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 2017年6月アントワープ王立美術館(アントワープ/ベルギー)に行きました。今回は、ハンス・メムリンク作「ローマ・コインを持つ男の肖像」を紹介します。
 ハンス・メムリンク(1435年頃~1494年)は初期フランドル派の画家で、ヤン・ファン・エイクやファン・デル・ウェイデンに続いて活躍しました。ハンス・メムリンクはドイツ フランクフルト近郊のゼーリゲンシュタットに生まれました。ブリュッセルのロヒール・ファン・デル・ウェイデンの工房で修業しました。ファン・デル・ウェイデンが1464年に亡くなったのを機にブルッヘ(ブルージュ)に移り、1465年にブルッヘ市民権を得たようです。その後ブルッヘで活躍して、多くの作品を制作しました。現存する作品の大部分が、宗教画です。
 「ローマ・コインを持つ男の肖像」のモデルは、ヴェネツィア大使だったベルナルド・ベンボ(1433~1519年)と推定されています。パドヴァ大学で哲学を学び、その後法律を学びました。1471~74年の間ブルゴーニュ公国在の大使でした。軍事遠征でブルッヘにも滞在しました。その際に肖像画を依頼したと考えられています。ベルナルド・ベンボはコイン収集家で、描かれているコインは古代ローマ皇帝ネロ時代のセステルティウス(デナリウス銀貨の四分の一の補助銀貨)と考えられています。非常に希少なコインで、収集を誇示している姿と考えられています。背景に月桂樹が描かれていて、彼の紋章の象徴と考えられます。背景の川辺に騎士が立ち止まっていて、彼が軍事遠征でブルッヘに一時滞在していた事を象徴しているかのようです。
 肖像画に片手だけを、背景にきれいな風景を描いたのは、メムリンクが最初だとの意見もあるようです。 
ローマ・コインを持つ男の肖像(ハンス・メムリンク、1474年頃作)
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 2017年6月アントワープ王立美術館(アントワープ/ベルギー)に行きました。今回は、ハンス・メムリンク作「音楽を奏でる天使とキリスト」を紹介します。
 ハンス・メムリンク(1435年頃~1494年)は初期フランドル派の画家で、ヤン・ファン・エイクやファン・デル・ウェイデンに続いて活躍しました。ハンス・メムリンクはドイツ フランクフルト近郊のゼーリゲンシュタットに生まれました。ブリュッセルのロヒール・ファン・デル・ウェイデンの工房で修業しました。ファン・デル・ウェイデンが1464年に亡くなったのを機にブルッヘ(ブルージュ)に移り、1465年にブルッヘ市民権を得たようです。その後ブルッヘで活躍して、多くの作品を制作しました。現存する作品の大部分が、宗教画です。
 「音楽を奏でる天使とキリスト」はスペインの小さな村ナヘラのサンタ・マリア・ラ・ レアル修道院のオルガンの装飾を目的として、1487年にブルッヘ滞在領事ペドロとアントニオ・デ・ナヘラにより委嘱されたと伝わります。絵の中にスペインのカスティーリャ・イ・レオンの紋章が描かれていて、この伝承は正しそうです。165cmx672cmという巨大な祭壇画です。この下に主パネル「聖母被昇天」のある多翼祭壇画だったと伝わるようですが、チョット疑わしいと思います。
 下に「聖母被昇天」があるとすると、「
音楽を奏でる天使とキリスト」の中央パネルの幅で縦が400~500cmとなります。合計で600~700cmとなります。巨大な祭壇画となります。多翼祭壇画の場合は、画家と弟子が修道院に住み込みで描くことになりますが、そのような記録はなさそうです。多翼祭壇画は畳める構造ですが、「音楽を奏でる天使とキリスト」は中央パネルが小さくて畳めません。これは一枚の絵で、スペインに運ぶ為分割して制作したと思われます。
