世界美術館巡り旅

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2024年06月

 2012年7月にルーヴル美術館(パリ)を訪問しました。今回は、フラ・アンジェリコ作「聖母の戴冠の祭壇画」を紹介します。
 フラ・アンジェリコ(1390年頃~1455年)は、フィレンツェ北方のヴィッキオのルペカニーニャで生まれました。本名は、グィード・ディ・ピエトロと考えられています。「フラ・アンジェリコ」とは「天使のような修道士」の意味の通称です。1408~18年の間、コルトーナのドミニコ修道院に滞在し、ゲラルド・スタルニーナの手伝い・弟子をしていたようです。1417年にカルメル修道会の信心会に入信し、画家で生計をたてていたようです。1436年に他の画家と共にサン・マルコ修道院に移り、コジモ・ディ・メディチに優遇されたようです。その後名声が広がり、ローマ・ヴァチカンにも招かれました。
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聖母の戴冠の祭壇画」はナポレオンがフランスに持ち帰った祭壇画です。素性が良く分かっていなくて、記録の残る1434~5年の作品に当てられています。絵の具の発色や構成完成度も技量も非常に高く、もう少し後の1450年頃の作品との説もあります。私の眼からも、1435年頃の作品にしては完成度が高すぎます。1450年頃作の説を信じます。それにしても、青とピンクの発色が当時として素晴らしいです。
聖母の戴冠の祭壇画(フラ・アンジェリコ、伝1434~5年作)


 2017年6月にエクス・アン・プロヴァンスに在るグラネ美術館を鑑賞後、別館のチャペル・グラネも鑑賞しました。今回は、フェルナン・レジェ作「赤い壺」を紹介します。
 フェルナン・レジェ(1881~1955年)は、フランス ノルマンディー地方内陸部で畜産農家の息子に生まれました。1897年からカーンの建築家のスタジオで修業しました。1900年パリに出て建築製図の仕事をしながら、装飾美術学校やアカデミー・ジュリアンに通いました。当初は印象派風の風景画や人物画を描いていたようです。1907年セザンヌ回顧展で刺激を受け、キュビズムに参加するようになりました。セザンヌの唱えた「自然を円錐、円筒、球として捉える」に共感して作品を描きましたが、「チュビスム(土管屋)」と揶揄されました。1910年画商のカーン・ワイラーに認められ仕事が増えました。1914~17年の間第一次世界大戦に従軍しました。その後舞台装飾や壁画にも活躍の場を広げました。第二次世界大戦がはじまると1940年に渡米し、終戦後の1945年に帰国しました。フランスで1955年に亡くなりました。
 レジェは建築製図をしていた影響を受けているように感じます。製図版とT定規を使って描くと、こんな感じになると思います。
赤い壺(フェルナン・レジェ、1926年作、オルセー美術館から借用・展示)
赤いポット レジェ
薔薇とコンパスと穀物(フェルナン・レジェ作)
rose-compas-crop reje

