世界美術館巡り旅

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2024年08月

 2012年7月にオルセー美術館を訪問しました。今回は、ウィリアム・アドルフ・ブグロー作「ヴィーナスの誕生」を紹介します。
 ウィリアム・アドルフ・ブグロー(1825~1905年)は新古典主義の流れをくむ、フランス人画家です。美しい女性を描いた作品が多数残っています。ウィリアム・アドルフ・ブグローはフランス北西部の港町ラ・ロシェルに生まれました。1846年パリに出て、エコール・ド・ボザールで学びました。1850年にローマ賞を受賞して権利と資金を得て、4年間イタリアに留学しました。1876年にアカデミー会員に選ばれ、1888年にエコール・ド・ボザールの教授に就任しました。
 ブグローはカバネルと同等のデッサン力ですが、何故か生身の人間と言うか感情を描き出しています。カバネルの裸婦は実際の女性と言うより、石膏像・女神と感じます。ブグローのそれは美しい女性と見えます。ブグローのヴィーナスが誕生して、貝殻に乗って海からキプロス島に移動しています。貝殻はイルカが引っ張ています。周りには、天使やニンフなどが集まっています。夫々が生身の人間のように、ヴィーナスを見つめています。
ヴィーナスの誕生(ウィリアム・アドルフ・ブグロー、1879年作)
 

 2012年7月にオルセー美術館を訪問しました。今回は、アレクサンドル・カバネル作「ヴィーナスの誕生」を紹介します。
 アレクサンドル・カバネル(1823~1889年)は、年南フランスのモンペリェに生まれました。幼い頃の記録は残っていませんが、地方貴族のような比較的裕福な生まれと思われます。1840年に(17歳で)エコール・デ・ボザールに入学しました。1844年に(21歳で)サロン初入選しました。1845年に(22歳で)ローマ賞に選ばれました。1863年にフランス学士院会員に、同年エコール・デ・ボザールの教授になりました。1865,67,68年に夫々最高名誉賞を受賞したようです。アカデミー派の権化のような画家で、素晴らしいデッサン力です。サロンの審査員の常連で、印象派画家の作品を入選させなかったようです。その反動で、(無審査の)印象派展が始まったようです。
 「ヴィーナスの誕生」は1863年のサロン・ド・パリに出展・入選しました。芸術の王道と絶賛され、フランス皇帝ナポレオン3世が買い上げました。カバネロの名声を不動のものとした作品です。素晴らしいデッサン力で描かれています。サンドロ・ボッティチェリ作品を意識していたと思われますが、それ以上のデッサン力です。
ヴィーナスの誕生(アレクサンドル・カバネル、1863年作)
 
ヴィーナスの誕生
(サンドロ・ボッティチェリ、1483年頃作、ウフィツイ美術館蔵)

 2012年7月にオルセー美術館を訪問しました。今回は、アルフレッド・シスレー作「ポール・マルリーの洪水と小舟」を紹介します。
 アルフレッド・シスレー(1839~1899年)は、印象派匿名協会の創立メンバーの一人です。印象派画家のなかでは、注目度が低い画家です。最近シスレーをもっと評価すべきだとの意見が高まっているようです。アルフレッド・シスレーはパリで、裕福なイギリス人貿易商夫婦の間に生まれました。1857年(18歳)にロンドンに渡り、叔父の下でビジネスを学びました。ロンドンでターナーやコンスタンブルの絵画を見て、影響を受けたようです。1861年(22歳)にパリへ戻り、ガブリエル・グレールのアトリエで学び、モネ、ルノアールと知り合いました。色彩豊かで大胆な風景画を描いたが、なかなかサロンに入選しませんでした。
 1868年(29歳)のサロンに入選したが、余り評価されませんでした。1870年普仏戦争で家・財産を失い、翌年父親も破産して生活に困窮しました。1871年に(32歳で)パリ郊外に移住しました。1874年の第一回印象派展(無審査)に出品しました。1875年には、モネ、ルノアール、モリゾーとともに即売会を開きました。その後ロンドンとパリを行き来しました。1898年(59歳)にフランス市民権を得ようとしたが、病気を理由に却下されました。1899年に喉頭癌で亡くなりました。
 1874年から滞在したルーヴ・シエンヌで遭遇した洪水を写生して制作した7作品の一つが、「ポール・マルリの洪水と小舟」です。奥の棚(ぶどう棚か藤棚?)の向こう側が、川だと思われます。手前の道路も水が溢れて、建物の前に小舟が横付けになっています。洪水や大雨は上がって、青空です。大災害があった直後の絵とは思えないほど、平和な絵です。淡々とした風景画です。印象派としては洗練された良い絵だと思いますが、シスレーがどのような気持ちで描いたのか興味が湧きます。
ポール・マルリーの洪水と小舟(アルフレッド・シスレー、1876年作)
 