 下に「聖母被昇天」があると、天上のキリストの下に黒い雲があって、聖母が天上に昇れません。色々な観点から多翼祭壇画ではなく、一枚の祭壇画と思います。
 サンタ・マリア・ラ・ レアル修道院の聖歌隊部屋がほぼ同時期に建造されたようです。写真を添付しましたが、奥にパイプオルガンが見えます。上の手すり奥に細長い壁があり、ここに飾れるような飾れないような・・・。ただ上の(聖母と聖人が描かれた)フレスコ画の下に天上とキリストでは、ミスマッチです。反対の壁に飾ろうとしたのでしょうか?どちらにしろ、天上のキリストは聖歌隊を見ているようです。「聖母被昇天」はこの下になかったと思います。
音楽を奏でる天使とキリスト
(ハンス・メムリンク、1483~94年作)
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同上の中央パネル
サンタ・マリア・ラ・ レアル修道院の聖歌隊部屋(1493~95年建造)

 2017年6月アントワープ王立美術館(アントワープ/ベルギー)に行きました。今回は、アントネロ・ダ・メッシーナ作「キリストの磔刑」を紹介します。
 アントネロ・ダ・メッシーナ(1430~1479年)はシチリアのメッシーナで大理石職人の息子に生まれました。ナポリで修業して、その際フランドルの画風を習得したようです。メッシーナで工房を構え仕事をしました。晩年1475年から1年ほど、ヴェネツィアで仕事をしました。
 「キリストの磔刑」は磔刑を描いた作品の間で、何か特別なものを感じます。非常に静かな画面で整っていますが、堅苦しさを感じません。非常に不思議に思い、アントネロ・ダ・メッシーナの作品を俯瞰してみました。そうすると大きな特徴があり、一つは肖像画はほぼすべて四分の三正面(左右両方あり)で、構成は左右対称の一部乱しです。左右対称の対称線を画面中央から少しずらしたり、一部アンバランスにしたりです。
 キリストの姿は左右対称で、首を少しだけ傾けています。その傾きを補正するため、右足を上にしてくぎ打たれています。これでキリストが向かって左に傾いて行ってしまいそうなのを止めています。左右の罪人は左右対称の配置ですが、真横から四分の三前後ろにずらして、バランスをとっています。左右の木も左右対称の様で、微妙にずらしています。足元の聖母マリアと福音記者聖ヨハネの配置も左右対称ながら、向いている方向をずらしています。奥の湖・湾も左右対称から、微妙にずらしています。全体を纏めて見ると左右対称で安定・安心な構図ですが、所々乱れているので窮屈さを感じさせません。この時代のフランドル絵画の技法をうまく取り入れています。同時代の有名画家よりも、よりフランドル風な画家です。フランドル地方を旅行したという説もあるようですが、地元のメッシーナとナポリに行ったという記録しか見つからないようです。
キリストの磔刑(アントネロ・ダ・メッシーナ、1475年作)

 2017年6月アントワープ王立美術館(アントワープ/ベルギー)に行きました。今回は、ヤン・ファン・エイク作「泉の聖母」を紹介します。
 ヤン・ファン・エイク(1390年頃~1441年)は初期フランドル画家です。兄を引き継いで描いた「ヘントの祭壇画(神秘の羊)」で有名な巨匠です。テンペラ画がまだ主流だった時代に、油絵の技術を確立しました。名前から考えて、マースエイクで生まれ育ったと推定されています。どのように修業したかは分かっていません。兄弟姉妹も画家になっています。兄のフーベルト・ファン・エイクも宗教画を早くから描いています。聖ルカ組合に名前が見られないので、修道士画家だったと推定する研究者もいます。ヤン・ファン・エイクも初期に挿絵を描いていて、トリノ=ミラノ時祷書の一部がヤン・ファン・エイク作だという研究者もいます。1422~24年の間、バイエルン公ヨハン3世の宮廷画家としての記録が残っています。1425年からブルゴーニュ公フィリップ3世の宮廷画家になりました。当初リールに工房を構えましたが、1年後にブルッヘ(ブルージュ)に移住して工房を構えました。フィリップ3世の外交官としての仕事も続けました。ヤンは読み書きもでき、きちっとした教育を受けたようです。
