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カテゴリ: イギリス人の画家

 トーマス・ローレンス(1769~1830年)はイギリス人の肖像画家です。
自画像(トーマス・ローレンス 1788年作)
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 トーマス・ローレンスはブリストルの宿屋主人の息子に生まれました。6歳で既に客の好きなものを描いたり、政治家演説の物まねをやっていたようです。1779年に父親が事業に失敗して、トーマス・ローレンスの早熟な才能で家族を養うような状況でした。オックスフォードでクレヨン肖像画家として名が知られるようになりました。1782年に家族はバースに移り住み、1784年にはクレヨン芸術協会から銀製パレットを贈られました。
 1787年にはロンドンに出て、ジョシュア・レノルズに見込まれてロイヤル・アカデミーに入り、1791年には(22歳で)ロイヤル・アカデミーの正式会員となりました。1792年には、古典芸術愛好貴族たちのディレッタンティナ協会の画家に任命されました。更にジョージ3世のお抱え画家になりました。1805年にはナイトの爵位を授けられ、1820年にはロイヤル・アカデミーの会長に就任しました。年代順に作品を紹介します。
マリア・リンリーのクレヨン肖像画(トーマス・ローレンス作)
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シャロット女王の肖像(トーマス・ローレンス 1789年作)
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詩を発表するホーマー(トーマス・ローレンス 1790年作)
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エリザベス・ファーレンの肖像(1791年頃作)
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アレキサンダー・マッキンジーの肖像(トーマス・ローレンス 1800年頃作)
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アーサー・ウェルスリーの肖像(トーマス・ローレンス 1814年作)
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法王Pius7世(トーマス・ローレンス 1819年作)
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ブレッシントン伯爵夫人マーゲリート(トーマス・ローレンス 1819年作)
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ジョージ4世の肖像(トーマス・ローレンス 1821年作)
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Lady Maria Conyngham(トーマス・ローレンス 1825年作)
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ランプトン少年(トーマス・ローレンス 1825年作)
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Mrs. Seymour Bathurst(トーマス・ローレンス 1828年作)
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ポルトガルのマリア2世(トーマス・ローレンス 1829年作)
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サリー・シドン(トーマス・ローレンス作)
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淑女マリア・オグランダー(トーマス・ローレンス作)
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肖像画のモデルは全員が目が大きくてパッチリです。肖像画なので、盛っている(実際より美男美女に描いている)と思われます。

 ウィリアム・ホガース(1697~1764年)はロココ期のイギリス人画家です。風刺画を多く残し、「風刺画の父」と呼ばれたようです。当時の風俗や世相が分からないので、実際の絵を見ても風刺画なのか風俗画なのか分からない絵が多いと感じます。
 ウィリアム・ホガースはロンドンで貧しい教師の息子に生まれました。銀細工工房に弟子入りしたり版画家をやったりの下積みをした後、風刺連作で徐々に知られるようになりました。後半生は肖像画の注文が多かったようです。年代順に作品を紹介します。
Beggarsオペラの一場面(ウィリアム・ホガース 1728年作)
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Beggarsの意味は、乞食/寄付集め/懇願者です。右側の女性が妻で左側の女性が浮気相手のようです。二人の女性が逆の懇願をしているようです。Beggarsはこの二人の事のようです。真ん中の男は困った顔をしています。周りの人々も無関心か困り顔です。イギリスだからか、(フランスの)エスプリを感じません。風刺画と言うより風俗画のように感じます。中央の男性が当時の有名人なんでしょうか?
監獄のコミッティー(ウィリアム・ホガース 1729年作)
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コミッティーのメンバーは全員、夫々別々の方向を向いています。纏まりが無いコミッティーを風刺しているというより、非難している絵です。
ティー・パーティー人形で遊ぶ子供たち(ウィリアム・ホガース 1730年作)
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頭が大きい上、腕や手が極端に小さく描かれています。人形遊びをしている内に、人形みたいになったのでしょうか?何を風刺しているのか分かりません。
採用試験(ウィリアム・ホガース 1730年作)
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採用面接官が袖の下を貰っています。風刺画というより、批判画(非難画)です。
ビフォアー・室内(ウィリアム・ホガース 1731年作)
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アフター・室内(ウィリアム・ホガース 1731年作)
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この2枚も風刺画と言うより、風俗画と感じます。この頃から評判が高まって、肖像画の注文が多く入り始めたようです。
エドワーズ・ハミルトンの家族(ウィリアム・ホガース 1934年作)
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風俗画に比べて、肖像画の顔や首の座りがまだまだ不自然な感じです。何か意図(風刺)があるのか、肖像画特有の「盛る(実物より綺麗に描く)」のに迷いがあったのでしょうか?次の絵も不自然です。
家族の集まり(ウィリアム・ホガース 1735年作)
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家族なのにそれぞれのグループがよそよそしい感じです。風刺なんでしょうか?
浴場のキリスト(ウィリアム・ホガース 1736年作)
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一日の連作・夜(ウィリアム・ホガース 1736年作)
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カトリーヌ・ヴァスレットの肖像(ウィリアム・ホガース 1739年作)
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肖像画の描き方を会得したようです。自信に溢れた描きぶりです。
エビ売りの女(ウィリアム・ホガース 1740年頃作)
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白いプードルと少年(ウィリアム・ホガース 1740~50年作)
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ジョージ・グラハム艦長の肖像(ウィリアム・ホガース 1742~44年作)
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当世風の結婚 第二場(ウィリアム・ホガース 1743年作)
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様々な結婚・化粧(ウィリアム・ホガース 1744年作)
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自画像(ウィリアム・ホガース 1745年作)
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選挙(ウィリアム・ホガース 1755年作)
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描くホガース(ウィリアム・ホガース 1757年作)
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道徳の危機(ウィリアム・ホガース 1758~60年作)
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ジキムスントの哀悼(ウィリアム・ホガース 1759年作)
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40歳にして、当時超一流の肖像画家になったようです。注文が引きも切らなかったと思われます。

