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カテゴリ: ドイツ人の画家

 シュテファン・ロッホナー(1400~1451年)はゴシック後期のドイツ人画家です。
 シュテファン・ロッホナーはドイツ南西部ボーデン湖の湖畔のメーマスブルクで生まれ、主にケルンで活躍しました。フランドル派の影響を受けたゴシックの画風です。次のケルン大聖堂の祭壇画がもっとも有名です。
ケルン大聖堂祭壇画(シュテファン・ロッホナー 1435年作)
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祭壇画中央パネルの最後の審判(シュテファン・ロッホナー 1435年作)イメージ 4
架刑(シュテファン・ロッホナー 1445年作)
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天国の庭の聖母(シュテファン・ロッホナー 1445~50年作)
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聖ヨハネとマグダラのマリア(シュテファン・ロッホナー 1448~50年作)
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薔薇垣の聖母(シュテファン・ロッホナー 1450年頃作)
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三賢人の礼拝(シュテファン・ロッホナー作)
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 ゴシックというより、フランドルの画風ですネ。

 フランツ・フォン・レンバッハ(1836~1904年)は肖像画を多く描いたドイツ人画家です。
自画像(フランツ・フォン・レンバッハ 1903年作)
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 フランツ・フォン・レンバッハはバイエルン州のシュローベンハウゼンで、建設会社の社長の息子に生まれました。商業学校で学んだ後、1851~52年の間ミュンヘンで彫刻を学びました。父親の死で故郷に戻った後、アウルスブルク応用科学大学に入学しました。余暇に絵を描く中画家となる意志を固め、ミュンヘン美術学校に入学しました。1858年のガラス宮殿展に出品して、旅行留学奨学金を獲得しました。師とローマ、パリ、ブリュッセルを旅行して帰国後、ワイマールのザクセン公国の美術学校教授に就任しました。1863年にイタリア旅行をして、1866年にミュンヘンへ帰国しました。パリ万国博覧会で金賞を受賞しました。1869年にガラス宮殿展で金賞を受賞し、1865~76年の間にエジプトをシバシバ訪問しました。1882年バイエルン王国から功労章を叙勲され、貴族に列せられました。翌年ローマへ行き、教皇レオ13世の肖像画を依頼されました。1887年にミュンヘンに戻り、1902年にフランスからレジオンドヌール勲章を叙勲されました。作品を紹介します。
レオ13世の肖像(フランツ・フォン・レンバッハ 1885年作)
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画家の娘マリオンの肖像(フランツ・フォン・レンバッハ 1890年代作)
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画家の娘マリオンの肖像(フランツ・フォン・レンバッハ 1901年作)
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アドルフ・フォン・シャックの肖像(フランツ・フォン・レンバッハ作)
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ティトスの凱旋門(フランツ・フォン・レンバッハ作)
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マリー・ヴィクトリア・ライターの肖像(フランツ・フォン・レンバッハ作)
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貴婦人の肖像習作(フランツ・フォン・レンバッハ作)
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オットー・フォン・ビスマルク王子の肖像(フランツ・フォン・レンバッハ作)
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フランツ・ヨーゼフ1世の肖像(フランツ・フォン・レンバッハ作)
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画家の後妻シャルロットの肖像(フランツ・フォン・レンバッハ作)
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 肖像画で数々の勲章を得て、貴族にもなりました。美しい肖像画を描きますね。

