世界美術館巡り旅

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 2013年3月にサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(ミラノ)を訪問しました。レオナルド・ダ・ヴィンチ作「最後の晩餐」が展示されています。事前予約が必要です。見学は25人ずつ15分間のようです。入れ替えに余裕を見て、20分毎の予約でした。ミラノに一泊して訪問しようと旅程を決めていたので、(2か月か3か月前の)予約開始日にインターネットで予約しました。前日夕方か翌日早朝しか空いていなかったので、翌日(帰国日)の朝8時20分で予約しました。ミラノ到着日(午後)は、ブレラ美術館を鑑賞しました。鑑賞後翌朝道に迷わないように、教会の下見に行きました。道路が直交していないので、道に迷いました。地元の人に道を教えて貰いましたが、結局遠回りの道を教えて貰ったようです。帰り道は斜めの道を歩いて、短時間で地下鉄の駅に戻りました。
 当日は早起きして、朝7時30分に教会に到着しました。教会の礼拝堂を見学したりして時間を潰していると、8時ころに玄関が開きました。チケット事前購入のプリントを見せると、チケットに交換してくれました。夫婦で列の先頭に並び、先頭で入室しました。展示室は完全空調のクリーンルームで、前室に一度入ってから入室しました。かぶりつきで鑑賞できました。
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会全景(Wikipediaから)
Santa_Maria_delle_Grazie wiki
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会礼拝堂前景
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 この礼拝堂に向かって左側に「最後の晩餐」を展示している建物があります。開館前は頑丈なシャッタが閉まっていました。
「最後の晩餐」展示建物の玄関で記念撮影
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最後の晩餐(レオナルド・ダ・ヴィンチ、1495~98年作)
 近くで鑑賞すると平坦な(普通の)壁画でした。全体を見ようと、後ろに下がってみました。後ろに下がって全体が見渡せた瞬間、一点集中遠近法の効果で急に奥行きが深くなりました。この手法を本格的に使った最初の作品なので、これを見た一般の人は本当にビックリしたと思います。「神さまが降りて来た。」と感じたと思います。レオナルド・ダ・ヴィンチの名声を確立させた作品です。感嘆!
 礼拝堂の写真も紹介します。
礼拝堂の内部(Wikipediaから)
Grazie,_Milano_wiki
礼拝堂中央祭壇(Wikipediaから)
Grazie,_Milanowiki
礼拝堂の天井(Wikipediaから)
Santa_Maria_delle_Grazie_(Milan) wiki
洗礼者聖ヨハネの礼拝(マルコ・ドッジョーノ、16世紀前半作)
cappella_di_San Giovanni Battista    Marco d'Oggiono
聖コロナの礼拝(ガウデンツィオ・フェラーリ、16世紀前半作)
_cappelle_di Santa Corona   Gaudenzio Ferrari
通りから見たサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
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 「最後の晩餐」を見た興奮を噛み締めつつ、地下鉄の駅に向かいました。帰国の出発には時間の余裕があったので、ミラノ市立近代美術館へ寄りました。入場無料だったのですが、予想以上に名品が展示されていました。当日午後にミラノ空港からパリCDG空港経由で帰国ました。

 2019年7月ローマ訪問時に、コロンナ宮殿美術館に行きました。この美術館は土曜日の午前だけ入館できるようです。旅行日程が調整できなかったので、閉館中の玄関で記念写真だけでも撮ろうと思い行ってみました。サンタ・マリア・ソプラノ・ミネルヴァ教会から東に徒歩10分程で到着しました。閉館中の玄関で記念撮影と開館・ツアーの案内板を写真に撮りました。
コロンナ宮殿美術館玄関で記念撮影
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コロンナ宮殿美術館前の開館案内板
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 開館時間は土曜日の午前9時から午後1時15分まで。各言語のガイド・ツアーもあるようです。平日や土曜午後の特別グループ入館は、交渉すれば可能性があるようです。費用などは掲示されていませんでした。
 公式HPを調べましたので、紹介します。17世紀中ごろに枢機卿ジロマ・コロンナ 1世と甥のロレンシュオ・オノフリオ・コロンナが、コロンナ宮殿の発注をしました。建築に数十年かかったようで、1700年に甥の息子のフィリッポ 2世の時代に完成しました。1571年トルコ軍をレパント海戦で打ち破った事を賛美することを目的に造られました。17世紀イタリア絵画や彫刻を中心に収集された作品を展示して、コロンナ美術館と呼ばれるようになりました。
コロンナ宮殿前景(公式HPから)
Trevi_-_palazzo_colonna_e_basilica_santi_apostoli_01[1]
コロンナ宮殿中庭(公式HPから)
1176px-Trevi_-_palazzo_Colonna_02-0411
コロンナ美術館展示の様子(公式HPから)
Galleria_di_palazzo_colonna,_02[1]
コロンナ美術館展示の様子(公式HPから)
Galleria-Sala-della-Colonna-Bellica[1]
コロンナ美術館展示の様子(公式HPから)
Sala-dell’Apoteosi-di-Martino-V[1]
豆を食う男(アンニーバレ・カラッチ、1583~85年作)
豆を食う男 アニバーレ・カラッチ
この絵は有名です。17世紀の頃には、庶民の姿を描いたのは新鮮でした。
ポンペオ・コロンナ枢機卿
(セバスティアーノ・デル・ピオンボ、1520年頃作)

