世界美術館巡り旅

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2024年05月

 2017年6月にプティ・パレ(アヴィニョン/南フランス)を訪問しました。今回は、パオロ・ヴェネツァーノ作「聖母子像」を紹介します。
 パオロ・ヴェネツァーノ(1300年頃~1365年)は芸術家一族に生まれました。息子たちと共同で作品を描きました。ドージェ・アンドレア・ダンドロの公式画家となりました。ルネッサンス期より古い、国際ゴシック派に分類される画家です。多くの祭壇画を描きました。
聖母子像(パオロ・ヴェネツァーノ作)
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聖母子(パオロ・ヴェネツァーノ、1354年作、ルーヴル美術館蔵)

バーリの聖ニコラスの二つの物語
(パオロ・ヴェネツァーノ、1346年頃作、ウフィツィ美術館蔵)

サンタ・キアラの多翼祭壇画
(パオロ・ヴェネツァーノ、1350年頃作、アカデミア美術館蔵)

同上の中央パネル
聖母子の戴冠(パオロ・ヴェネツァーノ、1354年作)

 コジモ・ロッセリ(1439~1506年以降)はフィレンツェで、画家一族に生まれました。14歳でフィレンツェの画家ネーリ・ディ・ビッチの工房に入りました。主に教会の装飾画を描きました。1480年にローマ教皇シクストゥス4世にフィレンツェの画家と共に招かれました。バチカンのシスティーナ礼拝堂の壁画装飾に参画しました。1482年にフィレンツェに戻りました。弟子には、ピェロ・ディ・コジモ、フラ・バルトロメオなどがいました。作品をいくつか紹介します。
最期の晩餐(コジモ・ロッセリ、1481年頃作、システーナ礼拝堂蔵)
山上の説教(コジモ・ロッセリ、1481年頃作、システーナ礼拝堂蔵)
十字架降架(コジモ・ロッセリ作、ボストン美術館蔵)
聖母戴冠(コジモ・ロッセリ作、マリア・マッダレーナ・ディ・パッツィ教会蔵)
聖母子(コジモ・ロッセリ作)

