世界美術館巡り旅

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2024年03月

 2015年4月にマルモッタン美術館(パリ)を訪問しました。ポール・ゴーギャン作「花の花束」を紹介します。
 ポール・ゴーギャン(1848~1903年)はパリでジャーナリストの息子に生まれました。ナポレオン三世のクーデターでパリを逃れ、母親の親戚を頼ってペルーに向かいました。父親が航海中に亡くなりました。7歳までリマで育ち、その後父方の親戚を頼ってオルレアンに移住しました。商船の水先案内見習い、兵役を務め、1871年からパリ証券取引所の仲買人と絵の仲買を始めました。1873年から絵を描き始めました。1882年の株暴落で収入が減りルーアンに移住、更に妻と家族はコペンハーゲンに移住しました。その後はポンタヴェン、タヒチと流れ住み、妻や家族から見放される生活でした。他人を批判したり、対立したりで、困った性格だったようです。
 1887年にパナマに友人と行き、(フランス植民地)マルティニーク滞在中に破産、パリへの帰国を要請されました。これを抜け出してマルティニークに滞在し続け、いくつかの作品を描きました。パリ帰国後グーピル商会のゴッホの弟のテオに評価され、買い上げられました。その後批評家から酷評を受けてパリに居づらくなり、1891年からタヒチに移住しました。一旦パリに戻ったが、1895年から再びタヒチに移住した。1898年頃に画商を替えることになり、条件が良くなって生活が安定しました。1898年に代表作(大作)の「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を描きました。ゴーギャンの作品で見たような部分を合体して、大画面に描いたようです。パリで画商が売りに出しましたが評価は賛否両論で、売り払うのに2~3年掛かったようです。
 ゴーギャン作品というとタヒチでの作品がよく知られていますが、静物画の方が魅力を感じます。何故かは難しいのですが、ゴーギャン独特の画風にあります。浮世絵の影響ではないかと思いますが、青色が輪郭のように感じます。更に平面的、装飾的です。
花の花束(ポール・ゴーギャン、1897年作)
ゴーギャン作 花のブーケ

 2012年7月にオランジェリー美術館を訪問しました。今回は、アメデオ・モディリアーニ作「新しき水先案内人ポール・ギョームの肖像」を紹介します。
 アメデオ・モディリアーニ(1884~1920年)は(フランス)トスカーナ地方に、林業と銀鉱山業を営むユダヤ系イタリア人夫婦の末子として生まれました。生まれた年に、父親の事業は倒産してしまいました。父親は旅行がちで、祖父と母親に育てられました。1898年(14歳)に風景画家のアトリエでデッサンの指導を受け始めました。1900年(16歳)で結核に冒され、翌年転地療養のためイタリア各地を旅行しました。1902年にフィレンツェの裸体画教室で学び、1903年にはヴェネツィアの美術学校に入りました。1906年にパリのアカデミー・コラロッジに入学しました。モンマルトルにアトリエを借り、ピカソ/ギョーム/ドラン/リベラの知己を得ました。1907年セザンヌを知り衝撃を受け、サロン・デ・サンデバンに入会しました。
 1909年にモンパルナスに移り、彫刻に没頭しました。1914年に画商のポール・ギョームと知り合い、説得されて絵画に専念することになりました。この頃、スーティン/藤田嗣治/ユトリロとも親交を持ちました。1916年ポーランド人画商レオポルド・ズポロフスキーの専属契約を結び、生活費を得ました。1918年にニースで結核の療養に行きましたが、1920年に結核性髄膜炎で亡くなりました。同棲していた女性画家のジャンヌ・エビュテルヌは親に引き取られましたが、翌日に自殺してしまったようです。モディリアーニのせいで死んだと、親は別の墓地に埋葬したようです。10年後にやっと許されて、モディリアーニの墓の隣に再埋葬されたとの事です。大変な人生ですネ。年代順に作品を紹介します。
 画商のポール・ギョームは色々な画家の才能を見出し、支援・助言をしたようです。モディリアーニの進むべき道を示したポール・ギョームを描いたのでしょう。
新しき水先案内人ポール・ギョームの肖像(モディリアーニ、1915年頃作)

ポール・ギョームの肖像(1916年作)

画商のポール・ギョームを描いた作品です。同じ人物の別の肖像画(ドンゲン作)も所蔵しています。比較すると、ドンゲンの作品がオーソドックスに見えてしまいます。
ポール・ギョームの肖像(ドンゲン作)
ポール・ギョームの肖像 ドンゲン

