世界美術館巡り旅

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2022年12月

 2013年3月3月にウフィツィ美術館(フィレンツェ)を訪問しました。今回はフランチェスカ作「ウルビーノ公夫妻の肖像」を紹介します。フランチェスカはボッテチェリより一世代前の初期ルネッサンス画家です。現存する絵画は、殆どが宗教画です。肖像画で現存するのはこれだけだと思います。ルネッサンスの肖像画の代表格の絵です。
 夫妻が別々に描かれているのは、妻が先に亡くなっていたからのようです。背景が綿密に描かれているのは、ウルビーノを治めていたことを示すためと思われます。空気遠近法が使われています。完全な横顔の肖像画と言うのも珍しいと思います。更に正直に(盛る事もなく)描かれているのも特筆です。
 絵の裏側には戦勝が描かれているようです。 
         ウルビーノ公夫妻の肖像(フランチェスカ作)

肖像画の裏側には勝利の寓話の場面が



         

 2013年3月3月にウフィツィ美術館(フィレンツェ)を訪問しました。今回は、シモーネ・マルティーニ作の「聖女マルガリータと聖アンサヌスのいる受胎告知」を紹介します。
 シモーネ・マルティーニ(1284年頃~1344年)はイタリア ゴシック派の画家で、シエナ派祖のドウッチョ・ディ・ブオニンセーニヤの後継者でした。イタリア中部シエナ出身と思われますが、1315年頃(31歳頃)まで経歴が良く分かりません。1314年にアヴィニョンに、1317年頃にナポリに、アッシジにも行ったようです。1340年頃アヴィニョンへ移り、そこで亡くなったようです。
 「聖女マルガリータと聖アンサヌスのいる受胎告知」は1333年に描かれ、国際ゴシック様式の中に、ルネッサンスの萌芽が見られる絵画です。特に受胎告知を告げられた聖母が体をひねって驚いているのが、秀逸です。

聖女マルガリータと聖アンサヌスのいる受胎告知
(シモーネ・マルティーニ、1333年作)
同上の中央部

 金色の背景・オリーブの枝を持った大天使ガブリエル・天上の鳩などはゴシックの形式に則ていますが、遠近法を使った床の描写・聖母とガブリエルの表情などはルネッサンス・北方ルネッサンスの影響が出ています。聖母の捻った姿勢は、ボッテチェリの受胎告知で再現されています。色使い・描き方は北方ルネッサンスのそれに近い。国際ゴシック様式の代表に数えられています。豪華な祭壇画です。

 2013年3月3月にウフィツィ美術館(フィレンツェ)を訪問しました。ボッテチェリ作「ヴィーナスの誕生」を所蔵している事で有名ですが、今回はボッテチェリ作の「プリマヴェラ/春」を紹介します。この絵は背景が暗い森になっていて、人物が明るく描かれています。全体が引きしまった感じでコントラストも強く、「ヴィーナスの誕生」よりも絵としては出来が良いと思います。サイズも「ヴィーナスの誕生」より一回り大きいし、先に描かれています。「ヴィーナスの誕生」は「プリマヴェラ」の続編のような気がします。
プリマヴェラ・(ボッティチェリ、1482~4年作)
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ヴィーナスの誕生(ボッティチェリ、1485年頃作)
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 両絵画とも中央の女性のモデルはシモネッタ・ヴェスプッチというのが定説です。
 シモネッタ・ヴェスプッチは夫のマルコ・ヴェスプッチとともに、メディチ家の別荘に良く遊びに行っていました。メディチ家の次男のジュリアーノ・デ・メディチとも親交を深めたようです。1475年4月にフィレンツェのサンタ・クローチ広場で、ジオストラ(騎馬での槍競技)が開かれました。ジュリアーノ・メディチも出場しました。その際のイナモラーナ(騎士道的恋愛の理想の女性)にシモネッタを指名し、ボッティチェリが描いた彼女の肖像の旗を掲げて出場しました。ボッテチェリに依頼したのは、夫のマルコでした。ジュリアーノが優勝する筈がないという前提のお遊び(同盟貴族のオベンチャラ)だったと思われます。
 ところがジュリアーノが優勝してしまい、フィレンツェ中に評判となりました。シモネッタは絶世の美女と讃えられ、ジュリアーノとシモネッタは理想的カップルと持て囃されました。彼女の出身家が名門で、格下のヴェスプッチ家に16歳で嫁入りしました。彼女の家の没落・衰退に対する同情も働いたのではないかと思います。家の格から行けば、メディチ家の方が相応しいという世論もあったかと思います。
 ヴェスプッチ家でシモネッタは外出禁止となった挙句、1年後(22~3歳)に肺結核で亡くなりました。ますます評価が上がり、多くの画家のモデルとなりました。大部分の肖像画が、知性的で清楚に描かれています。
 一方のジュリアーノも1478年にフィレンツェ/枢機卿の勢力争い(ローマ教皇シクストウス4世が黒幕)に巻き込まれて、暴漢に襲われ25歳で死にました。兄のロレンツォも一緒に襲われましたがケガで済んで、メディチ家を繁栄に導きました。ヴェスプッチ家も暴漢を支援していたとの噂が立ちました。その後ナポリ王の仲裁で、何とか収まりました。ヴェスピッチ家のマルコと父ピエトロはメディチ家との良い関係を修復できなかったようです。別の系統のヴェスプッチ家がメディチ家との同盟関係を修復したようです。これらの問題を解決した兄のロレンツォ・デ・メディチからボッテッチェリが宮殿の装飾用にこれらの製作依頼を受けたと考えられています。
  二つの絵画の中央部の女性のモデルがシネモッタ・ヴェスプッチだったと仮定して、両作品の示すものを推定します。
プリマヴェラの解釈
 画面中央から左側には三美神らしき女神たちとそれを狙うキューピッドが描かれ、通常の恋愛を描いています。左端のマース(ジュリアーニ?)はそれらに背を向けています。中央の女性(シネモッタ?)は右手で拒否のしぐさをしています。ジュリアーニとシネモッタはあくまでもジオストラでの関係で、通常の恋愛関係ではなかったと主張しています。右端の西風の神(マルコ・ヴェスプッチ?)は女神に執拗にせまっています。女神は春の女神(フローラ)になって、春(フィレンツェの平穏)をまき散らしています。ジュリアーニとシネモッタの騒ぎは過去のものになり、フィレンツェに平和が戻った。フィレンツエの春(平和・平穏)を祝っています。
ヴィーナスの誕生の解釈
 西風の神(マルコ?)が女神を連れて来てヴィーナス(シネモッタ?)がフィレンツェに誕生します。ヴィーナスは裸に困惑しています。春の女神がヴィーナスを布で隠そうとしています。フィレンツェを平和・平穏に戻そうと春の女神が活躍しています。