 ヨハン・モーリッツ・ルゲンダス(1802=1858年)は19世紀前半の中南米各地の作品を描いたドイツ人画家です。
ヨハン・モーリッツ・ルゲンダスの肖像
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 ヨハン・モーリッツ・ルゲンダスはバイエルン王国アウグスブルクで画家の息子に生まれました。父から絵の手ほどきを受け、ミュンヘンの美術学校で学びました。オーストリア帝国の自然主義者たちの支援を受け熱帯地域を旅行して、1821年にブラジルへ到着しました。探検のための画家に雇われたりしました。1825年までブラジルにとどまり、1825~28年の間ヨーロッパに戻りました。1831年に配置からメキシコに渡りましたが、1834年にはメキシコを追放されました。その後チリ、アルゼンチン、ウルグアイ、ペルー、ボリビアを転々として、1845年にリオデジャネイロに戻りました。1846年にヨーロッパに戻り、バイエルンで亡くなりました。年代順に作品を紹介します。
リオデジャネイロの衣装(ヨハン・モーリッツ・ルゲンダス 1823年作)
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奴隷狩人(ヨハン・モーリッツ・ルゲンダス 1823年作)
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農場のインデアン(ヨハン・モーリッツ・ルゲンダス 1824年作)
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奴隷船(ヨハン・モーリッツ・ルゲンダス 1830年作)
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カポエイラと戦いの踊り(ヨハン・モーリッツ・ルゲンダス 1835年作)
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リオのバトゥーキ(ヨハン・モーリッツ・ルゲンダス 1835年作)
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リマのプラザ(ヨハン・モーリッツ・ルゲンダス 1840年作)
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ブラジル王子Afonsoの肖像(ヨハン・モーリッツ・ルゲンダス 1846年作)
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ブラジルのペデロ2世(ヨハン・モーリッツ・ルゲンダス 1846年作)
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テレサ クリスティーヌの肖像(ヨハン・モーリッツ・ルゲンダス 1846年作)
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ギュスターヴ・シーヴの肖像(ヨハン・モーリッツ・ルゲンダス 1855年作)
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ラ・グアイラでのミランダの歓待(ヨハン・モーリッツ・ルゲンダス作)
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貴婦人の肖像(ヨハン・モーリッツ・ルゲンダス作)
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 ヨハン・ペーター・フォン・ランガー(1756~1824年)は宗教画や肖像画を多く描いたドイツ人画家です。
ヨハン・ペーター・フォン・ランガーの肖像
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 ヨハン・ペーター・フォン・ランガーはデュッセルドルフで貴族に仕える庭師の息子に生まれました。1775年からプファルツ選帝侯領絵画・彫刻・建築アカデミー(デュッセルドルフ美術アカデミーの前身)で学びました。アカデミー展覧会で1776年に二等、1778年に一等を受賞して、奨学金を得ました。1784年に同アカデミーの教授に就任しました。1788年にオランダ研究旅行をしました。フランス革命後の荒廃でデュッセルドルフ美術アカデミーは活動を停止しました。1801年に平和が訪れ、デュッセルドルフ絵画館館長に就任しました。1802年にデュッセルドルフ美術アカデミーの活動が再開しました。1808年バイエルン王に招かれ、ミュンヘン美術院の校長に就任しました。同年貴族に叙せられました。作品を紹介します。
思想家ヤコービの肖像(ヨハン・ペーター・フォン・ランガー作)
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実業家ゼーリヒマンの肖像(ヨハン・ペーター・フォン・ランガー作)
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Kronprinzessin Thereseの肖像(ヨハン・ペーター・フォン・ランガー作)
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子供へのキリストの祝福(ヨハン・ペーター・フォン・ランガー作)
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アダムとエヴァ(ヨハン・ペーター・フォン・ランガー作)
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キリストの昇天(ヨハン・ペーター・フォン・ランガー作)
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貞淑なペネロペ(ヨハン・ペーター・フォン・ランガー作)
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平和の寓意(ヨハン・ペーター・フォン・ランガー作)
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芸術家の夫人(ヨハン・ペーター・フォン・ランガー作)
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化学者(ヨハン・ペーター・フォン・ランガー作)
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芸術家の息子たち(ヨハン・ペーター・フォン・ランガー作)
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聖ヨハネと聖母子(ヨハン・ペーター・フォン・ランガー作)
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 インターネット上に綺麗な写真が少ない画家です。理由は良く分かりませんでした。

 ロベルト・ライニック(1805~1852年)はドイツ人の画家・詩人です。
ロベルト・ライニックの肖像(フランツ・クーグラー 1828年作)
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 ロベルト・ライニックは(現ポーランド北部の)グダニスクで生まれました。1825年からベルリンの美術アカデミーで学び、1831年からはデュッセルドルフ美術アカデミーでフリードリヒ・シャドーに学びました。イタリアを旅行した後結婚して、ドレスデンに住み詩人・翻訳家・画家の仕事をしました。画家・歴史学者だけでなく、シューマンやワーグナーなどの音楽家とも幅広く交流しました。多くは残っていない作品をいくつか紹介します。
Chamisso_Adelbertの肖像(ロベルト・ライニック 1831年作)
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Głowa_dziewczynkiの肖像(ロベルト・ライニック 1850年作)
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少女向け本の表紙(ロベルト・ライニック作)
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 少女の肖像画を見ると、相当高い画力を持っていたようです。もっと沢山の作品を見たかったのですが、これ以上は見つかりませんでした。

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