 2017年6月にエクス・アン・プロヴァンスに在るグラネ美術館を鑑賞後、別館のチャペル・グラネも鑑賞しました。今回は、パブロ・ピカソ作「」を紹介します。
 パブロ・ピカソ(1881~1973年)はスペイン アンダルシア地方のマラガ市で、美術教師・画家の息子に生まれました。8歳で油絵を描き始め、1897年に(16歳で)王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学しました。病気もしたためか翌年退学してバルセロナに戻りました。個展を開いたり、パリとバルセロナを行き来しました。1904年(23歳)からモンマルトルに移住しました。歳とともに画風が大きく変わり、青青の時代、バラ色の時代、アフリカ彫刻の時代、キュビズムの時代などと呼ばれています。晩年は陶磁器の絵付けにものめり込みました。有名画家のパロディーにも興味をひかれた時代もあったようです。
 パブロ・ピカソが「バルコニーの女」を描いたのは、代表作とされる「ゲルニカ」や「泣く女」と同じ年です。パブロ・ピカソの画風が替わり、アフリカ芸術の影響→前半のキュビズム→シュウレアリスムから変化(戻った?)したタイミングの年です。キュビズムは複数の視点のフォルムを重ね合わせたと言うのが通説です。それならばパブロ・ピカソは新規性・斬新性を追及して、珍奇な絵を描いたことになります。パブロ・ピカソを馬鹿にした説です。パブロ・ピカソの習作(デッサン)を見ると、私には「ピカソは一枚の絵画に時間(動画)を取り込もうとした。」と思えます。「泣く女」が一番感じるのですが、泣く女が時間と共に表情が変わります。複数の表情や動作を重ね合わせると、作品のような絵画になると思えます。読者の方は、どう感じるでしょうか?
バルコニーの女(パブロ・ピカソ、1937年作、オルセー美術館から借用・展示)
バルコニーの女-picasso[1]
救助(パブロ・ピカソ作)
picasso-救助
女とパイプの男(パブロ・ピカソ作)
Picasso  女とパイプの男
女性の肖像(パブロ・ピカソ作)
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ピカソの作品の前で
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泣く女(パブロ・ピカソ、1937年作、テート・モダン蔵)
File:Picasso The Weeping Woman Tate identifier T05010 10.jpg
ゲルニカ(パブロ・ピカソ、1937年作、ソフィア王妃芸術センター蔵)

 2017年6月にエクス・アン・プロヴァンスに在るグラネ美術館の鑑賞後、別館のチャペル・グラネにも行きました。今回は、「ル・カネの階段」を紹介します。
 ピエール・ボナール(1867~1947年)はパリ近郊で、陸軍省役人の息子に生まれました。大学法学部に通い、1888年に弁護士資格を得ました。アカデミー・ジュリアンにも通い、後にナビ派となる友人たちと活動しました。1889年に官立のエコール・デ・ボザールに入学しました。1893年に妻マルトと出会い結婚しました。裸婦のモデルは彼女が務めました。1908年作の「逆光の裸婦」がボナールの最高傑作だと思います。晩年の画風は白っぽくてぼやけています。白内障の影響かと思います。
 「カネの階段」はボナールが晩年住んだ、フランス南東部カンヌの北方の保養地ル・カネで描いた作品です。ボンヤリとしか描かれていませんが、坂道(階段)に犬を連れた少年が歩いているようです。目の前の光景と少年時代の記憶が交錯しているのでしょうか?
カネの階段(ピエール・ボナール、1946年作)
bonnard-カンネの階段

 2017年6月にエクス・アン・プロヴァンスに在るグラネ美術館を鑑賞した後、別館に当たるチャペル・グラネを訪問しました。今回は、ヴィンセント・ファン・ゴッホ作「様々な色のグラジオラスの花束」を紹介します。
 ヴィンセント・ファン・ゴッホ(1853~1890年)はオランダ南部の牧師の息子に生まれました。16歳から画商のグーピル商会に勤めましたが、23歳で解雇されました。書店で働いたりしたが、聖職者を目指すことにしました。アムステルダムの神学部への受験勉強で挫折。25歳で見習い伝道活動中に画家を目指すことに方針転換しました。グーピル商会に勤めていた弟のテオの支援で絵を描きましたが、やがてパリの弟のアパートに転がり込みました。同居に対して弟のテオが愚痴るようになり、1888年に(35歳で)アルルに移りました。画家のコロニーを作りたいとポール・ゴーギャンを招きましたが上手く行かず、喧嘩別れしました。挫折して、自分の耳を切る騒ぎを起こしました。
 ゴッホの作品の間では、最も縦長な作品です。1886年の作と言われているので、パリ時代に描いたと思われます。この頃は、浮世絵に興味を惹かれていたようです。この縦長は、浮世絵や掛け軸にヒントを得たと思われます。背景を暗くして、グラジオラスを明るく描いています。ゴッホらしい絵の具を筆で引きずるような描き方です。ゴッホの作品の間で、ユニークな作品です。
様々な色のグラジオラスの花束(ヴィンセント・ファン・ゴッホ、1886年作)

様々な色のグラジオラスの花束の前で
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