世界美術館巡り旅

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2024年07月

 2012年7月にルーヴル美術館(パリ)を訪問しました。今回は、ジャン・シオン・シャルダン作「食前の祈り」を紹介します。
 ジャン・シメオン・シャルダン(1699~1779年)はロココ期のフランス人画家です。静物画や風俗画でお馴染みの画家です。ジャン・シメオン・シャルダンはパリの家具職人の息子に生まれました。1718年から歴史画家のカーズの工房に入りました。1720年コアペルにも短期間師事しました。1728年「アカエイ」が好評で、王立絵画彫刻アカデミーの正会員に選ばれました。フォンテーヌブロー宮殿の修復にも参加しました。1731年からサロン・ド・パリに出品しました。1752年以降国王から年金を与えられました。1955年アカデミーの会計官とサロンの陳列委員を務めました。1557年ルーヴル宮内にアトリエ兼住居を与えられました。
 シャルダンは主に静物画を描いていましたが、オランダ風の風俗画も描くようになりました。1740年のサロンにこの「食前の祈り」を出品し、高評価を得ました。ルイ15世もこの作品に感銘したと聞き、シャルダンはルイ15世に献上しました。シャルダンは「食前の祈り」を数作品描きました。
 オランダの風俗画には無い、静けさ・厳かさを感じさせる作品です。シャルダンの作品は全てが静かで、音がしない。何故そう感じるのかは良く分かりません。
食前の祈り(ジャン・シメオン・シャルダン、1740年頃作)
丸眼鏡の自画像(シャルダン作)
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 2012年7月にルーヴル美術館(パリ)を訪問しました。今回は、ジュルジュ・ド・ラ・トゥール作「ダイヤのエースを持ついかさま師」を紹介します。
 ジュルジュ・ド・ラ・トゥール(1593~1652年)は、ロレーヌ公国(現在のフランス・ロレーヌ地方)の小さな町(ヴィック・シュル・セーユ)のパン屋の家に生まれました。1617年(24歳)に同じくロレーヌ公国のやや大きい街(リュネヴィル)に移住し、1620年(27歳)には弟子をとっていたようです。1639年(46歳)にパリへ出て、その後ルイ13世から「国王付き画家」の称号を得ました。その後リュネヴィルに戻り、1852年に伝染病(ペスト?)で家族諸共亡くなってしまいました。
 あくせくと有力者に取り入った/税の支払いを拒んだ/強欲などの悪口が、記録に残っています。彼は同じ画題・構図の作品を複数描いています。注文主の希望に従ったものだと思いますが、それが金儲け主義に思えたのではないか。当時はバロック全盛でしたが、地方では個性的な画家が居たようです。18世紀に入るとラ・トゥールの名前は忘れられました。彼の作品も、スペイン画家によるものと誤解されていました。1934年にパリで「実在した画家」展が開かれて、ラ・トゥールの画業が注目されました。暗闇の中の蝋燭の炎を描かせたらラ・トゥールの右に出る画家は居ないと思います。「マグダラのマリア」と名付けられた作品をご記憶の方も多いと思います。
 ラ・トゥールの画風・画題はパリに行ってルイ13世から「国王付き画家」の称号を得た時点で、大きく変わっています。それ以降は、蝋燭の明かりの暗闇で宗教をテーマに描いています。それ以前は明るい状況の風俗画がメインです。パリに行く前にいたロレーヌは神聖ローマ帝国に属してましたが、フランス王に占領されていました。ロレーヌ公は名目だけの領主でした。ドイツのアルザス地方やベルギーに接していて、交易・商業が発達していました。
 この作品が風俗画で「クラブ・・・」を描いた数年後に「ダイヤ・・・」を描いたとすると、どのような人が買って・飾っていたのか想像ができません。2枚の絵で描き替えられている所を列挙してみました。
① 画面が暗くなり、時間が経過した
② いかさま師のカードがクラブからダイヤへ
③ いかさま師の袖付けリボンが解けた(行儀が悪くなった)
④ 正面女性の前の金貨が増え、宝石の粒が大きくなった
⑤ ワインを注ぐ女性の手首の輪が豪華になった
⑥ 貴族の息子のカードのスペードがみすぼらしくなった
更に共通しているのは、
◆ いかさま師が鑑賞者に振り向いて「これが現実だよネ。」と言いている素振り。
 どうもこの2枚の作品は、風刺画ではないかと推定した。読み解く鍵は、カードのマークです。スペードは刃で騎士・死を暗示。ハートは聖杯で聖職者を暗示。ダイヤはお金で商人を暗示。クラブはこん棒で知識・農夫を暗示。クラブ・スペード・ダイヤは描かれています。という事は、中央女性の持ったカードがハートです。これで風刺が解けました。
 右のバカ殿様のような少年がローヌ公で衰退しています。左端のいかさま師は中央女性に搾取された農夫・小地主と商人み移りました。中央の女性が最終搾取者のカソリック教会です。ワインを注いでいるのが聖職者です。この絵を買ったり飾ったりしているのは、フランシスコ会信者やプロテスタントのお金持ち(商人や地主)です。「ローヌ公は頼りにならない。お金はカソリック教会と聖職者に吸い上げられている。」とこの絵は風刺しています。いかさま師は「分かるかな?分からねーだろうな。」と言っているのです。この絵を飾る人は、この風刺にニヤニヤしていたのでしょう。
ダイヤのエースを持ついかさま師
(ジョルジュ・ド・ラ・トゥール、1636~38年作)
クラブのエースを持ついかさま師
(ジョルジュ・ド・ラ・トゥール、1630~34年作、キンベル美術館蔵)

