世界美術館巡り旅

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カテゴリ: 気になる名画千夜一夜

 王立フェルナンド・美術アカデミー(マドリード)に行く機会がありましたら、ぜひゴヤ作の「鰯の埋葬」をご鑑賞ください。ゴヤの絵の間でも、ユニークな小品です。鰯の埋葬はマドリードの2月初旬謝肉祭最後のお祭りで、現在も続いています。その様子を描いているのですが、何か深い意味がありそうです。
              「鰯の埋葬」の前で
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王立フェルナンド・アカデミー美術館で有名な絵ですが、どちらかという小品の大きさです。ゴヤのパトロンの一人、マヌエル・ガルシア・デ・ラ・プラーダが旧蔵していたと伝わっています。この人物は1811年にマドリード市長だったようです。他にもゴヤ作「異端審問」も所有していたようです。
          鰯の埋葬(ゴヤ、1812~15年作)
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 大勢の人々がほぼ全員仮面を着け、狂喜乱舞しています。不気味な顔の旗も掲げています。何か深い事情がありそうにも見えます。この不気味な顔に似たゴヤ作品がありました。
          tio-paquete(叔父さんの荷物)ゴヤ作
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 この絵は、ゴヤの孫が所有していたようです。伯父さんが一旦相続したのちに、甥(ゴヤの孫)が相続したのでしょうか。この絵の人物は、教会の入り口近く音楽を奏でていた盲目の乞食のようです。
 当時のマドリードはフランスに進駐された状況でした。1807年にナポレオン率いるフランス軍が侵攻しました。ナポレオンの兄のジョセフがホセ 1世となり、スペイン国王となりました。1808年~1814年の間、スペイン(マドリード)独立戦争が続きました。ゴヤも内戦の様子を描きました。この独立戦争の後半に描かれたと思われます。
 「ゴヤがマドリード独立に成功する事を祈って、独立後最初の鰯の埋葬祭り描いた。」という仮説はどうでしょうか?

 ボッテイチェリはシモネッタ・ヴェスプッチとジュリアーノ・デ・メディチの二人をモデルとしたと考えられる絵を複数残しています。二人が死んだ後に描かれています。
先ず、シモネッタ・ヴェスプッチの肖像画を紹介します。
  シモネッタ・ヴェスプッチの肖像(ボッテチェリ、1470年代作)
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次の絵より生々しいので、シモネッタ・ヴェスプッチの生前/死亡直後と思われます。次の絵は、死後10年程の絵です。
  シモネッタ・ヴェスプッチの肖像(ボッテチェリ、1485年作)
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  ジュリアーノ・デ・メディチの肖像(ボッテチェリ、1478年作)
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暴漢に殺される直前/直後の肖像画と思われます。シモネッタ・ヴェスプッチの夫のマルコ・ヴェスプッチの肖像画は見つかりませんでした。先ず、事件の概要を紹介します。

