世界美術館巡り旅

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カテゴリ: 気になる画家千夜一夜(18世紀)

 アレッサンドロ・マニャスコ(1667~1749年)はバロック期のイタリア人画家です。
自画像(アレッサンドロ・マニャスコ作)
800px-Self-Portrait
 アレッサンドロ・マニャスコはジェノヴァで凡庸な画家の息子に生まれました。父から絵の手ほどきを受けた後、フィレンツェのフィリッポ・アッビアー二の工房に弟子入りしました。その後ミラノで活動を続け、1735年に故郷のジェノヴァへ戻りました。年代順に作品を紹介します。
飼い慣らされたカササギ(アレッサンドロ・マニャスコ 1707~08年作)
1707-08  飼い慣らされたカササギ
監獄での尋問(アレッサンドロ・マニャスコ 1710年作)
1710  監獄での尋問
休む盗賊たち(アレッサンドロ・マニャスコ 1710年作)
1710 _Banditti_at_Rest休む追剥
どんちゃん騒ぎ(アレッサンドロ・マニャスコ 1710年代作)
1710s  どんちゃん騒ぎ
ユダヤ人の葬儀(アレッサンドロ・マニャスコ 1720年作)
1720  ユダヤ人の葬儀
ジプシーの婚宴(アレッサンドロ・マニャスコ 1730~35年作)
1730-35  ジプシーの婚宴
波の中の悪魔祓い(アレッサンドロ・マニャスコ 1735年作)
1735  Exorcism-of-the-waves
ガリレイの海のキリスト(アレッサンドロ・マニャスコ 1740年作)
1740  Christ_at_the_Sea_of_Galilee
嵐の海の予兆(アレッサンドロ・マニャスコ 1744年作)
1744  嵐の海の予兆
修道女たち(アレッサンドロ・マニャスコ作)
修道女
 暗い画面の絵が多いですね。

 ベルナルド・ベッロット(1720~1780年)はカナレットの甥に当たるイタリア人風景画家です。
 ベルナルド・ベッロットはヴェネツィアで生まれました。才能を認められ14歳から、伯父のカナレットの下で修行しました。1742年に単身でローマ旅行しました。1744年には北イタリアを旅行しました。1747年から1758年の間ポーランド王アウグストの招きで、領地であったドレスデンに滞在しました。1758年にはハプスブルク家マリア・テレジアにウィーンへ招かれました。ミュンヘン・サンクトペテルブルクを旅行した後、ポーランド宮廷画家となりました。年代順に作品を紹介します。
ヴェネツィア大運河(ベルナルド・ベッロット 1738年作)
1738 grand-canal-view-from-north
サン・マルコ広場(ベルナルド・ベッロット 1740年作)
1740  san-marco-square-from-the-clock-tower
コロッセウム(ベルナルド・ベッロット 1742年作)
1742  colosseum-and-arch-of-constantine-rome
エルベ側右岸から見たドレスデン(ベルナルド・ベッロット 1748年作)
1748 erube-kawa ugannkaramita doresudenn
ヴェネツィアのドミニカン教会(ベルナルド・ベッロット 1758年作)
1758  the-dominican-church-in-vienna
スタニスワフ2世を選出した国王自由選挙(ベルナルド・ベッロット 1764年作)
1764 スタニスワフ2世を選出した国王自由選挙
聖アンナ教会(ベルナルド・ベッロット 1774年作)
1774 sei-annna-kyoukai
蜂蜜通り(ベルナルド・ベッロット 1777年作)
1777  hachimitsu-doori
クラクフの眺望(ベルナルド・ベッロット 1778年作)
1778  view-of-cracow-suburb-from-nowy-świat-street
ブルー・パレス(ベルナルド・ベッロット 1779年作)
1779  the-blue-palace
 二十歳までは伯父のカナレットそっくりの絵を描いていたようです。

