世界美術館巡り旅

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2023年07月

 2011年8月にフリック・コレクション(ニューヨーク)を訪問しました。メトロポリタン美術館の近くのこじんまりとした美術館です。個人の邸宅を改造した雰囲気の良い美術館です。美術館の規模の割に非常に質の高い絵画を展示しています。今回は、ジョバンニ・ベッリーニ作「荒野の聖フランシス」を紹介します。
 ジョヴァンニ・ベッリーニ(1430年頃~1516年)は画家一族ベッリーニ家に生まれ、マンティーニャとも義兄弟の関係になります。マンティーニャの影響を受けて、少しゴシック風の硬い表現から始めました。若い頃はテンペラ画法で描き、マンテーニャに追い付け追い越せでした。やがて油彩の技法を取得して、マンティーニャとは異なった画風を確立しました。前半生の代表作は、ミラノのブレラ美術館所蔵の「ピエタ(1460年作)」です。マンティーニャの影響を強く受けた作品です。
 「キリストの復活」は後半生の傑作です。キリストが空に浮かんでいるので当初キリストの変容かと思いましたが、調べると「キリストの復活」でした。「キリストの復活」は油彩でかれ、ズット写実的と言うかルネッサンス風の絵画になっています。
  「荒野の聖フランシス」は油彩画です。120cmx137cmの大きさでタタミ半畳よりチョット大きいというサイズです。アッシジのフランシスコ(1182年頃~1226年)はアッシジで生まれ、本名はジョバンニです。フランシスコは「フランス被れ、フランスの」という意味で、若い頃南フランスの童謡を歌ったりしていたようです。父親か母親からの影響と思われます。回心・出家して、聖フランシスコ会の創始者となりました。聖フランシスは洞窟入口の机で聖書を読んでいて、裸足で太陽に向かって祈っているようです。奥にはロバが居て、遠くには教会か修道院が見えます。奥行きを感じる絵ですが、ロバや建物の大きさで、遠近を描き分けています。不自然な感じはないので、正確にデッサンされていると思われます。ヴェネツィアの貴族が旧蔵していたと伝わり、ジョバンニ・ベッリーニの署名も残っています。この時代に遠近を正確に描いた油絵という事で、絵画史からも価値が高い作品と思われます。
荒野の聖フランシスコ(ジョバンニ・ベッリーニ、1480~85年作)

 2015年11月にプーシキン美術館(モスクワ)を訪問しました。本館の建物から細い道を隔ててヨーロッパ絵画館が建てられて、そこに展示されていました。今回は、ポール・セザンヌ作「ピエロとアルルカン」を紹介します。
 ポール・セザンヌは1839年に南仏エクス・アイ・プロヴァンスで、帽子行商出身の銀行家の息子として生まれました。地元の中学時代(13歳の頃)、後に高名な小説家となるエミール・ゾラがパリから転校してきました。余所者と虐められていたゾラに話しかけた事から、セザンヌは袋叩きになりました。翌日ゾラがリンゴ入りの籠を贈り、後に天文学者になるバティスタ・バイユと三人で親交を深めました。
 1857年(18歳)からエクス・アン・プロヴァンスの私立素描学校に通いました。1858年からエクス・アン・プロヴァンス大学法学部に通いました。ゾラから誘われて1861年にパリに行きましたが、官立美術学校から入学を断られました。画塾のアカデミー・シュイスに通いました。同じ年の9月には故郷に帰り、父の銀行に勤めながら美術学校に通いました。一年でパリに戻り、絵の修行に励みました。
 1874年第一回印象派展に3作品を出品しました。その後もサロン出展を目指し続けて印象派リーダーと気まずくなり、1878年に故郷に帰り画作を続けました。1882年(43歳)に「L・A氏の肖像」でサロン・ド・パリに初入選しました。審査員の弟子という事にして、審査員弟子一人の入選枠を使ったようです。要するに裏口入学のようなものです。
 1886年に父が亡くなり、多額の遺産を受け継ぎました。1890年頃から糖尿病を患いました。1895年に初個展、死後の1907年に回顧展が開かれましたが、酷評を受けました。1925年頃から評価が急に高まりました。
 1886年に父親が亡くなり遺産相続し、長年連れ添った内縁の妻と正式に結婚しました。エクス・アン・プロヴァンスでの隠遁生活も落ち着いたころの作品です。セザンヌは幾つかの画風で作品を描いていますが、「カード遊びをする人々」の画風の最初の作品がこの「ピエロとアルルカン」だと思います。「カード遊びをする人々」は安定した構図ですが、逆に動きがないつまらない構図です。こちらの方が出来が良いと思います。
ピエロとアルルカン(セザンヌ、1888年作)

カード遊びをする人々(セザンヌ、1890~92年作)

 2015年11月にプーシキン美術館(モスクワ)を訪問しました。本館の建物から細い道を隔ててヨーロッパ絵画館が建てられて、そこに印象派・後期印象派作品が展示されていました。今回は、伝ルノワール作「むーらん・ド・ギャレットの中庭」を紹介します。
 ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841~1919年)は仕立て屋の末っ子に生まれ、磁器工場の絵付け職人になりました。1858年に失職して画家を目指し、1862年にエコールド・ボザールに入学し、モネ、シスレー等と知己をえました。一緒に絵を描いたりしていましたが、1876年に「ムーラン・ド・ギャレットの午後」を描き上げました。それの習作かなんかの位置づけだと思われますが、描写が甘い。1876年制作の「ムーラン・ド・ギャレットの午後」、「日光の下の裸婦」ともに、日の光、日陰などが実に美しく・正確にに描かれています。「ムーラン・ド・ギャレットの中庭」には光も日陰も感じません。左側の女性の衣装は、「ムーラン・ド・ギャレットの午後」の前方中央の女性のそれを意識していると思われますが、登場人物の描写がぼんやりとしています。左側女性の足元に暗い部分が描かれています。そうだとすれば晴れで、もっと木漏れ日の光景になっていると思われます。「ムーラン・ド・ギャレットの午後」、「日光の下の裸婦」を描いた画家が、同じ時期にこのような絵を描くとは考えにくい。
 「黒い服の娘たち」と「女優ジャンヌ・サマリーの肖像」は真作と思います。他の画家では、この絵は描けないと思います。
ムーラン・ド・ギャレットの中庭(伝ルノアール、1876年作)
黒い服の娘たち(ルノアール、1881年作)
女優ジャンヌ・サマリーの肖像(ルノアール、1877年作)