 二枚に共通しているのは、本当の主人公が春の女神です。そういう目で見ると、春の女神は最も美しい衣装に描かれています。これらの絵画の制作依頼をしたロレンツォ・メディチの妻のクラリーチェ・オルシーニがこの女神のモデルのような気がします。これらの絵画をロレンツォとその妻の宮殿に飾られる予定だったと思われます。

 2015年4月にスコットランド・ナショナルギャラリー(エジンバラ)を訪問しました。ナショナルギャラリーなので、著名な画家の作品は一通り揃っていました。画家の最高傑作とまで言える作品は少なかったが夫々の作品の質は高く、厳選されているとの印象でした。
 今回はベラスケス作の「卵を料理する老女」を紹介したいと思います。ベラスケスの画力を感じさせる一枚ですが、これを描いたのがベラスケス 19歳だと伝わっています。19歳でこの絵を描いたとは、驚異的です。独り立ちした翌年、厨房静物画の流行と小説からヒント(この場面の記述)から描いたと思われます。少年の持ったフラスコと白葡萄酒、手前の食器や紫玉ねぎなどが質感豊に描かれています。静物の影を見ると、左手大幅手前の光源からの影を描いたグループと左手やや手前の光源からの影を描いたグループがあります。別の機会に描いた静物のデッサンを基に合成して描かれたと思われます。この辺りに気が回っていないところが若狭なのでしょうか。この翌年に描かれた絵は、カラヴァッジョ並みの光を感じさせる絵になりました。日々上達したのでしょう。
 当初卵を油で揚げているのかと思いましたが、絵をよく見ると浅い湯で卵を料理しているようです。この辺りもしっかりと描き分けてあります。
     
卵を料理する老女(ベラスケス作)
卵を揚げる老女 ベラスケス
次がベラスケス 20歳の時に描かれた絵です。
東方三博士の礼拝(ベラスケス プラド美術館蔵)

 2015年4月に、念願のコートールド美術研究所(ロンドン)訪問を果たしました。マネの最高傑作と思っている「フォーリー・ベルジュール劇場のバー」を鑑賞するために行きました。傑作・名画が一杯所蔵・展示されている間で、今回はセザンヌ作「大きな松の木とサント・ヴィクトワール山」を紹介します。セザンヌはサント・ヴィクトワール山の絵を多数書いています。有名美術館に行くと、どこも展示しているという感じです。インターネットで調べると、10枚以上はありそうです。美術館を見て回った体感からは、数十枚以上あると思います。その間で、最も完成度が高いというか、最後まで描き切ったと感じるナンバー・ワンの作品がこの作品です。
           大きな松の木とサント・ヴィクトワール山(セザンヌ作)
大きな松の木のセント・ヴィクトリア山 セザンヌ
 1887年頃の作品で、サント・ヴィクトワール山を描いた絵では一番古そうです。これ以外は1904年に描かれたと思われる「サント・ヴィクトワール山(フィラデルフィア美術館蔵)」の完成度が比較的高い。それ以外は未完成の感じがしますが、何故そんなに多くの類似作品があるかは分かりません。                 

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