 エドワード・ポインター(1836~1919年)はイギリスの画家・デザイナーです。歴史画で名声を高め、ナイトや準男爵の爵位も授与されました。
 エドワード・ポインターはパリで建築家の息子として生まれました。イプスウィッチ・スクールとブライトン・カレッジで学びました。並行して、ロンドン・ローマ・パリで絵画を学びました。1867年の「エジプトのイスラエル人」、1871~75年の「シバの女王のソロモン王訪問」で高い評価を受けました。
 1871年~75年の間、ロンドン大学美術講座の教授を務めました。1876年にロイヤル・アカデミーの会員に選ばれました。1875年~81年の間、ナショナル・アート・トレーニング・スクールの校長を務めました。1894年~1904年の間、ナショナルギャラリーのディレクターを務めました。1896年にロイヤル・アカデミーの総裁に任命され、ナイトの称号を授けられました。更に1902年に準男爵の爵位を授けられました。年代順に作品を紹介します。
吟遊詩人トルバドウール(エドワード・ポインター 1859年作)
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神の家畜を盗むマーキュリー(エドワード・ポインター 1860年作)
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水運び(エドワード・ポインター 1862年作)
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この作品の辺りで、画力は完成したようです。
セイレーン(エドワード・ポインター 1864年作)
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音楽で船乗りを呼び寄せる女神(魔女?)のようです。ローレライの様な存在のようです。
エジプトのイスラエル人(エドワード・ポインター 1867年作)
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名声の第一歩になった作品です。
カタパルト(エドワード・ポインター 1868年作)
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アンドロメダ(エドワード・ポインター 1869年作)
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林の風景(エドワード・ポインター 1873年作)
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自画像(エドワード・ポインター 1882年作)
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3月のイデス(エドワード・ポインター 1883年作)
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窓辺(エドワード・ポインター 1884年作)
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市場の一画(エドワード・ポインター 1887年作)
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シバの女王のソロモン王訪問(エドワード・ポインター 1890年作)
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庭で(エドワード・ポインター 1891年作)
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ヴェニスのサンマルクの鐘(エドワード・ポインター 1903年作)
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嵐の洞窟のニンフ(エドワード・ポインター 1903年作)
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干潮(エドワード・ポインター 1913年作)
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チャンピオン・スイマー(エドワード・ポインター 1914年作)
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公務が忙しかったと思いますが、画力も画作への情熱も衰えなかったようです。