ムーラン・ド・ギャレットの午後(ルノワール、1876年作、オルセー美術館蔵)

日光の下の裸婦(ルノアール、1875~76年作、オルセー美術館蔵)
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 2015年11月にプーシキン美術館(モスクワ)を訪問しました。印象派/後期印象派画家の作品に集中して、質の高い作品が多く展示されていました。本館の建物から細い道を隔ててヨーロッパ絵画館が建てられて、そこに展示されていました。今回は、クロード・モネ作「草上の昼食」を紹介します。
  クロード・モネ(1840~1926年)はパリで生まれ、5歳ころからノルマンディ地方のル・アーヴルで育ちました。1859年パリに戻り、画塾で絵を学び直しました。1865年にサロン・ド・パリに初入選しました。エドゥアール・マネ作「草上の昼食」に刺激を受けて、自分はもっとすごい(縦横が4~5メートルで、人物画等身大の)絵を描いて、サロンに出品しようと考えました。パリ郊外で部屋を借りて、大作「草上の昼食」の制作を始めました。貧困で家賃が払えないうえ、作品が部屋の外に持ち出せないことが分かりました。モネは作品を形に(部屋内に残して)、家賃も払わず退去しました。この作品が分解されて、一部がオルセー美術館で所蔵・展示しています。絵をよく見ると、仕上げ(最後の一塗)がされていないようです。
 プーシキン美術館所蔵品は全体像はオルセー美術館所蔵品とほぼ同じで、女性の衣装が一段と豪華です。この作品は最後の一塗がされている完成作品です。オルセー美術館所蔵品を描くために、事前に作品を描いて完成させたようです。これを更に大きくしてサロン・ド・パリに出品しようとして、挫折したようです。プーシキン所蔵作品は出来が良い。この作品をサロン・ド・パリに出品すれば入選して、高い評価を得たように思えます。成功にもっと早く近づけたような気がします。惜しかったですネ。
草上の昼食(クロード・モネ、1865年作、プーシキン美術館蔵)
r/HistoricalCostuming - Anyone ever seen a reproduction of this yellow dress?
モネ作「草上の昼食」の横で
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草上の昼食(エドゥアール・マネ、1862~63年作、オルセー美術館蔵)

草上の昼食中央部(クロード・モネ、1865~66年作、オルセー美術館蔵)

草上の昼食の中央部・左側部合体の様子
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草上の昼食左側部(クロード・モネ、1865~66年作、オルセー美術館蔵)


庭の中の女たち(クロード・モネ、1866年作、オルセー美術館蔵)


 2015年11月にプーシキン美術館(モスクワ)を訪問しました。印象派/後期印象派画家の作品に集中して、質の高い作品が多く展示されていました。今回は、アンリ・マティス作「金魚」を紹介します。
  アンリ・マティス(1869~1954年)は、フランス北部で豊かな穀物商人の長男に生まれました。父親の意向で、1887年パリで法律を学び、1888年に法科資格に合格、法律事務所の書記の職を得ました。1889年盲腸炎の療養中に母親から絵画の道具を送られ、絵画に興味を持ちました。1891年からアカデミー・ジュリアンに通い、官立のエコール・デ・ボザールを目指しましたが入学できず。熱意を買われて、ギュスターブ・モローが個人指導をしました。1896年の国民美術協会サロンに4作品を出品、1作品が国家買い上げとなりました。「読書をする女性」という作品ですが、これが何故国家買い上げになったかは謎です。国民美術協会は衰退したのを風俗画家や彫刻家が再興し、サロン・ド・パリからの分離・独立で運営されていたようです。
  アンリ・マティスは法科資格に難なく合格し、絵画を急に目指して予備校に通ったが正式な美術大学には入れず、予備校教師だったギュスターブ・モローの個人指導を受けました。恐らく写実的な絵画では限界を感じ、新たな技術模索を重ねました。開眼の切欠がシニャックの分割画法(点描)を使った「豪奢、静寂、逸楽」で、シニャックが大喜びで買い上げた。経歴と初期の絵から見て、「日曜画家」という感じです。色彩感覚とデザイン(画面の分割)感覚は独特で魅力的なんですが、デッサン力の裏付けがあまり感じられません。そんな感じの作品が多いマティスですが、この「金魚」は他の画家が描いたことの無いレベルの傑作です。
  テーブル(下皿)の円、水槽底の円、水面の円、水槽の端の二重円がリズミカルに積みあがっています。それらを手すりや草花で囲んでいます(安定化させています)。水槽の中で金魚が、乱れた方向に漂っています。テーブルの脚は貧弱で細いが、周りの草花のお陰で倒れる感じはしません。
金魚(アンリ・マティス、1912年作)

読書をする女性
(アンリ・マティス、1895年作、ポンピドゥ―・センターからマティス美術館に貸与)
豪奢、静寂、逸楽(アンリ・マティス、1904年作、オルセー美術館蔵)
File:Matisse-Luxe.jpg

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