世界美術館巡り旅

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2024年09月

 2019年7月にオン・フルールにあるウジェーヌ・ブーダン美術館を訪問しました。今回は、ウジェーヌ・ブーダン作「小さな女の子の肖像」を紹介します。
 ウジェーヌ・ブーダンは1824年フランス ノルマンディー地方のオンフルールで、水夫(小さな船の船長?)の息子として生まれました。1835年に(11歳で)家族でセーヌ河河口対岸のルアーブルに転居しました。父親は文具商を始め、成功したようです。ウジェーヌ・ブーダンは転居直後から、画家の見習いを始めたようです。1844年に20歳で、文具・額縁・絵画の店を開店しました。1851年に(27歳で)ルアーブルの奨学金を貰い、3年間パリで絵を学んだようです。絵の買い付けなどで1857年にモネと、1859年にクールベと知己を得ました。薦められて、パリのサロンにデビューしました。1874年の第一回印象派展に出品しました。1881年のサロンで三等賞、1889年のサロンで金賞を受賞しました。1892年にレジオン・ドヌール勲章を受け、ナイトの称号も得たようです。遅咲きの画家と言えそうです。
 ウジェーヌ・ブーダン美術館の展示作品の間で、この「小さな女の子の肖像」は異質な存在でした。非常に粗いタッチで描かれて、これで完成とは思えない作品でした。ウジェーヌ・ブーダンが死ぬまで手放さなかった作品と思われます。他の画家のように画家の娘かと思いましたが、画家の子供の記録は見つかりませんでした。更に画家の妻の肖像も見つかりませんでした。作画と家族は別と言う考えだったようです。1882年はウジェーヌ・ブーダンが58歳、結婚して19年です。娘の可能性を感じましたが、良く分かりませんでした。非常に粗い描き方ですが、少女の腰のあたりの感じが流石ブーダンだと感じます。
小さな女の子の肖像(ウジェーヌ・ブーダン、1882年作)
少女の肖像

 2019年7月にオン・フルールにあるウジェーヌ・ブーダン美術館を訪問しました。今回は、ウジェーヌ・ブーダン作「蟹とロブスターとエイの静物」を紹介します。
 ウジェーヌ・ブーダンは1824年フランス ノルマンディー地方のオンフルールで、水夫(小さな船の船長?)の息子として生まれました。1835年に(11歳で)家族でセーヌ河河口対岸のルアーブルに転居しました。父親は文具商を始め、成功したようです。ウジェーヌ・ブーダンは転居直後から、画家の見習いを始めたようです。1844年に20歳で、文具・額縁・絵画の店を開店しました。1851年に(27歳で)ルアーブルの奨学金を貰い、3年間パリで絵を学んだようです。絵の買い付けなどで1857年にモネと、1859年にクールベと知己を得ました。薦められて、パリのサロンにデビューしました。1874年の第一回印象派展に出品しました。1881年のサロンで三等賞、1889年のサロンで金賞を受賞しました。1892年にレジオン・ドヌール勲章を受け、ナイトの称号も得たようです。遅咲きの画家と言えそうです。
 ウジェーヌ・ブーダンというと世界中の美術館に、横長画面で砂浜の海水浴をする人々の絵があります。静物画を見た記憶がなかったので、調べてみました。Wikiartsに560作品ほどが紹介されていて、静物画と花の作品が10点ほどが見つかりました。静物画の大半がウジェーヌ・ブーダン美術館に所蔵されていたので、殆ど手元に残していたのでしょうか。ウジェーヌ・ブーダンの現存作品を俯瞰すると、様々の作品を夫々工夫して描いていたようです。静物画もある一時期だけ描いたという訳ではないようです。非常にデッサン力が高かった画家で、サロン入賞やレジオン・ドヌール勲章も受賞しています。一枚一枚非常に工夫していて確かなデッサンです。世界中にある定型的な(似たような、白っぽい)海水浴の絵は何者が描いたのかと疑問に思ってしまいます。
蟹とロブスターとエイの静物(ウジェーヌ・ブーダン作)
蟹とロブスターとエイ
二枚の静物画の間で記念撮影
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キジと果物籠の静物(ウジェーヌ・ブーダン、1879年作)
キジと鴨と果物
ボラと魚(ウジェーヌ・ブーダン、1873年作)
魚の静物