 シモネッタ・ヴェスピッチは夫のマルコ・ヴェスピッチとともに、メディチ家の別荘に良く遊びに行っていました。メディチ家の次男のジュリアーノ・デ・メディチとも親交を深めたようです。1475年4月にフィレンツェのサンタ・クローチ広場で、ジオストラ(騎馬での槍競技)が開かれました。ジュリアーノ・デ・メディチも出場しました。その際のイナモラーナ(優勝したら求婚する女性)にシモネッタを指名し、ボッティチェリが描いた彼女の肖像の旗を掲げて出場しました。ボッテチェリに依頼したのは、夫のマルコでした。ジュリアーノが優勝する筈がないという前提のお遊びだったと思われます。
 ところがジュリアーノが優勝してしまい、フィレンツェ中に評判となりました。シモネッタは絶世の美女と讃えられ、ジュリアーノとシモネッタは理想的カップルと持て囃されました。彼女の出身家は名門で、格下のヴェスプッチ家に16歳で嫁入りしました。彼女の家の没落・衰退に対する同情も働いたのではないかと思います。家の格から行けば、メディチ家の方が相応しいという世論もあったかと思います。
 ヴェスプッチ家でシモネッタは外出禁止となった挙句、1年後(22~3歳)に肺結核で亡くなりました。ますます評価が上がり、多くの画家のモデルとなりました。大部分の肖像画が、知性的で清楚に描かれています。
 一方のジュリアーノも1478年にフィレンツェ/枢機卿の勢力争いに巻き込まれて、暴漢に襲われ25歳で死にました。ヴェスプッチ家も暴漢を支援していたとの噂が立ち、フィレンツェの貴族が二つに分かれて争いました。その後ナポリ王の仲裁で、何とか収まりました。ヴェスプッチ家はメディチ家と良い関係を修復したようです。
 ボッティチェリのプリマヴェーラ(春)は、1478年作と伝わります。そうだとすれば、ジュリアーノ・デ・メディチが暴漢に倒れた直前/直後にボッティチェリにメディチ家が制作依頼したと思われます。そうすれば、シモネッタ・ヴェスプッチとジュリアーノ・デ・メディチの間は純愛であったとの主張の筈です。
       プリマヴェーラ(ボッテチェリ、1478年作)
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中央のアプロディテ(ヴィーナス)のモデルは、シモネッタ・ヴェスプッチのようです。容貌と衣装から、ほぼ間違いないと思います。彼女は首を傾げて、事態が良く分かってないようです。左端のヘルメス(マーキュリー)のモデルは、ジュリアーノ・デ・メディチのようです。彼は純愛と結婚の象徴のオレンジを採ろうとしています。頭上のキューピッドは目隠しして、三美神を狙っています。愛欲/純愛/愛のどれになるのでしょうか?二人の様子は、純愛を示しています。右端が西風のゼフェロスです。モデルは恐らくマルコ・ヴェスプッチと推定します。フィレンツ西方のポルトヴェーネかジェノヴァ出身のシモネッタ・ヴェスプッチをジュリアーノ・デ・メディチの所に連れて来たのが、彼だからです。西風のゼフェロスがニンフのクロリスを刺激して、結婚の象徴のフローラを出現させました。「二人の愛は純愛で、原因はマルコ・ヴェスプッチだ。」とメディチ家が主張しています。
 これに対して、ヴェスプッチ家はコジモに次の肖像画を依頼しました。
    シモネッタ・ヴェスプッチの肖像(コジモ、1480年作)
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「シモネッタ・ヴェスプッチは色恋沙汰を好む女性でした。彼女がすべての原因です。申し訳ありませんでした。どうぞご容赦を。」というヴェスプッチ家の主張です。どうもメディチ家の反応が悪いので、ヴェスプッチ家がボッティチェリに次の絵を依頼しました。
      ヴィーナスとマルス(ボッテチェリ、1483年作)
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ヴィーナスのモデルは容貌と服装から、間違いなくシモネッタ・ヴェスプッチと思います。マースのモデルも容姿から、ジュリアーノ・メディチと思います。彼の妙な様子と、森の小鬼の様子、騎馬試合の武具などから、悪い夢を見ていると判断します。「シモネッタ・ヴェスプッチは悪くない。ジュリアーノ・デ・メディチは森の小鬼により悪い夢を見たのです。このことは水に流してください。」とヴェスプッチ家が言い訳しています。ボッテイチェリはこれを最後に、ヴェスプッチ家の依頼を受けなかったようです。最後がメディチ家が依頼した、有名な「ヴィーナスの誕生」です。
      ヴィーナスの誕生(ボッテチェリ、1485年作)
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西風のゼフェロスのモデルも、マルコ・ヴェスプッチだと思います。中央のヴィーナスのモデルは、シモネッタ・ヴェスプッチと思われます。「原因を作ったのは、マルコ・ヴェスプッチだ。彼がシモネッタ・ヴェスプッチを、ジュリアーノ・デ・メディチに近づけた。彼女は純真で問題は無い。それを認めるなら、ヴェスプッチ家を許してやろう。」というメディチ家の主張です。ここまで深読みすると「本当か?」と疑われること覚悟して、投稿しました。これも楽しみの一つです。


 気になる「桟敷席の女性」の絵を3枚紹介します。
           桟敷席(ルノアール、1874年作)
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ルノアールが第一回印象派展に出品して、高い評価を得た絵です。古典的描写に白と黒の対比を強調した、万人受けする絵です。お気に入りのモデル(「鼻ぺちゃさん」と呼ばれていたそうです。随分美人だと思いますが・・・。)と弟を描いたようです。三角形を二つ重ねた、安定した構図です。後ろの男は余所見をしていて、女性をそれ程気にかけていません。女性は貴婦人にしては少し華やか過ぎる感じです。女性は絵の鑑賞者を見つめて、眼が潤んでいます。(特に男性の)鑑賞者を引き付ける絵です。
         桟敷席(エヴァ・ゴンザレス、1870年代作)
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 モリゾがマネの指導を受けたいと思っていた時に、マネの弟子であったエヴァ・ゴンザレス(女流画家の)の絵です。恐らくマネの指導なり助言があったと思われます。マネはモリゾを弟子とは認めず、モリゾはゴンザレスにジェアラシーを感じていたようです。
 この絵はマネの絵にしばしば見られるように、黒の使い方(描き方)のうまさを鑑賞者にアピールしています。女性はこちらを向いていますが、視線が虚ろで鑑賞者を見ていません。女性は男性と反対側に体を傾けています。男も横を向いていますが、彼女をシッカリ見ていません。左端には男性が女性に贈ったと思われる花束があります。男女の間に隙間風を感じさせます。
      オペラ座の黒衣の女(メアリー・カサット、1878年作)
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作者はアメリカ生まれの女流画家です。それまで(官立)サロンに出品して、入選・落選を繰り返していたようです。審査員の権威主義・古典主義に辟易として、サロンと決別する決心を固めた頃の絵です。手前の女性は舞台ではなく、どこか別の桟敷席を見ているようです。左手の扇を握りしめて、何か決心を固めつつあります。向こうの桟敷席からは彼女を一生懸命のぞき込む老人が居ます。
 この絵は、(髪の色が違いますが)画家が自画像を描いたように思えます。この女性は印象派の画家たちを見つめ、サロンから決別する意思を固めつつあります。その様子を、サロンの審査員が見つめています。「サロンの権威主義・古典主義と決別する自分の姿を象徴的に描いて残した。」と感じますが、いかがでしょう?