 ジャンバッティスタ・ピット―二(1687~1767年)はバロック期のイタリア人画家です。
ジャンバッティスタ・ピット―二の肖像
ジャンバッティスタ・ピット―二の肖像
 ジャンバッティスタ・ピット―二はヴェネツィアで生まれ、叔父の画家フランチェスコ・ピット―二に弟子入りしました。20歳代半ばで叔父の名声を超えました。1750年にヴェネツィア絵画・彫刻・建築アカデミーの創立メンバー46人に入りました。その後ヴェネツィア美術アカデミーとなり、1758~1760年の間会長となりました。年代順に作品を紹介します。
バッカスとアリアドネ(ジャンバッティスタ・ピット―二 1720年代作)
1720s  Pittoni_Bacchus_and_Ariadneバッカスとアリアドネ
カンダウレス王の死(ジャンバッティスタ・ピット―二 1720年代作)
1720s   カンダウレス王の死
エジプトへの逃避行(ジャンバッティスタ・ピット―二 1725~26作)
1725-26-エジプトへの逃避行
聖アントニーの透視(ジャンバッティスタ・ピット―二 1730年作)
1730 聖アントニーの透視
ポリュクスネの生贄(ジャンバッティスタ・ピット―二 1735年作)
1735 ポリュクセネーの生贄
三賢人の礼拝(ジャンバッティスタ・ピット―二 1740年作)
1740  -三賢人の礼拝
キリストの降誕(ジャンバッティスタ・ピット―二 1740年作)
1740 キリストの降誕
受胎告知(ジャンバッティスタ・ピット―二 1757年作)
1757 受胎告知
アキレスの墓の前のポリュクスネ(ジャンバッティスタ・ピット―二作)
アキレスの墓の前のポリュクセネー
イザックの生贄(ジャンバッティスタ・ピット―二作)
イザックの生贄
ブレンタの眺望(ジャンバッティスタ・ピット―二作)
ブレンタの眺望
スザンヌと長老たち(ジャンバッティスタ・ピット―二作)
スザンヌと長老たち
聖ヒエロニムス(ジャンバッティスタ・ピット―二作)
聖ヒエロニムス
 アカデミーの校長を務めただけはある画力ですね。

 カナレット(1697~1768年)はヴェネツィア共和国で活躍したイタリア人景観画家です。
カナレットの肖像
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 カナレットはヴェネツィアで画家ベルナルド・カナールの息子に生まれました。父親と識別する為に、カナレット(「小カナール」の意味)と呼ばれ始めたようです。20代の頃ローマで父親と舞台背景を描いたりしていたようです。1720年頃にヴェネツィアへ戻りました。英国商人ジョセフ・スミスがパトロンとなり、景観画を多く描きました。1750年前後の10年間で数回英国に滞在したようです。年代順に作品を紹介します。
サン・マルコ広場(カナレット 1723年作)
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サン・マルコ広場前の流域(カナレット 1730年作)
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サン・マルコ広場とバジリカ(カナレット 1730年作)
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サン・マルコ広場前の流域(カナレット 1738年作)
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フランス大使のドッジ王宮到着(カナレット 1742年作)
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イートン・カレッジのチャペル(カナレット 1747年作)
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ウエスト・ミュンスター橋の下に見えるシティー(カナレット 1747年作)
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アルンウィック城(カナレット 1750年頃作)
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サンタ・チアリの運河(カナレット 1750年作)
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サン・マルコ広場(カナレット 1760年作)
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 調べると非常に多作な画家だったようです。世界中の美術館でカナレットの作品が見られるのも頷けました。

 アントン・フォン・マロン(1733~1808年)はオーストリア出身の画家で、主にローマで活躍しました。
自画像(アントン・フォン・マロン作)
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 アントン・フォン・マロンはウィーンで画家の息子に生まれました。1751~54年の間ウィーン美術アカデミーで学び、1755年にローマに移りました。アントン・ラファエロ・メングの弟子となり、1766年にアカデミア・ディ・ルカの会員となりました。1772年からウィーン美術アカデミー再編に尽力し、ウィーンやローマで学生を指導しました。作品を紹介します。
ヨハン・セアヒム・ヴィンケルマンの肖像
(アントン・フォン・マロン 1768年作)
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ヨーゼフ2世の肖像(アントン・フォン・マロン 1772年作)
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ヨーゼフ2世の肖像(アントン・フォン・マロン 1775年作)
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自画像(アントン・フォン・マロン 1789年作)
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Michelangelo_Cambiasoの肖像(アントン・フォン・マロン 1792年作)
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オレステスの帰還(アントン・フォン・マロン作)
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羊飼いと聖母(アントン・フォン・マロン作)
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マリア・テレジアの肖像(アントン・フォン・マロン作)
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Anna_Pieri_Brignoleの肖像(アントン・フォン・マロン作)
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貴婦人の肖像(アントン・フォン・マロン作)
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貴婦人の肖像(アントン・フォン・マロン作)
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 眼差しをうまく描いた画家のようです。

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