世界美術館巡り旅

世界の美術館・旅行・画家・絵画の情報共有サイト

2025年03月

 2015年4月にボルゲーゼ美術館(ローマ)を訪問しました。今回は、ピントゥリッキオ作「聖ヒエロニムスと聖クリストフォロスと磔刑」を紹介します。
 ピントゥリッキオ(1454~1513年)はペルージャで生まれ、地元画家の下で修業しました。その後バチカンのシスティーナ礼拝堂フレスコ画制作で、ペルジーノの助手を務めました。その後1484~92年の間、ローマのサンタ・マリア・デル・ポポロ教会礼拝堂の装飾を手掛けました。1493年から教皇アレクサンドル6世に雇われ、バチカン宮殿の六つの部屋の装飾を手掛けました。1497~1500年でサンタ・マリア・イン・アラチェーリ教会ブファリーニ礼拝堂の装飾を手掛けました。当時もっとの評判の高い礼拝堂装飾画家だったと思われます。
 「聖ヒエロニムスと聖クリストフォロスと磔刑」はピントゥリッキオの最初期の作品で、初期フランドルの影響を感じさせます。(幼いキリストを肩に川を渡ったという聖クリストフォロスから)谷の川を背景に磔刑が描かれています。左側には聖ヒエロニムスと飼いならされたライオン、枢機卿の帽子、胸を打つ為の石が描かれています。右の聖クリストフォロスは殉教の象徴のヤシの葉を持ち、肩に幼いキリストを担いでいます。聖クリストフォロスは正教会などで聖人ですが、史実性が薄いとカソリックでは聖人から除外されています。
 ピントゥリッキオは20歳頃に既に高い画力を持ち、ペルジーノの助手になったのも納得です。更にルネッサンスには初期フランドルの(特に絵の具の技法の)影響が分かる作品です。
 イタリアでは(卵の黄身で顔料を混ぜる)テンペラ技法が15世紀末近くまで主流でした。初期フランドルでは(鉱油で顔料を混ぜる)油絵が発達して、イタリアに波及しました。油絵具は乾くのが遅く画面の上で混ぜられて、微妙がグラデーションが描けました。
 聖ヒエロニムスと聖クリストフォロスと磔刑
ピントゥリッキオ、1475年頃作)
ピントリッキオ 聖磁路らもとクリストフォロに反する十字架刑

 2014年7月にアルテ・ピナコテーク(ミュンヘン)を訪問しました。全体の写真しか残っていなかったので、公式ページからコピーをして作品を紹介します。
アルテ・ピナコテーク前景(Wikipediaから)

アルテ・ピナコテーク正面
DSCN1388
自画像(アルブレヒト・デューラー、1500年作)
652px-Albrecht_Dürer自画像
アレキサンダー大王の戦い(アルブレヒト・アルトドルファー、1529年作)
697px-Albrecht_Altdorferアレクサンドロス大王の戦い
聖マリアと聖ヨハネの居る架刑(ジォット・ディ・ボンドーネ、1300年頃作)
ジォット聖マリアと聖ヨハネの架刑
受胎告知(フィリッポ・リッピ、1443~50年作)
フィリッポ・リッピ  受胎告知
聖母の聖ベルナルドゥスへの顕現(ピエトロ・ペルジーノ、1488~89年)

キリストの哀悼(サンドロ・ボッティチェリ、1490~92年作)
三賢人の礼拝(ウェイデン作)
三賢人の礼拝ウェイデン  

ブライアン・トゥークの肖像(ハンス・ホルバイン作)
ブライアン・トゥークの肖像 ハンス・ホルバイン

カーネーションの聖母(伝レオナルド・ダ・ヴィンチ作)
カーネーションの聖母 ダヴィンチ
カニジャー二の聖家族(ラファエロ・サンティ、1507年作)
カニジャー二の聖家族 ラファエロ
テンピの聖母(ラファエロ・サンティ、1508年作)
テムピの聖母
四人の使徒(アルブレヒト・デューラー、1526年作)

カール5世の肖像(ティツィアーノ・ヴェチェリオ、1548年頃作)