 「ラ・グルヌイエール」はパリ近郊セーヌ河畔のカフェにあった水浴場のようです。
1869年に二人の印象派画家が、並んで絵を描いていたようです。一人はモネ(29歳)、もう一人がルノアール(28歳)です。二人ともまだ、独自の画風を完成させていませんでした。二人でお互いを刺激しながら、画作に励んでいたようです。同じ場所を描いた作品を紹介します。
         ラ・グルヌイエール(モネ、1869年作)
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モネは水面を描くことに注力したようです。日陰の水面が素晴らしく描かれています。その反面、遠景や人々はラフに描かれています。鑑賞者の目線が水面に向かうよう、わざとそうしているのだと思います。水浴場の静けさとけだるさ(部外者・傍観者の自覚)を感じさせます。モネは食品雑貨商の息子に生まれ、絵画一筋の人生でした。早く認められたいという願望が、特に強かったと思います。生活も苦しく、焦りのような気持ちや疎外感を持っていたのではないか思います。
        ラ・グルヌイエール(ルノアール、1869年作)
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人々の衣装や人々の雰囲気、木漏れ日の美しさ、遠景の清々しさの描写に注力しています。水面は雰囲気を醸し出す舞台道具のような位置づけです。水浴場の清々しさと華やかさ(社交場)を感じさせます。ルノアールは仕立て屋の息子に生まれ、歌も上手で聖歌隊に入った時期もありました。磁器の絵付け作者から、絵を始めました。衣装が気になり、華やかな事が好きだったと思われます。
 二人ともこの数年後には名声を勝ち取りました。

 昨日フェリックス・ヴァロットン(1865~1925年)の中で、「ボール」という作品を紹介しました。妙な感動・感傷を受ける作品なので、少し考察しました。
           Le Ballon(バロットン、1899年作)
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 この絵の作品は、通常「ボール」と呼ばれています。しかしながら、右端中央部のボール様のモノは、真っ赤で光り輝いています。この時代にこのようなボールがあったか疑問です。風船のように感じます。通常の評論では、「赤いボールを子供が追いかける一瞬を切り取った。」と書かれているようです。しかしながら、中央子供の両脚は走っていません。両足を開いて、何か驚いたように立ち止まって、行こうか行くまいか迷っています。フランス語の「Le Ballon」の日本語訳を調べると、「ボール、風船、・・・」とあります。オルセー美術館公式HPの英語訳をみると、「Ball」とありました。これが「ボール」と訳された根拠のようです。
 ヴァロットンはこのような絵は、この作品以外残っていません。特別な絵です。
          自画像(ヴァロットン、1897年作)
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         夏の宵の水浴(ヴァロットン、1893年作)
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 この「夏の宵の水浴」を、1893年のアンデバンダン(無審査)展に出品しました。ヴァロットンは確かなデッサン力で、非常に蘊蓄の籠った絵を描こうとしたようです。私の傑作絵画のものさしには、(健康的に)美しいことと訴求性(斬新性)を入れています。彼は神経質且つひたすらに、この二つを追求した画家のようです。

 「Le Ballon」はチョット見ると、小学校高学年の子供が夏休み作品で描いたような絵です。彼は、このような絵をこの一枚しか描いていません。何か特別な状況があったと思います。描かれた状況を調べて見ました。
 この年の夏に、ヴァロットンが参加したナビ派の理解者であったナタンソン氏の別荘≪ルレ≫に招かれて滞在したようです。この絵は、その庭園で描かれたようです。彼はそこでリラックスして、幸せを感じたのではないでしょうか。そしてその幸せが終わる予感も感じたのではないでしょうか?
 画面左側は影が描かれ、黄色い汚れたボールも描かれています。これが作者の日常の暗示だと思われます。右側の明るい画面には、画家の短い幸せな昨日今日です。画家の分身の子供が、幸せの象徴の赤い風船を手から放してしまいました。風船が飛んで行ったことに驚いて立ち止まっています。誰にでもありそうな子供時代のノスタルジーに、この絵の鑑賞者は感動を受けるのではないでしょうか?私にも、子供時代の楽しい事や失敗を思い出させてくれるような気がします。

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