トランプ詐欺師
(ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ、1594年作、キンベル美術館蔵)

女占い師
(ジョルジュ・ド・ラ・トゥール、1632~35年作、メトロポリタン美術館蔵)

 2012年7月にルーヴル美術館(パリ)を訪問しました。今回は、ジュルジュ・ド・ラ・トゥール作「大工の聖ヨセフ」を紹介します。
 ジュルジュ・ド・ラ・トゥール(1593~1652年)は、ロレーヌ公国(現在のフランス・ロレーヌ地方)の小さな町(ヴィック・シュル・セーユ)のパン屋の家に生まれた。1617年(24歳)に同じくロレーヌ公国のやや大きい街(リュネヴィル)に移住し、1620年(27歳)には弟子をとっていたようです。1639年(46歳)にパリへ出て、その後ルイ13世から「国王付き画家」の称号を得た。その後リュネヴィルに戻り、1852年に伝染病(ペスト?)で家族諸共亡くなった。
 あくせくと有力者に取り入った/税の支払いを拒んだ/強欲などの悪口が、記録に残っています。彼は同じ画題・構図の作品を複数描いています。注文主の希望に従ったものだと思うが、それが金儲け主義に思えたのではないか。当時はバロック全盛であったが、地方では個性的な画家が居たようです。18世紀に入るとラ・トゥールの名前は忘れられました。彼の作品も、スペイン画家によるものと誤解されていました。1934年パリで「実在した画家」展が開かれて、ラ・トゥールの画業が注目されました。暗闇の中の蝋燭の炎を描かせたらラ・トゥールの右に出る画家は居ないと思います。「マグダラのマリア」と名付けられた作品をご記憶の方も多いと思います。ラ・トゥールがどのようにしてその領域に到達したのか興味が湧きます。
 17世紀フランシスコ会の隆盛で、聖ヨセフへの信仰が高まりました。ロレーヌ公国でも盛り上がったようです。幼いキリストと大工の聖ヨセフが、夜なべ仕事をしています。幼いキリストが明かりで、聖ヨセフの手元を照らしています。幼いキリストの表情はあくまでもあどけなく聖ヨセフを見ています。聖ヨセフも手元を見ているような、キリストの顔を見ているような。暗闇の中で、絶妙な一体感を醸し出しています。あくなでも静かな気配です。
大工の聖ヨセフ(ジョルジュ・ド・ラ・トゥール、1642年作)


