世界美術館巡り旅

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2024年11月

 2018年6月にノートン・サイモン美術館訪問の前の空き時間で、ロサンゼルス現代美術館に行ってみました。開館時間が午前11時と遅かったのと現代美術への興味が今一つだったので、入館はしませんでした。外側で撮った写真と公式HPからの写真を紹介します。
ロサンゼルス現代美術館前景(公式HPから)
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道の反対側からロサンゼルス現代美術館を背景に記念撮影
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前庭のオブジェ
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入り口への階段近くで記念撮影
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展示の様子(公式HPから)
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アトリエの室内(アルベルト・ジャコメッティ、1950年作)
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人 Ⅱ(アルベルト・ジャコメッティ、1960年作)
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握る(ロイ・リキテンシュタイン、1962年作)
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机上カレンダー(ロイ・リキテンシュタイン、1962年作)
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腕組みする男(ロイ・リキテンシュタイン、1962年作)
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金魚鉢(ロイ・リキテンシュタイン、1981年作)

無題(ジョセフ・コーネル、1959年作)
無題(ジョセフ・コーネル、1965~70年作)
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ハチドリの代謝(ジョセフ・コーネル、1970年頃)
夜の人々の姿(ジョアン・ミロ、1950年作)
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カプリコーン(マックス・エルンスト、1948~63年作)
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毛沢東(アンディ・ウォホール、1972年作)
現代芸術のオブジェが一杯展示されているようです。

 2013年3月にパラティーナ美術館(ピッティ宮殿内/フィレンツ)を訪問しました。今回は、ラファエロ・サンティ作「大公の聖母」を紹介します。
 ラファエロ・サンティ(1483~1520年)は、ルネッサンスで最も有名な画家の一人です。大きな工房を構え、沢山の作品を残したことが知られています。
 ラファエロ・サンティは、ウルビーノ公国の(詩的才能もあった)宮廷画家の息子として生まれました。母は1491年(8歳の時)に死去、父も再婚後1494年に亡くなりました。11歳で孤児となってしまいました。後見人が父方叔父のバルトロメオで、継母が父の工房を細々と続けたようです。
 ペルジーノの工房に弟子入りして、1501年に僅か18歳でマスターに登録されたようです。次々と作品を描き、若くして工房を経営したようです。37歳で亡くなるまで、多くの傑作を残しました。
 「大公の聖母」は長らく存在が知られず、1799年に貧しい未亡人の家で発見されました。トスカーナ大公フェルナンド3世が購入して、大公が長年愛でた絵でした。
 ラファエロはペルジーニの弟子となり、1500年(17歳)頃に助手となりました。1501年にマスター(親方)に登録されました。当時の基準から考えて、6年前の1495年(12歳)頃に弟子入りしたと思われます。独立から暫くは、単発の依頼を受けていたようです。1504年のどこかの時点まで、師匠のペルジーノの画風が色濃く残っていました。1502年頃からフィレンツェの戻っていたレオナルド・ダ・ヴィンチから手ほどきを受けて徐々に変化して、1504年にペルジーノの画風から完全脱却しました。それ以降の依頼作品が、この「大公の聖母」です。研究者が調べると輪郭の要所要所にピン穴があり、下絵から正確に輪郭を写し取ったようです。下絵の一案と思われる素描も残っています。フィレンツェの貴族辺りが依頼したかと思われます。背景は室内だったのが、後の時代に黒く塗りつぶされたようです。素描と見比べたりすると、「大公の聖母」の幼いキリストの抱かれ具合が絶妙です。これにラファエロが拘り、大公が愛でたのではないかと思われます。聖母のトロントした眼差しとこちらを見つめる幼いキリストの眼差しも絶妙です。これを強調したがため、背景を黒く塗りつぶして修復したのでしょう。ペルジーノもラファエロも、絵の具がひび割れて剥落し易かったようです。絵の具の製造方法(配合)はペルジーノ仕込みで、変える必要性を感じなかったのでしょうか。
大公の聖母(ラファエロ・サンティ、1505~6年作)
大公の聖母,_por_Rafael
大公の聖母の素描(ラファエロ・サンティ作、ウフィツイ美術館蔵)

聖母戴冠(ラファエロ・サンティ、1502~04年作、ヴァチカン美術館蔵)

聖母の婚礼(ラファエロ・サンティ、1504年作、ブレラ美術館蔵)

三美神(ラファエロ・サンティ、1504年作、コンデ美術館蔵)

聖ゲオルギウスと竜
(ラファエロ・サンティ、1505~06年作、ルーヴル美術館蔵)

