世界美術館巡り旅

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2024年01月

 2015年4月にロンドン・ナショナルギャラリーを訪問しました。今回は、ピーテル・パウル・ルーベンス作「シュザンヌ・フールマンの肖像」を紹介します。
 ピーテル・パウル・ルーベンス(1577~1640年)はドイツ西部で、アントウェルペン出身のプロテスタントの家に生まれました。父の死後家族とアントウェルペンに戻りました。13歳で伯爵未亡人の下へ小姓として出されました。伯爵未亡人がピーテルの芸術的素養を見込んで、アントウェルペンの聖ルカ組合に入会させました。その後三人の画家に師事しました。1600~1608年の間、イタリアとスペインで古典の模写などで学びました。その後アントウェルペンに戻り、工房(ルーベンスの家)を設け、数々の宗教画、肖像画を描きました。 ピーテル・パウル・ルーベンス(1577~1640年)はドイツ西部で、アントウェルペン出身のプロテスタントの家に生まれました。父の死後家族とアントウェルペンに戻りました。13歳で伯爵未亡人の下へ小姓として出されました。伯爵未亡人がピーテルの芸術的素養を見込んで、アントウェルペンの聖ルカ組合に入会させました。その後三人の画家に師事しました。1600~1608年の間、イタリアとスペインで古典の模写などで学びました。その後アントウェルペンに戻り、工房(ルーベンスの家)を設け、数々の宗教画、肖像画を描きました。
 アントウェルペンの裕福な商人ダニエル・フールマンの娘を描いたようです。ピーテル・パウル・ルーベンスはその妹で16歳のエレーヌ・フールマンと1630年に結婚しました。19世紀頃まで誰の肖像か分かっていなかったようですが、エレーヌ・フールマンの肖像と見比べると、姉妹であるのはほぼ間違いなさそうです。姉のシュザンヌの方が、何か迫力があります。
シュザンヌ・フールマンの肖像(ピーテル・パウル・ルーベンス、1622~25年作)

エレーヌ・フールマンの肖像
(ピーテル・パウル・ルーベンス、1638年作、グルベンキアン美術館蔵)

 2015年4月にロンドン・ナショナルギャラリーを訪問しました。今回は、フランシスコ・デ・ゴヤ作「イザベル・デ・ポルセールの肖像」を紹介します。
 フランシスコ・デ・ゴヤ(1746~1828年)はスペイン北東部サラゴザで生まれ、4年程地元画家に師事しました。1763年と1766年にサン・フェルナンド王立アカデミーの展覧会に出品したが、落選しました。ローマに自費留学した後故郷に帰り、ピラール聖母教会の天井装飾を手掛けました。その後マドリードに出て、王立タペストリーで下絵を描いていました。1786年にカルロス3世付きの画家に、1789年にカルロス4世の宮廷画家に就任しました。1807年にナポレオン軍がスペイン侵攻し、1808~14年スペイン独立戦争が起きました。
 グラナダへ旅行した際ポルセール夫妻の屋敷に滞在した。その厚遇の返礼に描いたこの作品を贈ったようです。ゴヤは王族・貴族等の女性肖像画を描いていますが、この作品は一二を争う出来栄えです。単なる美人ではなく、生気や勝気な性格も描き出しています。ゴヤの肖像画を見ていると、ゴヤは余り盛ること(実際以上に美男美女に描くこと)をしなかったと感じます。モデルの正しい姿を描いたと思います。イザベルはこんな女性だったのでしょう。
イザベル・デ・ポルセールの肖像(フランシスコ・デ・ゴヤ、1805年作)

アントニア・サラテの肖像
(フランシスコ・デ・ゴヤ、1810年頃作、エルミタージュ美術館蔵)
File:Francisco-Goya - Portrait-of-the-Actress-Antonia-Zarate.jpg

 2015年4月にロンドン・ナショナルギャラリーを訪問しました。今回は、サンドロ・ボッティチェリ作「ヴィーナスとマルス」を紹介します。
 サンドロ・ボッティチェリ(1445~1510年)はフィレンツェで、皮なめし職人の息子に生まれました。1464~67年の間フィリッポ・リッピの工房で修業しました。その後、ポッライオーロやヴェロッキオの工房に出入りしました。1469年に独立し、1472年聖ルカ組合に加入しました。1470年代、80年代に「ヴィーナスの誕生」や「四季 春」などの傑作を描きました。
  「ヴィーナスとマルス」はメディチ家のコレクションに入っていませんでした。その為ウフィツィ美術館所蔵ではなく、イギリスに持ち出されました。メディチ家以外でボッテッチェリに依頼したとなると、更に右上に家紋の蜂の巣と蜂が描かれているのでヴェスプッチ家の注文だったと思われます。容貌と時代背景から、シネモッタ・ヴェスプッチとジュリアーノ・デ・メディチがモデルと思われます。シネモッタ・ヴェスプッチは15歳でマルコ・ヴェスプッチと結婚しました。ヴェスプッチ家はメディチ家に従属するような(寄生するような)貴族でした。ヴェスプッチ夫妻はメディチ家の屋敷に頻繁に通って、ジュリア―ノとも遊び仲間でした。1475年にロレンツォ・デ・メディチが開催した馬上槍試合に弟のジュリア―ノ・デ・メディチも出場しました。出場者はイナラモータ(象徴的な愛人)を指名する習慣(お遊び)でした。ジュリアーノはシネモッタ・ヴェスプッチをイナラモータに指名して、夫のマルコもボッテッチェリにシネモッタ・ヴェスプッチの旗印を注文しました。ジュリア―ノが予想外の優勝をしてしまい、フィレンツェの民衆は美男美女のベスト・カップルと騒ぎました。当事者たちは困惑したと思います。翌年にはシネモッタ・ヴェスプッチが病死して、1478年にはメディチ家兄弟が襲われて弟のジュリア―ノが殺されました。これ等の事件が起きた後数年が経った頃、この作品はボッテッチェリに依頼されたと思われます。幼いサテュロス三人が兜・槍・ほら貝で遊んで、ほら貝でマルスを目覚めさせようとしています。マルスの頭の近くで蜂が飛んでいますが、目覚めそうもありません。戦闘の神マルスは無防備で眠りこけています。ヴィーナスがシネモッタ・ヴェスプッチだとすると、あの世の二人の姿です。この絵を制作依頼した目的は、「亡くなった二人はあの世で幸せにやっている。」と納得する事、納得させることのようです。ヴェスプッチ家ではこれを飾って、来客にも見せたのでしょうか。やがてメディチ家にも伝わって、ヴェスプッチ家はメディチ家と昔通りの好い関係を築いたのでしょう。
ヴィーナスとマルス(サンドロ・ボッテッチェリ、1485年頃作)