 2012年7月にルーヴル美術館(パリ)を訪問しました。今回は、ジャン・オノレ・フラゴナール作「水浴の女たち」を紹介します。
 ジャン・オノレ・フラゴナール(1732~1806年)はロココ期のフランス人画家です。典型的なロココ調作品の「ブランコ(1768年作)」とロココ調とは思えない「読書する少女(ワシント ナショナル・ギャラリー所蔵)」をご覧になった方も多いと思います。
 ジャン・オノレ・フラゴナールは南仏 カンヌ近くのグラースで皮手袋製造業を営むイタリア系の家庭に生まれました。1738年に家族と一緒にパリに出ました。その後、シャルダンとブーシュに短期間師事しました。20歳でローマ賞1等を受賞して、ローマ留学の権利を得ました。
 1753年~56年の間王立特待生学校に通学して、歴史画などを学びました。1756年にローマに行き、5年間滞在(留学)しました。1761年にパリに戻り、制作活動を続けました。1765年アカデミー入会記念作品が絶賛を浴びました。1773年~75年の間、再びイタリアを旅行しました。1789年フランス革命でロココ調は下火となりました。1793年美術管理委員会メンバーに選ばれました。1800年にはルーヴル美術館の収蔵品管理担当になり、ルーヴル美術館内に居住しました。1805年には政変でルーヴル美術館から追い出され、失意の中に亡くなりました。
 ジャン・オノレ・フラゴナールは比較的全面を誠実に描く画家です。他の作品を見れば感じると思います。「水浴する女たち」は、非常にラフな描き方です。特に上半分は殴り描きです。女たちは、少女・幼女に見えます。何かの事情で、即興に描いたのでしょうか?「宴席が終わるまでに描き上げろ。」という事になって、前方を描いた。遠景を描く時間が無くなり、大急ぎで描き上げたとか。
水浴の女たち(ジャン・オノレ・フラゴナール、1765~72年作)
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読書する娘
(ジャン・オノレ・フラゴナール、1775年作、ワシントン・ナショナルギャラリー蔵)

ブランコ
(ジャン・オノレ・フラゴナール、1768年頃作、ウォーレス・コレクション蔵)

2012年7月にルーヴル美術館(パリ)を訪問しました。今回は、ジャック=ルイ・ダヴィッド作「サビニの女たち」を紹介します。
 ジャック=ルイ・ダヴィッド(1748~1825年)は、パリの商人の家に生まれました。ジャックが9歳の時、父が決闘で亡くなりました。親戚筋の画家だったフランソワ・ブーシュの紹介で、ジョゼフ=マリー・ヴィアンに師事しました。10年以上の修行を経て、1774年(26歳)に「アンティオコスとストラトニケ」という作品で、ローマ賞を勝ち取りました。「ローマ賞」は、ルイ14世が定めたフランス国家の奨学金付き留学制度です。1775年から1780年までイタリアに留学して、古典を研究しました。帰国後の1784年にルイ16世から注文を受けた「ホラティウス兄弟の誓い」を、サロンに展示して絶賛を浴びました。1789年にフランス革命が起こりました。それの切っ掛けのひとつとなった、第三身分(平民)議員が集まって憲法制定まで解散しない誓いをした事件を描きました。フランス革命後ダヴィッドは、1792年に国民議員に選出されました。フランス革命に指導的役割を果たしたマラーが殺害されたことから、「マラーの死」を描きました。1794年からロベスピエールに協力して、一時期国民公会議長(立法府の議長)を務めたが、ロベスピエール失脚後ダヴィッドは投獄されました。ナポレオンにその画力を見込まれ、1800年にレカミエ夫人を愛人にするための(求愛のしるしとして)贈り物「レカミエ夫人の肖像画」の作成をダヴィッドは依頼されました。その後ナポレオンの庇護を受けて復活してナポレオンの主席画家となり、1808年にはナイトの爵位も授かりました。ナポレオン失脚後、1816年にダヴィッドはブリュッセルに亡命しました。亡命後も画作を続けました。ダヴィッドはその画才・画力が故に、時の権力者たちに次々と重用されました。本人も政治に興味を持ち、立法府の議長にまで就きました。時の権力者が失脚しても次の権力者から重用されたが、ナポレオン失脚後は駄目でした。生きているうちに、フランスには戻れませんでした。フランス革命後、旧主に当たるルイ16世の斬首に賛成票を投じたのが問題視されたようです。18世紀随一の画力を誇ったダヴィッドも、異国の地で果てました。
 「サビニの女たち」はダヴィッドがリュクサンブール宮殿に収監中に構想を纏めました。ローマ建国の王ロームルスたちは、サビニ人の女たちを略奪しました。サビニ王の娘もロームルスの妻となりました。サビニ人たちはローマに戦いを挑み、父親のサビニ王も参戦しました。いよいよ、サビニ王の軍とロームルスの軍が戦いました。そこでヘルシアが乳飲み子を連れて、父親と夫の間に割って入りました。これがきっかけでサビニ人とローマが休戦・和解しました。サビニ王とロームルスが二人の王として共立しました。フランス革命で疲弊した人々が和解することを願って描いたようです。
サビニの女たち(ジャック=ルイ・ダヴィッド、1799年作)

ナポレオン皇帝妃ジョセフィーヌの戴冠式(ジャック=ルイ・ダヴィッド作)
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マラーの死(ジャック=ルイ・ダヴィッド作)
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