 2012年7月にオルセー美術館を訪問しました。今回は、アルマン・ギヨマン作「イブリーの落陽」を紹介します。
 アルマン・ギヨマン(1841~1927年)は印象派画家と親交を結んでいました。第一回印象派展も出品しました。作品を見ると古典主義と明らかに違い、特に色使いが印象派・後期印象派の画家に影響を与えたと思えます。アルマン・ギヨマンは1841年にパリの労働者階級の家庭に生まれました。1857年に(15歳で)叔父の経営する服飾店で働き始め、夜にはドローイング教室で学びました。1860年に(19歳で)パリーオルレアン鉄道に務め始め、自由時間に絵画の練習を続けました。1866年(25歳)に退職して、アカデミー・シエイスで本格的に絵画を勉強しました。この間に、セザンヌやピサロと親交を深めました。経済的な問題からと思われますが、1868年からパリの土木局で夜勤を務め、昼間に絵を描くという生活を続けました。1870年代初頭からピサロとともに、農村から工業化されつつあるポントイーズに移住しました。1874年第一回印象派展に出品するに当たり、無審査の筈ですがドガやモネに出展を拒絶されました。親友のピサロの執り成しで、やっと出展出来たようです。絵画制作を続けるなか1891に宝くじ当選で10万フランを得て、絵画に集中できる環境が整ったようです。1927年にパリの南のオルリーで生涯を閉じました。
 「イブリーの落陽」に描かれたイブリーはパリの南側に隣接しています。セーヌ川を描いていますが、パリ手前(上流)できれいな流れです。ギヨマンは独特の色彩感覚を持ち、筆後も粗くて自由な感じです。ゴッホにも影響を与えたような気がします。きれいなセーヌ川流域の夕暮れに工場の煙突の煙を描いています。味わい深い作品です。
イブリーの落陽(アルマン・ギヨマン、1873年作)
 

 2012年7月にオルセー美術館を訪問しました。今回は、ギュスターヴ・モロー作「オルフェウスの首を運ぶトラキアの娘」を紹介します。
 ギュスターヴ・モロー(1826~1898年)は、象徴主義のフランス人画家です。聖書や神話を題材に、幻想的な絵を描きました。ギュスターヴ・モローはパリで建築家の父と音楽家の母の間に生まれました。体が弱く、6歳のころから素描で遊びました。1843年に(17才で)イタリア旅行をすると、1844年にフランソワ=エドウアール・ピコの弟子になりました。1846年にエコール・デ・ボザールに入学しました。1848年と49年のローマ賞に挑戦しましたが失敗、ついには退学してしまいました。1852年に「ピエタ」をサロンに出品、1855年のパリ万博に出品しました。1857~59年の間、自費でローマ留学をしました。1888年に美術アカデミー会員にえらばれ、1892年にエコール・デ・ボザールの教授になりました。
 ギリシャ神話に登場する音楽家・吟遊詩人オルフェウスは、蛇に噛まれて死んだ妻を連れ戻そうと冥府に降りました。冥府の王ハデスを説得して、決して振り向いて妻が続いている事を見ない条件で連れ戻せることになりました。ところが途中で振り返ってしまい、妻を永遠に失いました。地上に戻っても女たちの愛を拒み、ディオニソスの信女たちに引き裂かれて死にました。へプロス川に落ちたオルフェウスの首と竪琴が、レスボス島のメテュムナに流れ着きました。トラキアの娘云々というのは、モローの創作と思われます。1857~59年の間、モローはローマに自費留学しました。そこで多くのルネッサンス傑作を見たと思います。それで一皮むけたようで、傑作を次々と描きました。
 オルフェウスの神話は長らく忘れられた画題でしたが、ドラクロワがブルボン宮殿天井画に描いて再び注目されました。金色っぽい色調で、独特の雰囲気・空気感を醸し出しています。足元に亀が描かれ、背景の岩山には音楽を楽しんでいる人影が描かれています。
オルフェウスの首を運ぶトラキアの娘(ギュスターヴ・モロー、1865年作)
 
未開のギリシャ人を文明化し、平和の芸術を教えに来たオルフェウス
(ウジェーヌ・ドラクロワ、1837~1847年作、ブルボン宮殿蔵)

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