 2015年4月にロンドン・ナショナルギャラリーを訪問しました。今回は、ラファエロ・サンティ作「カーネーションの聖母」を紹介します。
 ラファエロ・サンティ(1483~1520年)はウルビーノ公国の宮廷画家の息子に生まれました。11歳で孤児となり、伯父が後見人となりました。1500年頃にはペルジーノの工房の助手になっていました。
 「カーネーションの聖母」はラファエロの作か真贋が決着していないようです。幼いキリストの顔つきがラファエロらしいようにも見えますし、凛々しすぎるとも感じます。聖母の顔は、ラファエロらしさがありません。カーテン・衣服の皺に自然さがなく、部分的にデッサンがズレている部分もあります。キリストの左足の形、聖母の左手の向きがチョットずれている(上腕が正しく想定できない)。
 同時代のラファエロの小品も紹介しますが、ラファエロは目力と視線の方向に非常に気を使っています。「カーネーションの聖母」の聖母の視線の先はキリストの頭のてっぺんです。キリストの視線の先は、カーネーションと聖母の顔の中間です。聖書ではキリストの磔刑でカーネーションが記されているそうです。カーネーションが磔刑の予感であれば、カーネーションをキリストと聖母両方が見るのが相応しいと思えます。カーネーションの位置をもっと下にして聖母とキリストが見つめるか、カーネーションをもっと高くにしてキリストと聖母がお互いとカーネーションを見つめるかだと思います。 
カーネーションの聖母(伝ラファエロ・サンティ、1506~07年作)

アレクサンドリアの聖カタリナ
(ラファエロ・サンティ、1507年作、ロンドン・ナショナルギャラリー蔵)

聖ゲオルギウスと竜
(ラファエロ・サンティ、1505~06年作、ルーヴル美術館蔵)

聖ミカエルと竜
(ラファエロ・サンティ、1504~05年作、ルーヴル美術館蔵)

 2015年4月にロンドン・ナショナルギャラリーを訪問しました。今回は、ミケランジェロ・ブオナローティ作「キリストの埋葬」を紹介します。
 ミケランジェロ・ブオナローティ(1475~1564年)はフィレンツェ共和国カプレーゼで銀行家の息子に生まれました。父親は失敗して、行政官・判事職を務めていました。間もなくフィレンツェに戻り、父親は大理石採石場や小さな農園を経営しました。6歳の時に母親が亡くなりました。13歳でドメニコ・ギルランダイオに弟子入り、翌年には一人前と認められました。メディチ家ロレンツォから優秀な弟子二人の派遣をドメニコ・ギルランダイオに要請しました。ミケランジェロ・ブオナローティはその一人に選ばれ、メディチ家で重用されました。
 「キリストの埋葬」は1650年にはファルネーゼ家のコレクションに入っていましたが、それ以前の経緯は分かっていません。キリストが水平ではなく直立というのは珍しく、アンジェリコとドメニコ・ギルランダイオ工房作品くらいです。所属した工房の作品が影響したと思われます。ミケランジェロ・ブオナローティの彫刻作品は比較的正確ですが、男性のデッサンは横広がり(立派な体格)に描く傾向があります。ルーヴル美術館に素描・習作と思われる作品もあり、恐らく真作と思われます。左上から描き始めて、右下に向けて描き進んだと思われます。右下に欠けている聖母マリアを書く予定だった思われます。右下の聖母マリアと岩の上の何か以外はほぼ完成で、最後の一塗り(仕上げ)前と考えられます。この時期に彫刻作品を多く制作しており、描き掛けの油彩画が他にも残っています。彫刻作品の制作が優先で、油彩画制作を一旦休止したのではないかと思われます。次々と彫刻の注文が入り、油彩画完成が忘れられてしまったのでしょうか?ミケランジェロの大きな作品は契約書も残っていたようです。契約書が書かれていない油彩画は、有耶無耶になったのでしょうか?
 墓への階段の途中の場面で、布を使って三人がかりでキリスト死体を運んでいます。結構リアルな場面設定です。注文主が途中で見て、引き取り拒否した可能性もあります。
キリストの埋葬(ミケランジェロ・ブオナローティ、1501年作)

墓の前の死せるキリスト
(ドメニコ・ギルランダイオ工房、1485年頃作、バディア・ア・セッティモ蔵)

跪く女性の素描・習作(ミケランジェロ・ブオナローティ作、ルーヴル美術館蔵)

立っている男の素描・習作(ミケランジェロ・ブオナローティ作、ルーヴル美術館蔵)

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