。1850年~57年の間、ローマに滞在しました。1860年~62年 ドイツ ヴァイマール(ワイマール)の美術学校で教えました。1874年~85年の間に、ミュンヘン、フィレンツェ、チューリッヒ、フィレンツェと次々と移り住みました。第一世界大戦後のドイツで大人気となりました。特に、「死の島」という作品が、大いに持て囃されました。ヒットラーもこの作者の絵を好み、多数収集したようです。年代順に作品を紹介します。
アレクサンダー・ミシェルスの肖像(ベックリン、1846年作)
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19歳の時の作品です。
アルバニアの山(ベックリン、1851年作)
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24歳ですでに、ものすごい細密描写が出来たようです。
ケンタウルスとニンフ(ベックリン、1855年作)
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アンジェラ・ベックリンの肖像(ベックリン、1863年作)
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芸術家とその妻(ベックリン、1864年作)
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ヴァイオリンを弾く死神の居る自画像(ベックリン、1872年作)
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ルッジェーロとアンジェリカ(ベックリン、1873年作)
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春(ベックリン、1875年作)
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寄せ波(ベックリン、1879年作)
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死の島 第一バージョン(ベックリン、1880年作)
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波間の戯れ(ベックリン、1883年作)
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海賊の攻撃(ベックリン、1886年作)
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死の島 第五バージョン(ベックリン、1886年作)
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生の島(ベックリン、1888年作)
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トリトンとネイレス(ベックリン、1895年作)
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戦争(ベックリン、1896年作)
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激怒するオーランド(ベックリン、1901年作)
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74歳で死ぬ直前まで、細密な描写力と集中力は落ちなかったようです。

 ヨハン・ハインリヒ・フュースリー(1741~1825年作)はイギリスで活躍したドイツ系スイス人のロマン主義画家です。怪奇的ながら美しい作品の「タイタニア」をご記憶の方も多いと思います。
 ヨハン・ハインリヒ・フュースリーはスイス チューリッヒで、肖像・風景画家の息子に生まれました。彼を聖職者にしたかった父親の意向で、カロリン・カレッジに進学しました。1761年f聖な行政官を非難した友人を支援したかどで、逆に国外追放となりました。ドイツ経由で、1765年にイギリスへ渡りました。書き物をして生計を立てていたのですが、画家のジョシュア・レイノズル卿にスケッチを見せたのが切っ掛けで、美術に専念するようになりました。1770年~78年の間イタリアを旅行して、1779年にイギリスに戻りました。そこで、ボイデル参事会員から仕事の注文を受けました。1788年にロイヤル・アカデミーの準会員に、1790年には正会員に選ばれました。1799年にアカデミーの美術教授に就任しました。1803年に芸術館長に就任しました。1810年に教授に復職して、1825年に(84歳で)亡くなりました。年代順に作品を紹介します。
Ezzelin and meduna(フュースリー、1779年作)
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インターネットで探し出せた一番初期(37歳)の作品です。
アキレスの死(フュースリー、1780年作)
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詩人兼歴史家との自画像(フュースリー、1781年作)
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夢魔(フュースリー、1781年作)
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ハムレットとその父の幽霊(フュースリー、1785年作)
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戦う雷神(フュースリー、1790年作)
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洗濯籠の中のほら吹き騎士(フュースリー、1792年作)
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エヴァの創造(フュースリー、1793年作)
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タイタニア(フュースリー、1794年作)
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大蛇に襲われた馬術家(フュースリー、1800年作)
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ロメオとジュリエット(フュースリー、1809年作)
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Fairy Mab(フュースリー、1820年作)
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ほとんど独学の画家ですが、すごい描写力です。更に独特の世界ですネ。

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