 2018年6月にロサンゼルス・カウンティ美術館に行きました。前回の投稿では添付写真の容量オーバーの為、古典絵画だけとなりました。今回近代絵画以降の写真を紹介します。
レダと白鳥(フランソワ・ブーシェ、1742年頃作)
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聖体拝領者の為の祈り(ジャン・ドミニク・アングル作)
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オダリスク習作(アングル作)の前で記念撮影
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貴婦人の肖像(ジョン・シングルトン・コプレイ、1711年作)
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ジベルニーの林(クロード・モネ作)
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睡蓮(クロード・モネ、1898年作)
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ハンターに扮したジーン・ルノワール
(ピエール=オーギュスト・ルノワール、1910年作)
読書する二人の少女(ピエール=オーギュスト・ルノワール作)
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「読書する二人の少女」の前で記念撮影
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眠い子供入浴させようとする母(メアリー・カサット、1880年作)
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チェリーと桃の静物(ポール・セザンヌ、1885年作)
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ジョヴァンナとジュリア・ベレッリ(エドガー・ドガ、1866年作)
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ドガ作品の前で記念撮影
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ダンサーたち(エドガー・ドガ、1898年作)
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赤い牛(ポール・ゴーギャン、1889年作)
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豚飼い(ポール・ゴーギャン、1888年作)
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端役が立ち並ぶ階段を下りるメッサリナ
(ヘンリ・デ・トウルーズ・ロートレック、1901年作)
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セバスティアン・フンニェール・ビダルの肖像(パブロ・ピカソ、1903年作)
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ハンカチーフで泣く女(パブロ・ピカソ、1937年作)
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古典と合わせるとアメリカ西海岸で一番パーマネント・コレクションが充実した美術館だと言えます。

 この作品で貴婦人が何故白貂を抱いているのか不思議でした。再評価してみました。
 2017年6月に、クラクフ(ポーランド)を観光しました。ヴァヴェル城に行ったところ、クラクフ国立博物館本館で展示されていると言われました。徒歩15分程で移動して、クラクフ国立博物館本館に行きました。早速「白貂を抱く貴婦人」の展示室に行きました。部屋は非常に暗く、作品に暗めのスポット・ライトが当たっていました。空いていたので近寄って斜めから良く見たところ予想以上に平坦で、絵の具の凹凸はほとんど見られませんでした。かなり短期間で、サラッと描かれたようでした。
 レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519年)は美術史上最も有名な画家の一人です。技術的な資料を多く残しましたが一方、非常に作品が少ない画家です。後半生では「ダ・ヴィンチは絵が(遅くて)描けなくなった。」とまで言われました。
 レオナルド・ダ・ヴィンチは1452年に(イタリア)トスカーナ地方のヴィンチ郊外で生まれました。父はフィレンツェで公証人をしていて、母は(恐らく)農夫の娘のカテリーナでした。暫く母に育てられましたが、1457年(5歳)から母と離れて、父・祖父母・叔父とヴィンチ都市部に住むようになりました。年長の庶子の扱いで複数の継母(正妻)に育てられ、家を継ぐことはありませんでした。1466年(14歳)から1476年(24歳)まで、ヴェロッキオに弟子入りしました。遅くとも1472年(20歳)までには、フィレンツェの聖ルカ組合でマスター(親方)の資格を認められました。マスターになってからも、ヴェロッキオの手助けはしばらく続けたようです。その後注文された宗教画/肖像画を描きました。1498年に有名な壁画の「最後の晩餐」を完成させました。
 1499年第二次イタリア戦争で、フランスがミラノに侵攻しました。ダ・ヴィンチもヴェネツィアへ避難するとともに、軍事技術者として働いたようです。1502年にはチェゼーナの軍事技術者や工兵の長も務めました。フィレンツェやヴァチカンで絵を描くなかで、フランス王のフランソウ1世の知己を得て、彼の別荘に招かれました。やがてそこで息を引き取りました。どうも「最後の晩餐」完成後(46歳)に戦争に巻き込まれて、画業に集中できなくなったようです。
 レオナルド・ダ・ヴィンチはミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァに招かれ、ミラノに移りました。 「白貂を抱く貴婦人」はミラノで仕事をした初期に描かれました。モデルはミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァの愛妾のチェチーリア・ガッレラーニだと言われています。1491年にルドヴィーコ・スフォルツァがベアトリーチェ・デステを妃に迎えて、別居しました。更に3年後に貴族と結婚して、子をもうけました。レオナルド・ダ・ヴィンチは1484年にチェチーリア・ガッレラーニと初めて会って、当時17歳だったと伝わります。この作品の当時は、23歳に当たります。
 ルドヴィーコ・スフォルツァは1490年にベアトリーチェ・デステと婚約し、1491年1月に結婚しています。ベアトリーチェ・デステは非常に聡明で、学者・詩人・芸術家との交流の中心になったようです。1498年に第三子を産んだ際に亡くなったようです。その前にヴェネツィアへ大使として訪れ、ミラノを救う働きをしたようです。レオナルド・ダ・ヴィンチは結婚祝いに彼女の肖像画を贈ったと記録に在ります。レオナルド・ダ・ヴィンチは愛妾のチェチーリア・ガッレラーニよりも、ベアトリーチェ・デステ寄り・シンパだったと思われます。ベアトリーチェ・デステは1490年は15~6歳だった筈で、23歳の愛妾チェチーリア・ガッレラーニを敵意を持っていたと考えられます。ベアトリーチェ・デステと結婚したルドヴィーコ・スフォルツァは徐々に愛妾のチェチーリア・ガッレラーニを遠ざけました。ルドヴィーコ・スフォルツァは1493年に別の貴族と結婚しました。
 画面の白貂をイタチ系の動物と比較すると、体形的にはヨーロッパ・マツケン(貂)が一番近そうです。ただし冬毛が白くはならないようです。この白い個体はアルビノで、非常に珍しいと思われます。更に臭腺から酷い悪臭を放つ可能性があります。臭腺除去手術が確立したのは、20世紀と思われます。更に、同じイタチ種系家畜のフィレットなどのイメージは、「悪臭、騙す、裏切る、泥棒」等悪いものばかりです。この絵の制作意図は、次のように推定します。
 ベアトリーチェ・デステと婚約したミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァにこの絵を提出して、「愛妾チェチーリア・ガッレラーニは確かに知的美人ですが遠ざけて、妃になる若いベアトリーチェ・デステを大事にした方が良い。」とアドバイスしたように思えます。愛妾に男子が生まれた場合の継承問題、自分の体験も含め庶子の人生の悲哀も訴えたような気がします。ルドヴィーコ・スフォルツァはレオナルド・ダ・ヴィンチを信頼していたので、諫言とこの作品を受け取ったのではないかと思います。 
白貂を抱く貴婦人(レオナルド・ダ・ヴィンチ、1490年頃作)
19歳のベアトリーチェ・デステの肖像(1494年作)


