2015年4月にマルモッタン美術館(パリ)を訪問しました。ポール・ゴーギャン作「花の花束」を紹介します。
ポール・ゴーギャン(1848~1903年)はパリでジャーナリストの息子に生まれました。ナポレオン三世のクーデターでパリを逃れ、母親の親戚を頼ってペルーに向かいました。父親が航海中に亡くなりました。7歳までリマで育ち、その後父方の親戚を頼ってオルレアンに移住しました。商船の水先案内見習い、兵役を務め、1871年からパリ証券取引所の仲買人と絵の仲買を始めました。1873年から絵を描き始めました。1882年の株暴落で収入が減りルーアンに移住、更に妻と家族はコペンハーゲンに移住しました。その後はポンタヴェン、タヒチと流れ住み、妻や家族から見放される生活でした。他人を批判したり、対立したりで、困った性格だったようです。
1887年にパナマに友人と行き、(フランス植民地)マルティニーク滞在中に破産、パリへの帰国を要請されました。これを抜け出してマルティニークに滞在し続け、いくつかの作品を描きました。パリ帰国後グーピル商会のゴッホの弟のテオに評価され、買い上げられました。その後批評家から酷評を受けてパリに居づらくなり、1891年からタヒチに移住しました。一旦パリに戻ったが、1895年から再びタヒチに移住した。1898年頃に画商を替えることになり、条件が良くなって生活が安定しました。1898年に代表作(大作)の「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を描きました。ゴーギャンの作品で見たような部分を合体して、大画面に描いたようです。パリで画商が売りに出しましたが評価は賛否両論で、売り払うのに2~3年掛かったようです。
ゴーギャン作品というとタヒチでの作品がよく知られていますが、静物画の方が魅力を感じます。何故かは難しいのですが、ゴーギャン独特の画風にあります。浮世絵の影響ではないかと思いますが、青色が輪郭のように感じます。更に平面的、装飾的です。
ポール・ゴーギャン(1848~1903年)はパリでジャーナリストの息子に生まれました。ナポレオン三世のクーデターでパリを逃れ、母親の親戚を頼ってペルーに向かいました。父親が航海中に亡くなりました。7歳までリマで育ち、その後父方の親戚を頼ってオルレアンに移住しました。商船の水先案内見習い、兵役を務め、1871年からパリ証券取引所の仲買人と絵の仲買を始めました。1873年から絵を描き始めました。1882年の株暴落で収入が減りルーアンに移住、更に妻と家族はコペンハーゲンに移住しました。その後はポンタヴェン、タヒチと流れ住み、妻や家族から見放される生活でした。他人を批判したり、対立したりで、困った性格だったようです。
1887年にパナマに友人と行き、(フランス植民地)マルティニーク滞在中に破産、パリへの帰国を要請されました。これを抜け出してマルティニークに滞在し続け、いくつかの作品を描きました。パリ帰国後グーピル商会のゴッホの弟のテオに評価され、買い上げられました。その後批評家から酷評を受けてパリに居づらくなり、1891年からタヒチに移住しました。一旦パリに戻ったが、1895年から再びタヒチに移住した。1898年頃に画商を替えることになり、条件が良くなって生活が安定しました。1898年に代表作(大作)の「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を描きました。ゴーギャンの作品で見たような部分を合体して、大画面に描いたようです。パリで画商が売りに出しましたが評価は賛否両論で、売り払うのに2~3年掛かったようです。
ゴーギャン作品というとタヒチでの作品がよく知られていますが、静物画の方が魅力を感じます。何故かは難しいのですが、ゴーギャン独特の画風にあります。浮世絵の影響ではないかと思いますが、青色が輪郭のように感じます。更に平面的、装飾的です。





