世界美術館巡り旅

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2024年04月

 2012年7月 パリ プティ・パレを訪問しました。今回は、フェリックス・ヴァロットン作「花束を持つ婦人」を紹介します。
 フェリックス・ヴァロットン(1865~1925年)はスイスのローザンヌ地方で、保守的な中流家庭に生まれました。ローザンヌ・カニトナル大学を中退してパリに行き、1883年に(18歳で)アカデミー・ジュリアンに通い始め、ルーヴル美術館に通ってホルバイン/デューラー/アングル(三人とも優れたデッサン力を発揮)に魅せられたようです。1893年のアンデバンダン(無審査)展に出展したが、酷評が多かったようです。1897年から本格的にナビ派に参加して、ルヴェ・ブランショ誌の載せた木版画が大好評を呼びました。浮世絵の影響を受けた画風でした。
 「花束を持つ婦人」は1922年のサロン・ドートンヌに出品された作品です。アカデミー主催のサロンに対して、反サロン的な活動がサロン・ドートンヌです。秋のサロンという意味でしょうか。この作品には華やかさがなく、強い主題もなさそうです。淡々とした地味な作品です。ヴァロットンは象徴的な意味深な物事を描き込みます。穿った見方をすると左上の風景画は、夫が旅に出ている象徴なのでしょうか。夫人は物憂げな感じで、花を活けています。夫不在の寂しい室内を描いたのでしょうか?
花束を持つ婦人(フェリックス・ヴァロットン、1922年作)
ブーケを持つ若い女性 バロットン

 2012年7月 パリ プティ・パレを訪問しました。今回は、ピエール・ボナール作「アルカションでの会話」を紹介します。
 ピエール・ボナール(1867~1947年)はパリ郊外で、陸軍省役人の息子に生まれました。1887年に大学法学部入学して、1888年に弁護士資格を得ました。アカデミー・ジュリアン(美術の予備校)にも通い、1889年にエコール・デ・ボザール(官立美術学校)に入学しました。後に妻となるマルトと出会い、彼女をモデルに多くの作品を描きました。
 「アルカションでの会話」の裏面には1926年の記述があります。1926年の出来事をスケッチと記憶で描いたと思われます。手前の人物はおぼろげに描かれ、力を入れて描かれているのは、海と空の遠景のようです。平面的に描かれ、浮世絵を参考に描いたようです。葛飾北斎の「富岳三十六景」の手前画題の遥か向こうに富士山が描かれているのを意識したのでしょうか。
アルカションでの会話(ピエール・ボナール、1926~30年作)
会話 ボナール

 2012年7月 パリ プティ・パレを訪問しました。今回は、ジェームス・ティソ作「放蕩息子の出発」を紹介します。
 ジェームズ・ティソ(1836~1902年)はフランス西部ナントで生まれました。その後パリに出て、2~3人の画家に弟子入りしました。1859年に(23歳で)サロンに初入選しました。パリ・コミューン参加後ロンドンに渡りました。約10年間の滞在後パリに戻りました。1885年(49歳)サロン出品の「パリの女」が大好評で、流行画家となりました。思いつめるたちのようで、信仰上の悩みからパレスチナに渡り、約10年間の滞在後パリに戻りました。帰国後フランス東部ドゥー県の修道院で聖書の挿絵製作に励み、その地で亡くなくなりました。
 放蕩息子の出発・帰還については1862年頃から構想して、習作やスケッチも残っているようです。本作品は中世のヴェネツィアを舞台に描いています。フレスコ画を意識して、淡い色調に描いたのでしょうか?そちらはパリ・コミューンに参加して、ロンドンに一時移住する出発を意識しているのでしょうか?1880年には現代に時代を移して、再度描いています。「放蕩息子の帰還」も、ロンドン滞在中に描いたようです。
放蕩息子の出発(ジェームス・ティソ、1862年作)
ティソ、放蕩息子の出発、PDUT1453
現代生活における放蕩息子の出発1880(ジェームス・ティソ作)
The Prodigal Son In Modern Life The Departure 1880
放蕩息子の帰還(ジェームス・ティソ、1886~94年作、ブルックリン美術館蔵)
ファイル:Brooklyn Museum - The Return of the Prodigal Son (Le retour de l'enfant prodigue) - James Tissot.jpg

 2012年7月 パリ プティ・パレを訪問しました。今回は、エドゥアール・マネ作「テオドール・デュレーの肖像」を紹介します。
 エドゥアール・マネ(1832~1883年)はパリで、裕福な家庭に生まれました。父親は法律家になってくれることを希望していましたが、伯父の影響か本人は芸術家になること希望していました。海軍兵学校入学試験を2回失敗して、父親も芸術家になることを認めました。トマ・クチュールに師事し、ヨーロッパじゅうを旅行して傑作の模写に励みました。1859年以降サロン・ド・パリに応募して、1861年に初入選しました。1863年に開かれたナポレオン三世肝いりの「落選展」に「草上の昼食」を出品して、裸婦を描いたことに非難ゴウゴウでした。1865年に「オランピア」を出品して、娼婦を描いたと非難を浴びました。スペイン旅行でベラスケス作品に刺激を受け「笛を吹く少年」を描き、出品しましたが落選しました。印象派画家と交流をしましたが、サロン入選を目指し続けました。
 テオドール・デュレはジャーナリスト兼美術評論家で、熱心な共和制派でした。マネ、クールベ、印象派画家と親交を重ねました。浮世絵や印象派作品の収集も熱心でした。描かれた備品などを見ると、講演会の直前か直後なんでしょうか?
テオドール・デュレの肖像(エドゥアール・マネ、1868年作)
テオドール・でゅれーの肖像 マネ

 2012年7月 パリ プティ・パレを訪問しました。今回は、アルフレッド・シスレー作「モレーの教会」を紹介します。
 アルフレッド・シスレー(1839~1899年)はパリで、裕福なイギリス人貿易商夫婦の間に生まれました。1857年に(18歳で)ロンドンに渡り、叔父の下でビジネスを学びましだ。ロンドンでターナーやコンスタンブルの絵画を見て、影響を受けました。1861年(22歳)にパリへ戻り、ガブリエル・グレールのアトリエで学び、モネ、ルノアールと知り合いました。色彩豊かで大胆な風景画を描きましたが、なかなかサロンに入選しませんでした。
 1868年(29歳)のサロンに入選したが、評価されませんでした。1870年普仏戦争で家・財産を失い、翌年父親も破産して生活に困窮しました。1871年(32歳)にパリ郊外に移住しました。1874年の第一回印象派展(無審査)に出品しました。1875年には、モネ、ルノアール、モリゾーとともに即売会を開きました。その後ロンドンとパリを行き来しました。1898年(59歳)にフランス市民権を得ようとしましたが、病気を理由に却下された。1899年に喉頭癌で亡くなりました。シスレーは一貫して屋外で風景を描き続けました。印象派の原点(屋外で絵を描こう)からブレなかった画家です。
  1889年にモレ=シュル=ロワンに移住しました。1893年からモレ=シュル=ロワンのノートルダム教会を連作で14点描きました。本作品はその中の一枚です。少しモネの作品から影響を受けたのでしょうか?
モレの教会(アルフレッド・シスレー、1894年作)

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