ヴィーナスとキューピッドとサチュロス(アーニョロ・ブロンズィーノ作)
Venere, Cupido e un satiroサチュロス ブランズィーノ
聖マウレイオ、聖パウロとニコロ・ロベレーラ(コズメ・トゥーラ作)
コズメ・トゥーラ,_santi_paolo_
ラザロの蘇生(サルヴィアーテ作)

オノフリオ・パンヴィニオ(ティントレット作)

紳士の肖像(ヴェロネーゼ作)

聖エレメンツィーナの殉教(グエルチーノ作)

隠者聖パオロ(グエルチーノ作)

三人のプッティの居る鏡(マリオ・ディ・フィオーリ作)
静けさ(ポンペオ・バトーニ作)

 2013年3月 ローマ国立近代美術館(ローマ)を訪問しました。今回は、ジョルジュ・デ・キリコ作「自画像」を紹介します。
 ジョルジョ・デ・キリコ(1888~1978年)はギリシャで、イタリア人の鉄道技師の息子に生まれました。1906年に父の死後、イタリアのフィレンツエに家族で移住しました。1907年にミュンヘンの美術アカデミーに入学し、ミラノ・フィレンツエを経由してパリに出ました。1910年頃キリコは体調を崩し、絵も描かずサンタ・クローチェ広場で時間を過ごしていたようです。パリに出て徐々に回復して絵を描くようになりました。本人はサンタ・クローチェ広場で開眼したと話していたようです。ニーチェの哲学の「人は見えるものを実存と思い実存は人によって違う」との考えに追従したようです。夢の中のような、実存と夢の中間のような絵を描きました。1912年頃からサロン・ドートンヌやアンデパンダン展に出品しました。1913年に詩人・小説家・美術評論家のギョーム・アポリネールの肖像を描き本人から高評価を得て、以後親交を深めました。ギョーム・アポリネールは「形而上学的絵画」と名付けました。1915年に第一次大戦が起きて、徴兵されました。戦争が終わり1919年に個展を開きましたが、酷評を受けました。
 シュールレアリスム画家たちはキリコの作品を高く評価して、キリコに近づきました。キリコはシュールレアリスム画家たちと距離を取ろうとしました。両方とも形而上学的絵画と評価されましたが、キリコは別物と考えたようです。シュールレアリスム画家たちはフロイト哲学に心酔して、深層心理の世界(実在しない世界)を描いていると考えました。キリコはニーチェ哲学に従い、自分には見えた世界を描いていると考えました。実在しないと考えるか実在すると考えるかの差で、キリコにとって大きな差だったようです。
 自画像を多く描いている画家は前例があり、アルブレヒト・デューラーやレンブラント・ファン・レインなどです。自分の容姿の記録と、自分の画力の確認だったように思われます。キリコの場合は、それだけではなさそうです。どの自画像もキリコは正面で描かれていない上、瞳から判断すると鑑賞者を見ています。鑑賞者に自分はどう見えるかを気にした自画像です。キリコはシュールレアリスム画家たちとは決別して、形而上学的絵画を描き続けました。画家仲間との交流を避け、数年ごとに転居しました。1944年に(56歳で)ローマに定住しました。鑑賞者に挑戦し続けたのでしょうか?
自画像(ジョルジョ・デ・キリコ、1925年作)
De-Chirico_自画像
自画像(ジョルジュ・デ・キリコ、1911年作、メトロポリタン美術館蔵)
イメージ 3
パリのアトリエの自画像
(ジョルジョ・デ・キリコ、1935年作、ローマ国立近代美術館蔵)
De Chirico, Autoritratto nello studio di Parigi (1935) | Autoritratti ...
裸の自画像
(ジョルジョ・デ・キリコ、1943年作、ローマ国立近代美術館蔵)