ベアトリーチェ・デステの可能性がある肖像画
(ジョヴァンニ・アンブロージオ・デ・プレディス作)

貂の写真(Wikipediaから)

フェレットの写真(Wikipediaから)

夏毛のオコジョ(Wikipediaから)

冬毛のオコジョ(Wikipediaから)

ヨーロッパ・マツテンの写真(Wikipediaから)

 2018年6月にロサンゼルス・カウンティ美術館を訪問しました。ハマー美術館の前で市バスに乗り、ダウンタウン中心部方向に向かいました。パーマネント・コレクションが充実した美術館でした。
ロサンゼルス・カウンティ美術館前景(Wikipediaから)
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ロサンゼルス・カウンティ美術館前庭のオブジェ
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前庭中央の切符売り場近くで記念撮影
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 入場すると「ドイツ後期印象派展」という特別展示をしていました。何気なく写真を撮っていると係員が近づいてきて、「パーソナル・コレクションなので撮影しないでください。」と言われました。数枚写真を撮ってしまいましたが、気が引けるので紹介は遠慮します。
茨の聖母(アルベルト・ボウツ、1510年作)
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祈るキリスト(ハンス・メムリンク作)
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聖母子(ヤーコポ・ベッリーニ、1465年作
ヤーコポ・ベッリーニ作「聖母子」の前で記念撮影
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ヤコポ・ドルフィンの肖像(ティッツァーノ・ヴェチェリオ、1532年作)
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シャボン玉のある笑う子供(伝フランス・ハルス作)
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「シャボン玉のある笑う子供」の前で記念撮影
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 上記作品は真贋に両方あるようです。下記マウリッツハイス美術館所蔵品は真作で、異論が無いようです。マウリッツハイス美術館蔵品は、筆の勢いというかスピードを感じます。この作品の模写と思われる作品は、世界中で20作品以上あるようです。上記作品は真作3作品の内の一つと言う研究者が居たのですが、それを否定する研究者が現れたようです。大きさも若干違うので、判断が微妙です。私も決めきれません。立派な額縁で、所有者は本物と思っていたのでしょう。
笑う少年(フランス・ハルス、1625年作、マウリッツハイス美術館蔵)
キリストと不義の女(ティエポロ作)
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哲学者(ホセ・デ・リベラ、1637年作)
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聖カトリーヌの結婚(バルトロメ・エスティバン・ムリーリョ作)
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ラザロの復活(レンブラント・ファン・レイン、1630年作)
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捕縛されたキリスト(ヘラルト・ファン・ホントホルスト、1617年作)
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チーズ・アンティチョーク・チェリーのある静物
(クララ・ペーテルス、1625年作)
クララ・ペーテルスの静物画の前で記念撮影
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サタンと死(ヒュースリー作)
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水車の有る風景(クラウデ・ローラン作)
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砂漠でマナに集まるイスラエル人(ルーベンス作)
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シャボン玉を吹く少年(ジャン・シメオン・シャルダン、1793年作作)
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揺れる炎のあるマグダラのマリア(ジョルジュ・ド・ラ・トゥール、1638~40年作)
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名品が多数所蔵・展示されていました。添付ファイルの容量オーバーの為、近代以降は別途投稿します。

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