 「泉の聖母」は19cmx12cmの小さな作品で、油彩としては超細密描写です。ラファエロ作「三美神」よりも小さくて細密です。額縁には、「我に能う限り、ヤン・ファン・エイクたる我がこの作品を1439年に完成させし」と記されています。オリジナルの額縁と考えられています。
 恐らくこの作品用に細描き筆も自作したと思われます。50歳前後の画家が自分の技量を極める・確認するために細密描写の極限に挑戦したと思います。
 ヤン・ファン・エイク最晩年の作品がもう一つあり、「教会の聖母子」という作品です。こちらも31cmx14cmの超細密画です。こちらは小さな画面に教会の空間性がどこまで描けるか挑戦した感じです。こちらは左右のパネルの一方で、反対側に寄進者とその守護聖人が描かれていたと推定されています。後の世に複数の模写が描かれましたが、それぞれの反対パネル絵柄が違います。オリジナルでどのようなパネルが描かれたかは不明です。「泉の聖母」は超細密描写の初作品で結構行けるとなり、誰かからの依頼・委嘱を受けて「教会の聖母子」を描いたと思われます。
 どちらの作品も教会で公開したとは考えにくく、自宅・自宅の礼拝堂に飾ったと思われます。
泉の聖母(ヤン・ファン・エイク、1439年作)
教会の聖母子(ヤン・ファン・エイク、1438~40年作、ベルリン絵画館蔵)


 2017年6月アントワープ王立美術館(アントワープ/ベルギー)に行きました。今回は、ロヒール・ファン・デル・ウェイデン作「七つの奇蹟の祭壇画」を紹介します。
 ロヒール・ファン・デル・ウェイデン(1399~1464年)は、ネーデルランドのトゥルネー(現在のベルギー国内)で刃物職人の息子として生まれました。1426に結婚して、二人の子供に恵まれました。1427~32年の間ロベルト・カンピンの下で修業したという説がありますが、違うという説もあります。1432年頃トゥルネーの芸術家ギルド聖ルカ組合にマイスターとして登録されました。独り立ちしたようです。1435年にブリュッセルに移住し、翌年ブリュッセルの公式画家に認定されたようです。代表作の「十字架降架」が1435年に描かれて、それ以前の絵は残っていません。1435年(35歳)で画力・技量は完成の域となっています。修行中の絵は残っていません。
 「七つの奇蹟の祭壇画」は各パネル上部に、二つの盾形紋章が描かれています。司教ジャン・シュヴロと都市トゥルネーの紋章とみられています。ジャン・シュヴロはスイス国境が近いフランス東部ポルニー終身の多才な人物で、宰相ニコラス・ロランとも親交がありました。1460年に教皇により、トゥルネーとトゥールの司教に任命されました。私の眼では本作品は1445年よりももっと後の制作のように見えます。1460年の司教就任を記念して、委嘱された作品だと思います。
 中央パネルには、磔刑と聖体の奇蹟が描かれています。左パネルには、洗礼・堅信・ゆるしの奇蹟が描かれています。委嘱者の司教ジャン・シュヴロも描かれています。右パネルには、叙階・婚姻・病者の塗油の奇蹟が描かれています。ウェイデンとその工房の作とみられています。
 トゥルネーの司教になる前に司教の姿で描くとは考えにくく、1460年以降の作と思います。
七つの奇蹟の祭壇画
(ロヒール・ファン・デル・ウェイデン、1440~45年作)
キリストの嘆き部分/司教ジャン・シェヴロの肖像
(ロヒール・ファン・デル・ウェイデン作、マウリッツハイス美術館蔵)
未定義

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