ウルカヌスに驚かされるヴィーナスとマルス
(ヤコポ・ティントレット、1555年頃作)

怠け者の天国(ピーテル・ブリューゲル、1566年作)
ピーテル・ブリューゲル 怠け者の天国
王の礼拝(ティエポロ作)
ティエポロ 王の礼拝
画家夫妻の肖像(ピーテル・パウル・ルーベンス、1609年作)
画家夫妻の肖像 ルーベンス
最後の審判(ピーテル・パウル・ルーベンス作)
最後の審判  ルーベンス
イザックの生贄(レンブラント・ファン・レイン、1636年作)
レンブラントイザックの生贄
自画像(アンソニー・ヴァン・ダイク、1621年作)
メロンとブドウを食べる子供たち
(バルトロメ・エスティバン・ムリーリョ、1645~50年作)
_Murilloメロンとブドウを食べる子供たち
小さい果物売り(バルトロメ・エスティバン・ムリーリョ作)
ムリーリョ 小さい果物売り
横たわる少女(フランソワ・ブーシェ、1752年作)
ブーシェ横たわる少女
ポンパドール夫人の肖像(フランソワ・ブーシェ、1758年作)
フランソワ・ブーシェ  ポンパドール夫人の肖像
少女と犬(ジャン・オノレ・フラゴナール、1770~75年作)
フラゴナール  少女と犬
デューラーの自画像、アルトドルファ/ブリューゲル/ムリーリョの作品は必見です。

 2015年4月にボルゲーゼ美術館(ローマ)を訪問しました。今回は、ジョヴァンニ・ベッリーニ作「聖母子」を紹介します。
 ジョバンニ・ベッリーニ(1430~1516年)は画家一族に生まれ、父がヤーコポ・ベッリーニ、兄がジェンティーレ・ベッリーニです。叔父の画家もいたようです。家族の間で画力を磨いたと思われます。姉がパドヴァ派のマンテーニャと結婚しました。若いころはテンペラ技法で、やや硬い感じの絵を描いていました。1480年頃から油彩の技法を取り入れました。絵の具が乾くのに時間的余裕ができ、柔和な(グラデーション)表現が出来ました。
 ジョヴァンニ・ベッリーニの一番完成度が高い作品群は、1480~1500年(50~70歳)の間に描かれています。ジョヴァンニ・ベッリーニは優秀な弟子・助手を持っていました。筆頭がジョルジョーネで、その弟弟子でジョルジョーネを手助けしていたのがティツィアーノ・ヴェチェリオです。ジョヴァンニ・ベッリーニとジョルジョーネの作品には、眼ヂカラを感じます。
 聖母子はジョヴァンニ・ベッリーニやジョルジョーネの作品と比べると、眼ヂカラと輪郭のクッキリ感が弱いです。ただ全体の描き方は、ジョヴァンニ・ベッリーニやジョルジョーネのそれです。どうも最後の仕上げの一塗りがされていないような気がします。1510年過ぎというと、ジョヴァンニ・ベッリーニが80歳過ぎです。1816年に亡くなっています。ジョルジョーネは1510年に若くして亡くなっています。ジョルジョーネの死によって最後の仕上げがされていないか、ティツィアーノ・ヴェチェリオが仕上げたのかだと思います。聖母子の容貌に「ブレラの聖母子」と共通するものも感じます。興味深いですね。
聖母子(ジョヴァンニ・ベッリーニ、1510年頃作)
聖母子 ジョヴァンニ・ベッリーニ作
牧草地の聖母子
(ジョヴァンニ・ベッリーニ、1500~05年作、ロンドン・ナショナルギャラリー蔵)

ブレラの聖母子(ジョバンニ・ベリーニ、1510年作、ブレラ美術館蔵)
ブレラの聖母 ジョヴァンニ・ベッリーニ作
キリストの変容(ジョヴァンニ・ベッリーニ、1480年頃作、カポディモンテ美術館蔵)

聖なる寓意
(ジョヴァンニ・ベッリーニ、1490~1500年作、ウフィツイ美術館蔵)