 2012年7月にオランジェリー美術館を訪問しました。今回は、クロード・モネ作「『睡蓮』大装飾画」を紹介します。
 クロード・モネ(1840~1926年)はパリで生まれ、5歳ころからノルマンディー地方ル・アーヴルで過ごしました。18歳のころブーダンと出会い、屋外での写生を勧められました。1859年に(19歳で)パリに出て、画塾に通いました。1865年にサロン・ド・パリに初入選しました。カミーユと同棲を始め長男も生まれましたが、父親は結婚を認めませんでした。1870年に普仏戦争を避け、ロンドンに移りました。その後パリに戻って、近郊にアトリエを構えました。1874年の落選展(後に第一回印象派展と位置付けられた)にこの「印象・日の出」を出品して、好評を得ました。晩年ジヴェルニーに自宅兼アトリエを構えました。自宅から道の向こう側にも土地を購入して、池と庭園を造りました。その池で睡蓮を栽培して、睡蓮を描き続けました。オランジェリー美術館では、シリーズの大作を所蔵・展示しています。 
「睡蓮」大装飾画(クロード・モネ作)展示の様子
Panorama_Interior_of_Musée_de_l'Orangerie_2
日没(クロード・モネ作)

雲(クロード・モネ作)
緑の反射(クロード・モネ作)

朝(クロード・モネ作)

樹木の反射(クロード・モネ作)

朝の柳(クロード・モネ作)

二本の柳(クロード・モネ作)

明るい朝の柳(クロード・モネ作)

 2012年7月 ポンピドー芸術文化センター(国立近代美術館)を訪問しました。今回は、ジャン・ディビュッフェ作「ジャズ・バンド」を紹介します。
 ジャン・ディビュッフェ(1901~1985年)はセーヌ川河口のル・アーヴルでワイン卸商の家に生まれました。1908年に(7歳で)リセ・フランソワー1世校に入学しました。16歳で文学に目覚めましたが、ル・アーヴル美術学校夜間授業にも通っていました。1918年に(17歳で)国際バカロレア 二次試験に合格し、法律を学ぶという建前でパリに行きました。私塾美術学校のアカデミー・ジュリアンに通い、1921年アンドレ・マッソンに出会い、アトリエに出入りしました。1929年に(28歳で)独力で自分のワイン会社を設立しました。趣味で絵画を続け、1933年にアトリエを借りました。1942年に会社の経営を友人に譲りました。そこからは絵画にのめり込み、画商に薦められて個展を開きました。反響が大きく全ての作品に売却予約が入りましたが、否定的な評価も多くありました。その後も自分の流儀を貫き、前衛的な絵を描き続けました。精神病者の描く絵に人間の本質が現れると各地の精神病棟にも通ったようです。
 「大ジャズ・バンド(ニューオーリンズ)」という作品があり、それの背景は赤でした。他に「ジャズ・バンド」という作品がいくつかあるようです。
ジャズ・バンド(ジャン・ディビュッフェ作)
ジャズ・バンド デュブッフェ

 2012年7月 ポンピドー芸術文化センター(国立近代美術館)を訪問しました。今回は、サルヴァドール・ダリ作「ピアノのレニー二の六つのイメージ」を紹介します。
 サルヴァドール・ダリ(1904~1989年)はスペイン カタルーニャ地方フィゲーラスで公証人の息子に生まれました。1922年にマドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学しましたが、翌年退学となりました。1927年にパリに出て、キュビズムやシューレアリスムの人々と交流しました。1929年にシューレアリストのグループに入りましたが、間もなく脱会しました。第二次世界大戦中はアメリカに移住、終戦後帰国しました。
 シュールレアリストには共産主義やレーニン崇拝者が多く、ダリも無関心では居られなかったようです。結局シューレアリストの人々のグループから距離を取りました。
 1929年夏にシューレアリスム詩人のポール・エリュアールとその妻ガラが、スペイン カダケスのダリを訪問しました。エリュアール夫妻は関係か破綻していて、結局1932年に離婚しました。1934年初頭には、ダリはガラを入籍しました。ダリはシューレアリストムを遠ざけて、ガラを選ぶ決心を固めた時期に描かれた作品と思われます。ダリはレーニンの幻影が現れても、さくらんぼう(ガラとの恋愛)を選ぶ事を描いたようです。
ピアノの上に出現したレーニンの六つの幻影(サルヴァドール・ダリ、1931年作)
サルヴァドール・ダリ ピアノのレニーニの六つのイメージ

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