世界美術館巡り旅

世界の美術館・旅行・画家・絵画の情報共有サイト

カテゴリ:世界の美術館 > ベルギーの美術館

 2017年6月アントワープ王立美術館(アントワープ/ベルギー)に行きました。今回は、アメディオ・モディリアーニ作「座る裸婦」を紹介します。
 アメデオ・モディリアーニ(1884~1920年)は悲しげと言うか、ニヒルと言うべきその人物画で良く知られています。アメデオ・モディリアーニはトスカーナ地方で、林業と銀鉱山業を営むユダヤ系イタリア人夫婦の末子として生まれました。生まれた年に、父親の事業は倒産してしまいました。父親は旅行勝ちで、祖父と母親に育てられました。
 1898年(14歳)に風景画家のアトリエでデッサンの指導を受け始めました。1900年(16歳)で結核に冒され、翌年転地療養のためイタリア各地を旅行しました。1902年にフィレンツェの裸体画教室で学び、1903年にはヴェネツィアの美術学校に入りました。1906年にパリのアカデミー・コラロッジに入学しました。モンマルトルにアトリエを借り、ピカソ/ギョーム/ドラン/リベラの知己を得ました。1907年セザンヌを知り衝撃を受け、サロン・デ・サンデバンに入会しました。1909年にモンパルナスに移り、彫刻に没頭しました。1914年に画商のポール・ギョームと知り合い、説得されて絵画に専念することになりました。この頃、スーティン/藤田嗣治/ユトリロとも親交を持ちました。1916年ポーランド人画商レオポルド・ズポロフスキーの専属契約を結び、生活費を得ました。1918年にニースへ結核の療養に行きましたが、1920年に結核性髄膜炎で亡くなりました。同棲していた女性画家のジャンヌ・エビュテルヌは親に引き取られましたが、翌日に自殺してしまったようです。モディリアーニのせいで死んだと、親は別の墓地に埋葬したようです。10年後にやっと許されて、モディリアーニの墓の隣に再埋葬されたとの事です。大変な人生ですネ。
 モディリアーニの代表作(モディリアーニらしい作品)は、1916年から亡くなった1919年に集中しています。裸婦画は更に短い1916~17年に集中しています。調べると生前唯一の個展の際、裸婦画を出店したのがもとで警察が踏み込む騒ぎが起きたようです。それで裸婦画を撤去したという話です。トラウマになったのでしょうか?ヨーロッパでは裸婦画の前例は多くありました。どうも第一次世界大戦の後半に入り、フランスにも戦禍のダメージが顕著になっていました。戦争で国民が大変な時期の個展での裸婦画展示は、行政にとって許しがたかったのかなと推定します。
座る裸婦(アメディオ・モディリアーニ、1917年作)


 2017年6月アントワープ王立美術館(アントワープ/ベルギー)に行きました。今回は、フィンセント・ファン・ゴッホ作「ジャガイモを掘り出す農婦」を紹介します。
 フィンセント・ファン・ゴッホ(1853~1890年)はオランダ南部の牧師の息子に生まれました。16歳から画商のグーピル商会に勤めましたが、23歳で解雇されました。書店で働いたりしたが、聖職者を目指すことにした。アムステルダムの神学部への受験勉強で挫折。25歳で見習い伝道活動中に画家を目指すことに方針転換。グーピル商会に勤めていた弟のテオの支援で絵を描いたが、やがてパリの弟のアパートに転がり込んだ。同居に弟のテオが愚痴るようになり、1888年に(35歳で)アルルに移った。画家のコロニーを作りたいとポール・ゴーギャンを招いたが上手く行かず、挫折した。  ゴッホは熱しやすく冷めやすいようで、何かに熱中して直ぐ挫折する事の繰り返しだったようです。最後に熱中した画家は弟の支援もあり、粘り強く継続したようです。ただこれも挫折して、精神的に参ってしまったようです。
 フィンセント・ファン・ゴッホは独善的で社会に適応できず、1880年に画家になることを決心しました。1881~85年の間実家やオランダ農村部で、絵画の独学・実践を続けました。ジャン=フランソワ・ミレー(1814~1875年)やジュール・ブルトン(1827~1906年)の画風に共感していたようです。二人とも一世代以上年上で画風も異なり、農村・農夫を描いた事が共通しているだけです。ミレーの油彩肖像画を見ると、描きすぎで不気味・グロテスクです。「盛る事(美男美女に描く)」をしない、出来ない画家だったようです。パステル画も多く残しています。ミレーの代表作と言われる作品は皆パステル画風油彩画です。ジュール・ブルドンはフランス生まれですがオランダで絵画を学びました。こちらはアカデミー派並みの高いデッサン力を持っていたようです。グーピル紹介発行のシャルル・バルグ画集(デッサン教本)を弟のテオから薦められ、教本としていたようです。
 「ジャガイモを掘り出す農婦」は、パリのテオのアパートに転がり込む少し前に描かれました。ミレーのパステル画的油彩画を、自分なりに理解・取り込んだ作品のように思われます。少し塗り絵的な描き方です。弟のテオからもっと明るい色調で描くようアドバイスを受けました。農村を描いた作品は、受け入れられませんでした。独学で農村を描くことに限界を覚えたのでしょう。花のパリに移る決心をしたようです。「ジャガイモを食べる人々」と同じくらいの薄暗さの絵です。これ以前よりは、多少明るく描かれています。暗いのはオランダの天候とミレーの影響なんでしょうか?
ジャガイモを掘り出す農婦(フィンセント・ファン・ゴッホ、1885年作)
イメージ 24
ジャガイモを食べる人々(フィンセント・ファン・ゴッホ、1885年作)