 2017年6月にアングラドン美術館(アヴィニョン/南フランス)を訪問しました。今回は、ポール・セザンヌ作「石器の壺のある静物画」を紹介します。
 ポール・セザンヌ(1839~1906年)はエクス・アン・プロヴァンスの銀行家の息子に生まれました。1861年に画家を目指してパリに出てサロン出品をしましたが、落選し続けました。1879年にエクス・アン・プロヴァンスに戻り、絵を描き続けました。1895年にパリで個展を開き成功しました。1906年に肺炎で亡くなりました。
 ポール・セザンヌは素描学校に通った程度で、官立美術学校には入学させてもらえませんでした。父親が資産家で、生活費には困りませんでした。サロンには落選を続け、印象派展でも評論家の批評は厳しいものでした。印象派グループでも人間関係が上手くいかず、故郷に帰って画作を続けました。要するにアマチュア画家で、自己流の絵を描き続けました。デッサンが正しくなく人物は歪み、静物や風景画も歪んでいました。ただそれが独自の味わいを醸し出し、画家仲間や批評家から評価されました。アンリ・ルソーと同じで、アマチュアで描き続けると徐々に認められたようです。
 本作品でも、夫々の形状の視点がバラバラです。例えば、壺やグラスの口の部分はかなり上から見ていますが、側面は真横近くから見た形状です。果物の視点も、夫々でバラバラです。美術学校だったら
教授から、デッサンが正しくないと指摘されます。そのことを全然気にしないで描き続けると、セザンヌの個性・独創性と評価されます。視点がバラバラなのは、キュビズムの先駆けだったと言われてしまいます。絵画芸術の評価の物差しに「創作性・独創性」があります。それのためか、独創的で不思議な雰囲気を醸し出しています。
石器の壺のある静物画(ポール・セザンヌ、1874年作)
予想より立派な大きさで、記念写真を撮りました。
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 2017年6月にアングラドン美術館(アヴィニョン/南フランス)を訪問しました。今回は、アメデオ・モディリアーノ作「ピンクのブラウス」を紹介します。
 アメデオ・モディリアーニ(1884~1920年)は(フランス)トスカーナ地方で、林業と銀鉱山業を営むユダヤ系イタリア人夫婦の末子として生まれました。生まれた年に、父親の事業は倒産してしまいました。父親は旅行がちで、祖父と母親に育てられました。1898年(14歳)に風景画家のアトリエでデッサンの指導を受け始めました。1900年(16歳)で結核に冒され、翌年転地療養のためイタリア各地を旅行しました。1902年にフィレンツェの裸体画教室で学び、1903年にはヴェネツィアの美術学校に入りました。1906年にパリのアカデミー・コラロッジに入学しました。モンマルトルにアトリエを借り、ピカソ/ギョーム/ドラン/リベラの知己を得ました。1907年セザンヌを知り衝撃を受け、サロン・デ・サンデバンに入会しました。
 1909年にモンパルナスに移り、彫刻に没頭しました。1914年に画商のポール・ギョームと知り合い、説得されて絵画に専念することになりました。この頃、スーティン/藤田嗣治/ユトリロとも親交を持ちました。1916年ポーランド人画商レオポルド・ズポロフスキーの専属契約を結び、生活費を得ました。1918年にニースで結核の療養に行きましたがその後パリに戻り、1920年に結核性髄膜炎で亡くなりました。同棲していた女性画家のジャンヌ・エビュテルヌは親に引き取られましたが、翌日に自殺してしまったようです。モディリアーニのせいで死んだと、親は別の墓地に埋葬したようです。10年後にやっと許されて、モディリアーニの墓の隣に再埋葬されたとの事です。大変な人生ですネ。
 「ピンクのブラウス」は亡くなる数か月前に描かれました。画家は結核で、自分の死が近いことを悟っていたと思われます。亡くなる前はカフェの客の似顔絵を描き、客に売りつけて酒代を稼ぐ。そのお金で飲んだくれるという生活だったようです。愛人のジャンヌ・エビュテルヌは妊娠・出産していて、大変だったようです。式を悟り荒んだ生活のモディリアーニが、こんな明るいノー天気な女性を描いたのでしょうか?
ピンクのブラウス(アメデオ・モディリアーニ、1920年作)
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「ピンクの服の少女」と記念撮影
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 2017年6月にリヨン美術館(リヨン)を訪問しました。今回は、テオドール・シャセリオー作「オリーブ園のキリスト」を紹介します。
 テオドール・シャセリオー(1819~1856年)は、ロマン主義のフランス人画家です。37歳の若さで亡くなった、早世の画家でした。少し前に日本でシャセリオーの作品を集めて、特別展が開催されました。それでご存知の方も多いと思います。テオドール・シャセリオーはカリブ海のフランス植民地イスパニョーラ島で生まれました。父親は植民地の行政職、母親は地元の地主でした。1821年に家族はパリへ移りました。1830年わずか11歳でアングルのアトリエに入るのを認められました。アングル自慢の弟子だったようで、「この子は将来絵画のナポレオンになる。」とアングルが公言していたと伝わります。1834年にアングルがパリを離れると、徐々に(ロマン主義の)ドラクロワの影響を受けました。1836年に(17歳で)サロン初出品すると、第3席に選ばれました。アングルは面白くなかったようで、1840年にローマでアングルと会った際、師弟関係を解消されました。1846年にアルジェリア旅行すると、オリエンタル画風も加えました。1856年に(37歳で)病気のため、パリで亡くなりました。
 内務省からの依頼で描き、1840年のサロンに出品したのが「オリーブ園のキリスト」です。オリーブ山のゲッセネマで祈るキリストに、3人の天使が現れました。二人それぞれが十字架/聖杯を持ち、残りの一人が手を組んで瞑想しました。キリストは受難の(犠牲の)時が来たことを悟りました。聖書の場面を、シャセリオーは神々しく描きました。
オリーブ園のキリスト(テオドール・シャセリオー作)



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