世界美術館巡り旅

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2023年08月

 2018年6月にミネアポリス美術館を訪問しました。今回は、フランシスコ・デ・ゴヤ作「医師アッリエータの診察を受けるゴヤ」を紹介します。
 フランシスコ・デ・ゴヤ(1746~1828年)はスペイン北東部サラゴザで生まれ、4年程地元画家に師事しました。1763年と1766年にサン・フェルナンド王立アカデミーの展覧会に出品したが、落選しました。ローマに自費留学した後故郷に帰り、ピラール聖母教会の天井装飾を手掛けました。その後マドリードに出て、王立タペストリーで下絵を描いていました。1786年にカルロス3世付きの画家に、1789年にカルロス4世の宮廷画家に就任しました。1807年にナポレオン軍がスペイン侵攻し、1808~14年スペイン独立戦争が起きました。
 1819年にマドリード郊外の別荘に移り住んだが、8月重病(腸チフス)となり、主治医のアッリエータにより一命を取り留めました。その時のお礼に、この絵を描きました。中央の医師が慈愛に満ちた表情で、ゴヤに薬を勧めています。絵としては傑作とまで言いづらいのですが、良く知られた作品です。ミネアポリス美術館が所蔵していたんですね。
医師アッリエータの診察を受けるゴヤ(フランシスコ・デ・ゴヤ、1820年作)
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 2018年6月にミネアポリス美術館を訪問しました。今回は、バルトロメ・エステバン・ムリーリョ作「マグダラのマリア」を紹介します。
 
バルトロメ・エステバン・ムリーリョ(1617~1682年)はスペイン南部セビーリャで、医師の息子に生まれました。両親が亡くなり、伯母に育てられました。ファン・デル・カスティーリョに師事し、1645年にセビーリャのフランシスコ会修道院装飾を手始めに多くの作品を残しました。
 ムリーリョが「マグダラのマリア」を描いたことは知りませんでしたが、マリアの容姿と髑髏から、ムリーリョの作品で間違いないと思います。ムリーリョが描くと、マグダラのマリアも清純になってしまうようです。
マグダラのマリア(バルトロメ・エステバン・ムリーリョ作)
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ムリーリョの作品の前で
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 2018年6月にデ・ヤング美術館(サンフランシスコ)を訪問しました。リージョン・オブ・オナー美術館と合わせて、サンフランシスコ美術館を構成しているようです。今回は、女性画家ジョージア・オキーフ作「ペチュニア」を紹介します。
 ジョージア・オキーフ(1887~1986年)はアメリカ ウィスコンシン州の農家に生まれました。シカゴ美術館付属美術大学で学んだ後、アート・スチューデント・リーグ・オブ・アーツに進学しました。風景画や植物の絵を描き、やがて抽象画・象徴画に進みました。
 「ペチュニア」は抽象画・象徴画に進む前の花の近接画の時代の作品です。代表作とされる「羊の頭、白タチアオイ、小さい丘」も紹介します。
ペチュニア(ジョージア・オキーフ、1925年作)
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羊の頭、白タチアオイ、小さい丘(ジョージア・オキーフ、1935年作)
ジョージア・オキーフ「羊の頭、白タチアオイ、小さな丘」(1935年)
 

 2013年7月にボストン美術館(ボストン)を訪問しました。今回は、エル・グレコ作「修道士オルテンシオ・フェリス・パラビシーノの肖像」を紹介します。
 エル・グレコは1541年にギリシャ領クレタ島で生まれ、1567年にヴェネツィアでティッツァーノに弟子入りしました。1576~77年の間ローマに住み、その後スペインに渡りフェルぺ2世の宮廷画家を目指しました。エル・グレコはフェルぺ2世の肖像画を描きましたが、フェルぺ2世のお気に召さなかったようでした。トレドに定住して、宗教画を主に描きました。フェリペ2世依頼でエル・エスコリアル修道院に飾る予定の「聖マウリティウスの殉教」を描きましたが、ヒエロニムス会士に受け取り拒否されました。その後もエル・グレコは隠れイスラム教徒を疑われたり散々でした。トレドの宗教施設からの依頼で主に描きました。その後も宗教に関する描き方で依頼主と度々揉め、制作費を値切られていたようです。それでも購入したようなので、それなりに魅力を感じていたのでしょう。ローマでミケランジェロ作品を酷評して、スペインに移住したという話も伝わります。「困ったチャン」だけど絵が上手くて、放っておけない画家だったようです。カラヴァッジョと共通するところがあったようです。
 オルテンシオ・フェリス・パラビシーノはマドリードでイタリア人の息子に生まれました。21歳でサラマンカ大学修辞学教授を務め、1616年にはフェルペ3世の説教師を務めました。エル・グレコと良好な友好を保ちました。エル・グレコの墓にも「クレタは生と絵筆を彼に授け、トレドは彼の最上の祖国となり、死とともに永遠に生き始める。」と墓碑銘に書き残しました。
 「修道士オルテンシオ・フェリス・パラビシーノの肖像」では三位一体修道会の修道服を着て、非常に知的に描かれています。エル・グレコの描いた男性の間では、最も美男子に描かれています。二人の間の信頼関係が深かったと思います。画面は黒と灰色の面積が広く、落ち着いた画面となっています。エル・グレコとしては、卒なくまとめた絵です。
修道士オルテンシオ・フェリス・パラビシーノの肖像(エル・グレコ、1609年頃作)
 

 2013年7月にボストン美術館(ボストン)を訪問しました。今回は、ジョン・シングルトン・コプリー作「ワトソンと鮫」を紹介します。
 ジョン・シングルトン・コプリー(1738~1815年)はボストンで生まれました。継父から絵の手ほどきを受けました。アメリカ独立戦争を避けるため、1774年に家族とともにロンドンに移住しました。1799年にロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ会員に選ばれました。
 当時のロンドン市長ワトソンからの依頼で、「ワトソンと鮫」を描きました。大型作品を2枚、小型作品を1枚の合計3枚を描いたようです。アメリカの美術館で複数枚見たような気がしたのは、このような経緯の為でした。
 ロンドン市長ワトソンは若いころイギリス船の船乗りでした。ハバナの港で泳いでいて鮫に襲われ、仲間に助けられました。右足の先を食いちぎられましたがその後精進して、ロンドン市長にまで出世しました。本人も世話になった王立キリスト教療院(孤児院も併設)のロビーに飾り、孤児たちを勇気づけるために制作依頼しました。「孤児でも、右足先を失っても、努力すれば成功できる。」と示したかったようです。3作品ともアメリカの美術館に所蔵されました。
 コプリーは本物の鮫を見たことはなく、図鑑などで想像して描いたのでしょうか?
ワトソンと鮫のレプリカ
(ジョン・シングルトン・コプリー、1778年作、ボストン美術館蔵)

ワトソンと鮫のオリジナル
(ジョン・シングルトン・コプリー、1778年作、ワシントン・ナショナルギャラリー蔵)

ワトソンと鮫の小型レプリカ
(ジョン・シングルトン・コプリー、1778年作、デトロイト美術館蔵)

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