 2017年6月アントワープ王立美術館(アントワープ/ベルギー)に行きました。今回は、アレクサンドル・カバネル作「死刑囚に毒を試すクレオパトラ」を紹介します。
 アレクサンドル・カバネル(1823~1889年)は、南フランスのモンペリェで大工の息子に生まれました。地元のモンペリエ美術学校で学び、奨学金を貰い1939年にパリに移住しました。1840年に(17歳で)エコール・デ・ボザールに入学しました。1844年に(21歳で)サロン初入選しました。1845年に(22歳で)ローマ賞に選ばれました。1863年にフランス学士院会員に、同年エコール・デ・ボザールの教授になりました。1865,67,68年に夫々最高名誉賞を受賞したようです。アカデミー派の権化のような画家で、素晴らしいデッサン力です。サロンの審査員の常連で、印象派画家の作品を入選させなかったようです。その反動で、(無審査の)印象派展が始まったようです。
 カバネルは、1867年に妻と二人の子供を亡くしました。1869年に再婚しましたが、僅か4年後にその妻を亡くしました。画家としての成功の一方、家族との生活には恵まれませんでした。1889年1月に亡くなった時は、ホテル住まいでした。亡くなる1年チョット前の64歳の作品です。カバネルは死を意識していたと思います。
 「死刑囚に毒を試すクレオパトラ」では美しい宮殿・美しいクレオパトラ・美しい衣装と装飾などが詳細に描かれ、その奥には毒を試された囚人が描かれています。残酷・死と美・豪華の強烈な対比が、淡々と素晴らしいデッサン力で描かれています。美しいというか残酷な対比というか、恐ろしく美しい作品です。カバネルは死体を運び鑑賞者の方を見つめる男に、自分の姿を重ねたのでしょうか?或いは、床に倒れてこちらを見る囚人に自分を重ねたのでしょうか?
死刑囚に毒を試すクレオパトラ(アレクサンドル・カバネル、1887年作)

 2017年6月アントワープ王立美術館(アントワープ/ベルギー)に行きました。
 ヤーコブ・ヨルダーンス(1593~1678年)はアルトウエルペン派の画家で、ルーベンスが亡くなった後の第一人者の画家でした。ルーベンスの画風に良く似ていますが、画中女性の容貌が少し違います。女性の容貌を詳しく観察すると、ルーベンス作品とヨルダーンス作品が識別できます。
 ヤーコブ・ヨルダーンスは1593年アントウエルペンの麻織物商人の子として生まれました。アントウエルペンで当時高名な画家のアダム・ファン・ノールトに8年間師事しました。ルーベンスと兄弟弟子に当たる筈ですが、ルーベンスは1年しかいなかったようです。年齢差から、弟子の期間が重なっていなかったと思われます。1616年に(23歳で)、画家ギルトの聖ルカ組合に登録されました。師匠の娘と結婚して、1939年に隣家を買い取って工房を拡張しました。イタリアに行かず、作品のみを研究したようです。ヨルダーンスは弟子が多く、少なくとも21名は公式に弟子をとったようです。ルーベンスの影響を受け、ルーベンスの下絵を引き伸ばす仕事も請け負ったようです。
 ヤーコプ・ヨルダーンスの作品は、1620年前と後で大きく画風が変わります。1620年以前の作品では、人間の骨格が感じられません。アダム・ファン・ノールトの工房では旧作品の模写などで訓練されたと思われます。人体・骨格の研究やデッサンの勉強をしていなかったと思われます。独り立ちしてルーベンスの工房に出入りしました。その際人体・骨格の研究やデッサンの勉強をしたと思われます。1620年以降画風が変わり、人体の骨格を感じられるようになりました。ルーベンスの筆頭弟子のアンソニー・ファン・ダイクと似た画風です。一緒にデッサンを勉強したのでしょう。
 ヤーコブ・ヨルダーンスは「
親に倣って子も歌う」という諺に因んだ作品を、何枚か描いています。本作品の「大人が歌えば子供笛吹く」は最も早い時期の作品と言われます。モデルの容姿がその他作品よりも気品があり、ルーベンスの画風を思わせます。ルーベンスは1635年頃から痛風が酷くなり、ステーン城に住まうようになりました。工房のルーベンスの家に居る時間も限られたと思われます。本作品はルーベンスが下絵を描き、ヤーコプ・ヨルダーンスが完成させたと推定します。少し遅れて描いた「親に倣って子も歌う」の登場人物は非常に庶民的で、ヨルダーンスらしさが全面に出ています。読者の皆様も見比べてみてください。
大人が歌えば子供笛吹く(ヤーコブ・ヨルダーンス、1638年作)
親に倣って子も歌う
(ヤーコブ・ヨルダーンス、1638~40年作、ヴァランシェンヌ美術館蔵)