 フランシス・ベーコン(1909~1992年)はアイルランド生まれのイギリス人画家です。第二次世界大戦後も抽象画に距離を保ちました。ただ非常に歪んだ具象画を描いたので、具象画家とも呼び辛い画家です。
 フランシス・ベーコンはダブリン(アイルランド)で、退役軍人で競馬訓練士を父にに生まれました。父の家系は、高名な哲学者のフランシス・ベーコンの異母兄に繋がっていました。小児喘息の持病から学校には行かず、個人授業で学びました。1926年(17歳)から水彩や素描を始めました。
 1927年(18歳)からベルリン/パリ/ロンドンで家具設計や室内装飾の仕事を始めました。このころから油絵も始めました。1934年に個展を開きましたが、その後に自作の大部分を破棄しました。1944年から捜索を再開し、1950年からロイヤル・カレッジ・オブ・アーツで指導も始めました。
 歪んだ絵を描き始める前の作品が殆ど破棄されたようで、歪んだ絵を描き始めた理由は分かりませんでした。年代順に作品を紹介します。
肖像(フランシス・ベーコン 1932年作)
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23歳の時の絵です。歪んではいませんが、写実的とも言えません。何か屈折した心境にあったのでしょうか?
十字架刑(フランシス・ベーコン 1933年作)
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ピカソ作ダンスからの習作(フランシス・ベーコン 1933年作)
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この後に個展を開き、その後作品の大部分を廃棄しました。個展が不評だったのでしょうか?1944年に創作を再開すると、更に歪みが激しくなりました。
十字架刑(フランシス・ベーコン 1944年作)
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頭 Ⅵ(フランシス・ベーコン 1949年作)
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ベラスケスからの習作(フランシス・ベーコン 1950年作)
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この年から教鞭に立ちました。当時の画壇に受け入れられたと思われます。
教皇(フランシス・ベーコン 1951年作)
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肖像の習作(フランシス・ベーコン 1952年作)
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座る姿(フランシス・ベーコン 1961年作)
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ジョージ・ダイヤーの肖像の三連画(フランシス・ベーコン 1962年作)
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ヘンリエッタ・モラエの肖像の三連画(フランシス・ベーコン 1963年作)
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夏の三連画(フランシス・ベーコン 1972年作)
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ドア通路に立つ裸婦(フランシス・ベーコン 1972年作)
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ベッドの上の人の習作三連画(フランシス・ベーコン 1972年作)
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自画像(フランシス・ベーコン 1973年作)
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自画像(フランシス・ベーコン 1973年作)
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自画像(フランシス・ベーコン 1982年作)
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自画像の三連画(フランシス・ベーコン 1986年作)
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人体の習作(フランシス・ベーコン 1991年作)
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三連画(フランシス・ベーコン 1991年作)
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なぜこのように歪んだ絵を描き続けたのか、凡人の私には分かりませんでした。

 ローレンス・アルマ=タデマ(1836~1912年)は、ヴィクトリア期のイギリスで歴史画作品を多く描いた画家です。
 ローレンス・アルマ=タデマは、オランダ ドロンライプで村の公証人の息子に生まれました。4歳の時に父親が亡くなりパリに移住していましたが、普仏戦争を逃れるため1870年にイギリスへ帰化して、ロンドンに定住しました。1863年の新婚旅行でポンペイなどを回った時に建築や調度品に感銘し、歴史画を描くようになりました。1906年イギリス王立建築学会からゴールドメダルを受けました。年代順に作品を紹介します。
自画像(アルマ=タデマ、1852年作)
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16歳の時の絵です。
クロービスの子供の教育(アルマ=タデマ、1861年作)
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ローマのワイン利き酒(アルマ=タデマ、1861年作)
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チェスで遊ぶエジプト人(アルマ=タデマ、1865年作)
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友人にパルテノンの壁画を見せるフィディアス(アルマ=タデマ、1868年作)
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ワイン祭り(アルマ=タデマ、1870年作)
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テピダウリム(アルマ=タデマ、1881年作)
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アントニーとクレオパトラ(アルマ=タデマ、1883年作)
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アムフィッサンの女たち(アルマ=タデマ、1887年作)
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ヘリオガバルスの薔薇(アルマ=タデマ、1888年作)
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冷水風呂(アルマ=タデマ、1890年作)
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知らず知らずのライヴァル(アルマ=タデマ、1893年作)
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自画像(アルマ=タデマ、1896年作)
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青いイオニアの空の下(アルマ=タデマ、1903年作)
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モーゼの発見(アルマ=タデマ、1904年作)
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お気に入りの習慣(アルマ=タデマ、1909年作)
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歴史画家とされていますが、作品を俯瞰すると歴史を画題とした風俗画という感じです。歴史に深い蘊蓄はなさそうです。

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