 2016年7月 ゲメルデ・ガレリー/絵画館(ベルリン)に行きました。開館まで時間があったので、ベルリン ノイエ・ナショナルギャラリーの様子を見に行きました。残念ながら改修中で、閉鎖されていました。前景と公式ページの所蔵品を紹介します。
           ノイエ・ナショナルギャラリーの全景(Wikipediaから)
01_Profil[1]
訪問時のノイエ・ナショナル前景
イメージ 1
ノイエ・ナショナルギャラリーの玄関(閉鎖中の表示)
イメージ 2
公式ホームページに掲載された所蔵品を紹介します。
ポツダム広場(エルンスト・ルードヴィヒ・キルヒナー、1914年作)
ポツダム広場
バーデンデ・アム・ストランド(エルンスト・ルードヴィヒ・キルヒナー、1913年作)

フランツ・マルクの肖像(アウグスト・マッケ、1910年作)

Lübecker Hafen mit Holstentor(エドヴァルド・ムンク、1907年作)

フラウエンコップ(アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー、1912年作)

エッフェル塔(ロバート・デラウナー、1928年作)
Robert Delaunay Eiffel Tower
ソニアの肖像(クリスチャン・シェド作)
Christian Schad Sonja
社会を支える(ジョージ・グロス作)
George Grosz 社会を支える
最後のワイマール・ビール腹文化に切り込むダダ(ハナー・ホエッホ作)
最後のワイマール ビール腹文化を切り込むダダ Hannah Höch
肘掛椅子に座る女(パブロ・ピカソ、1909年作)
肘掛椅子に座る女  ピカソ
シュルツ・ジュニア博士の回顧録 Ⅲ(ヴェルナール・テューク作)
Werner Tübke シュルツ・ジュニア博士の回顧録 Ⅲ
アスコナのプロジェクト(マリアンヌ・フォン・ヴェレフキン、1924年作)

静物Ⅰ(アレクサンダー・カノルト、1926年作)

踏切(ゲオルク・シュリンフ、1932年作)

ドイツ国立鉄道(ハインリッヒ・フォーゲラー、1936年作)
2021年8月から再開館されているようです。行かれる方は、公式ホームページで休館日を確認してから計画立案をお願いします。

 2015年4月にカポディモンテ美術館(ナポリ)を訪問しました。今回は、エル・グレコ作「蝋燭に火を灯す少年」を紹介します。
 エル・グレコは1541年にギリシャ領クレタ島で生まれ、1567年にヴェネツィアでティッツァーノに弟子入りしました。1576~77年の間ローマに住み、その後スペインに渡りフェルぺ2世の宮廷画家を目指しました。エル・グレコはフェルぺ2世の肖像画を描きましたが、フェルぺ2世のお気に召さなかったようでした。トレドに定住して、宗教画を主に描きました。フェリペ2世依頼でエル・エスコリアル修道院に飾る予定の「聖マウリティウスの殉教」を描きましたが、ヒエロニムス会士に受け取り拒否されました。その後もエル・グレコは隠れイスラム教徒を疑われたり散々でした。トレドの宗教施設からの依頼で主に描きました。その後も宗教に関する描き方で依頼主と度々揉め、制作費を値切られていたようです。ローマでミケランジェロ作品を酷評して、スペインに移住したという話も伝わります。「困ったチャン」だけど絵が上手くて、放っておけない画家だったようです。カラヴァッジョと共通するところがあったようです。
 「蝋燭に火を灯す少年」はイタリア貴族のファルネーゼ家に所蔵され、スペイン国王になる前だったカルロス3世により、1734年にナポリにもたらされた。1799年にフランス軍が略奪後、ローマの美術市場で発見された。様々な画家の作品とされてきたが、プラド美術館所蔵「アレゴリー」との類似性からエル・グレコ作という事に落ち着いた。
 紀元前4世紀古代ギリシャのアレクサンドリアのアンティフィロスが描いたとされる作品の記述が、画題の発想となったと推定されている。明暗の描き方などは、高い画力を示しています。
蝋燭に火を灯す少年(エル・グレコ、1571~72年作)
蝋燭の火に息を吹きかける少年 エル・グレコ
アレゴリー(エル・グレコ、1580年頃作、プラド美術館蔵)

↑このページのトップヘ