 2017年6月アントワープ王立美術館(アントワープ/ベルギー)に行きました。今回は、ヤーコブ・ヨルダーンス作「羊飼いの礼拝」を紹介します。
 ヤーコブ・ヨルダーンス(1593~1678年)はアルトウエルペン派の画家で、ルーベンスが亡くなった後の第一人者の画家でした。ルーベンスの画風に良く似ていますが、画中女性の容貌が少し違います。女性の容貌を詳しく観察すると、ルーベンス作品とヨルダーンス作品が識別できます。
 ヤーコブ・ヨルダーンスは1593年アントウエルペンの麻織物商人の子として生まれました。アントウエルペンで当時高名な画家のアダム・ファン・ノールトに8年間師事しました。ルーベンスと兄弟弟子に当たる筈ですが、ルーベンスは1年しかいなかったようです。年齢差から、弟子の期間が重なっていなかったと思われます。1616年に(23歳で)、画家ギルトの聖ルカ組合に登録されました。師匠の娘と結婚して、1939年に隣家を買い取って工房を拡張しました。イタリアに行かず、作品のみを研究したようです。ヨルダーンスは弟子が多く、少なくとも21名は公式に弟子をとったようです。ルーベンスの影響を受け、ルーベンスの下絵を引き伸ばす仕事も請け負ったようです。
 ヤーコプ・ヨルダーンスの作品は、1620年前と後で大きく画風が変わります。1620年以前の作品では、人間の骨格が感じられません。アダム・ファン・ノールトの工房では旧作品の模写などで訓練されたと思われます。人体・骨格の研究やデッサンの勉強をしていなかったと思われます。独り立ちしてルーベンスの工房に出入りしました。その際人体・骨格の研究やデッサンの勉強をしたと思われます。1620年以降画風が変わり、人体の骨格を感じられるようになりました。ルーベンスの筆頭弟子のアンソニー・ファン・ダイクと似た画風です。一緒にデッサンを勉強したのでしょう。
 ヤーコブ・ヨルダーンスは聖ルカ組合登録時期(1616年)から1618年にかけて、「羊飼いの礼拝」を数作品描いています。1609年のルーベンス作品に触発されたと思われます。ルーベンス工房でデッサンを重ね、自分の画風を確立しようと努めたのでしょう。1616年時点では人体の骨格が感じられず、1618年の作品では骨格を感じます。この時点で開眼したのでしょう。
 本作品はちょうど過渡期です。骨格をたどるとチョット不自然な個所が見られます。明暗の対比が強調して描かれています。イエス・キリストが最後の晩餐で聖ペテロに「明日朝鶏が二度鳴くまでに、イエスを知らないと三度言うだろう。」と予言した事を暗示するために、鶏が二羽描かれています。聖ペテロに因んだ教会・修道院に飾る目的で委嘱されたのでしょうか?
羊飼いの礼拝(ヤーコブ・ヨルダーンス、1616~17年作)

羊飼いの礼拝
(ピーテル・パウル・ルーベンス、1609年作、聖パウロ教会蔵)

羊飼いの礼拝
(ヤーコブ・ヨルダーンス、1616年作、メトロポリタン美術館蔵)

羊飼いの礼拝
(ヤーコブ・ヨルダーンス、1618年作、マウリッツ・ハイス美術館蔵)

↑このページのトップヘ