 2019年7月にオン・フルールにあるウジェーヌ・ブーダン美術館を訪問しました。今回は、アンリ・リエナール作「ビーチとオンフルールの灯台」を紹介します。
 アンリ・リエナール・ド・サン・デリス(1878~1949年)は若くして亡くなった騎兵将校の息子に生まれました。1885年に家族と共にル・アーヴルに移り住みました。その後ル・アーヴルのエコール・デ・ボザールに通い、アングルの弟子だった教授に学びました。一時パリに出て、印象派の画家や作品に影響を受けました。ノルマンディー地方に帰りましたが、1905年結核に罹患して、12年間スイスで療養生活を過ごしました。1930年からオンフルールに定住しました。作品を売り出したりせず、殆ど手元に置いていたようです。
 2017年にアンリ・リエナールとルネ・リエナール兄弟の夏季回顧展がウジェーヌ・ブーダン美術館で開催されました。それ以来、本作品が常設展示されているようです。アンリ・リエナールの作風の典型的な作品です。

ビーチとオンフルールの灯台(アンリ・リエナール作)
サンドニのアンリ海水浴場
オンフルール、サント・カトリーヌの鐘楼
(クロード・モネ、1867年作)
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サント・カトリーヌの鐘楼の前で記念撮影
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 2019年7月にオン・フルールにあるウジェーヌ・ブーダン美術館を訪問しました。今回は、ウジェーヌ・ブーダン作「トルヴェールとホンフロウへの道」を紹介します。
 ウジェーヌ・ブーダン(1824~98年)はフランス ノルマンディー地方のオンフルールで、水夫(小さな船の船長?)の息子として生まれました。1835年に(11歳で)家族でセーヌ河河口対岸のルアーブルに転居しました。父親は文具商を始め、成功したようです。ウジェーヌ・ブーダンは転居直後から、画家の見習いを始めたようです。1844年に20歳で、文具・額縁・絵画の店を開店しました。1851年に(27歳で)ルアーブルの奨学金を貰い、3年間パリで絵を学んだようです。絵の買い付けなどで1857年にモネと、1859年にクールベと知己を得ました。薦められて、パリのサロンにデビューしました。1874年の第一回印象派展に出品しました。1881年のサロンで三等賞、1889年のサロンで金賞を受賞しました。1892年にレジオン・ドヌール勲章を受け、ナイトの称号も得たようです。遅咲きの画家と言えそうです。
 世界中の美術館が、ブーダンの絵画を所蔵・展示しています。その大半が横長画面で白っぽく、トゥルーヴィルかドーヴィルの砂浜で海水浴の様子を描いたんものです。それらの記憶が強烈なんですが、「トゥルーヴィルとオンフルールの道」は普通の横長画面で、クッキリした色調の写実的風景画です。オンフルールはセーヌ川左岸河口部の港町です。そこから更に20kmほど離れた海岸の漁師町がトゥルーヴィルです。隣接するのがドーヴィルで、現在は高級リゾートちです。左側に海岸と海が描かれているので、オンフルールからやってきた馬車と犬と、風景を描いています。三十歳チョットの頃の作品ですが、素晴らしいデッサン力と色調です。このような絵を通過して、朦朧体のような絵を描いたようです。素晴らしい風景画ですが、鮮明過ぎてチョット疲れる絵です。ル・アーヴルからの奨学金でパリに出て間もないころの作品です。肩に力が入っていたのでしょうか。
トゥルーヴィルとオンフルールの道(ウジェーヌ・ブーダン、1852年頃作)
トルヴュールからホンフロウへの道

 2019年7月にフランス・ノルマンデイ地方ルーアンにあるルーアン美術館を訪問しました。今回は、アメディオ・モディリアーニ作「窓の前に立つポール・アレキサンドル」を紹介します。
 アメディオ・モディリアーニ(1884~1920年)はイタリア トスカーナ地方の港町リヴォルノで、ユダヤ系フランス人夫婦の息子に生まれました。父親は林業と銀行を経営していましたが、アメディオが生まれた年に倒産しました。父親は旅行勝ちで、母親と伯父に育てられました。14歳から風景画家にデッサンを学びましたが16歳で結核を発症して、イタリア中を転地療養しました。18歳でフィレンツェの裸体画教室に通い、19歳でヴェネツィアの美術学校に入りました。1906年に(22歳で)パリに出て、アカデミー・コラロッシに入学しました。1908年からアンデパンダン展に出品しましたが、良い評価は得られませんでした。1914年に画商のポール・ギョームと知り合いました。1916年にポーランド人画商のレオポルト・ズボロフスキーと専属契約して、生活が安定しました。1918年にニースに転地療養しましたが、1920年に結核性髄膜炎で亡くなりました。
 医師のポール・アレキサンドルはモディリアーニの絵を最初に評価して、最初のコレクターとなりました。ポール・アレキサンドルの肖像を5回描いていて、この作品が最後の五作目のようです。ポール・アレキサンドルは1914年に従軍して、亡くなったようです。我々がモディリアーニ風と感じる画風の最初期の作品です。対象を単純化して、水彩画のようにあっさりと描いています。
 窓の前に立つポール・アレキサンドル(アメディオ・モディリアーニ、1913年作)
Amedeo_Modigliani_047[1]

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