黒衣の自画像
(ジョルジョ・デ・キリコ、1953年作、ローマ国立近代美術館蔵)

 2019年7月ローマ訪問時に国立コルシーニ宮美術館を鑑賞しました。前日パラッツォ・バルベリーニの入場券を購入した際、ここのコンビ・チケットになっていました。他の美術館がテヴェレ川の東側にあるのに対して、国立コルシーニ宮美術館だけ西側にあります。コンビ・チケットにして訪問者を増やそうという試みなのでしょうか。
 サン・ピエトロ広場から南へ15分程歩くと、国立コルシーニ宮美術館に到着します。この美術館にはカラヴァッジョ作「洗礼者ヨハネ」を初めルネッサンスの名画とスペイン画家の名品が所蔵・展示されています。古い展示法で、名画が二段・三段で無造作に展示されていました。
南東角から見た国立コルシーニ宮美術館(公式HPから)
944-Corsini[1]ARTE.itから
国立コルシーニ宮美術館建物前で記念撮影
DSCN0109
国立コルシーニ宮美術館入り口で記念撮影
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国立コルシーニ宮美術館展示の様子(公式HPから)
800px-Palazzo_corsini_alla_lungara,_prima_galleria,_04[1]
洗礼者ヨハネ
(ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ、1604~06年作)
San Giovanni Battista   Caravaggio
カラヴァッジョ作「洗礼者ヨハネ」の前で
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聖家族(フラ・バルトロメオ、1510年頃作)
聖家族 バルトロメオ
洗礼者ヨハネの首を持つサロメ(グイド・レーニ、1620年頃作)
salome- guido reni
グイド・レーニ作「洗礼者ヨハネの首を持つサロメ」の前で
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バンビーノの聖母(アンドレア・デル・サルト作)
バンビーノの聖母 Andrea del Sarto
マドンナと子供(オラツイオ・ジェンティスキ、1610年頃作)
Impresiones artistas de Orazio Gentileschi
ミルクのマドンナ
(バルトロメ・エスティバン・ムリーリョ、1670~75年作)
ミルクのマドンナ
ムリーリョ作「ミルクのマドンナ」の前で

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ヴィーナスと死んだアドネス(ホセ・リベーラ、1630年頃作)
ヴィーナスとアドネスVenere scopre Adone morto-José_de_Ribera_064
 スペイン絵画の名品も多くあります。チョット離れた位置にありますが、行ってみる価値は十分ありました。

 2013年3月 ローマ国立近代美術館(ローマ)を訪問しました。今回は、フィンセント・ファン・ゴッホ作「アルルの女/ジヌー夫人」を紹介します。
 フィンセント・ファン・ゴッホ(1853~1890年)はオランダ南部の牧師の息子に生まれました。16歳から画商のグーピル商会に勤めましたが、23歳で解雇されました。書店で働いたりしたが、聖職者を目指すことにした。アムステルダムの神学部への受験勉強で挫折。25歳で見習い伝道活動中に画家を目指すことに方針転換。グーピル商会に勤めていた弟のテオの支援で絵を描いたが、やがてパリの弟のアパートに転がり込んだ。同居に弟のテオが愚痴るようになり、1888年に(35歳で)アルルに移った。画家のコロニーを作りたいとポール・ゴーギャンを招いたが上手く行かず、挫折した。  ゴッホは熱しやすく冷めやすいようで、何かに熱中して直ぐ挫折する事の繰り返しだったようです。最後に熱中した画家は弟の支援もあり、粘り強く継続したようです。ただこれも挫折して、精神的に参ってしまったようです。
  アルルに移って仮住まいしたのが、カフェ・ド・ラ・ガールでした。その経営者(女将さん)がジヌー夫人です。住み始めた最初の頃(1888年11月)作品群と、1年ほど経った(1890年2月)の作品群があります。最初の頃描いたジヌー夫人は、余所余所しい感じです。1年後に描いたジヌー夫人は、人間味がを感じます。やっぱり人間関係が現れるのでしょうか。
アルルの女/ジヌー夫人(フィンセント・ファン・ゴッホ、1890年2月作)

アルルの女/ジヌー夫人
(フィンセント・ファン・ゴッホ、1890年2月、クレラー・ミュラー美術館蔵)
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アルルの女/ジヌー夫人
(フィンセント・ファン・ゴッホ、1888年11月作、メトロポリタン美術館蔵)

アルルの女/ジヌー夫人
(フィンセント・ファン・ゴッホ、1888年11月作、オルセー美術館蔵)


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