世界美術館巡り旅

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2018年11月

 アンジェロ・ヤンク(1868~1940年)は狩りや動物を多く描いたドイツ人画家です。
 アンジェロ・ヤンクはミュンヘンで生まれ、1891~96年の間ミュンヘン美術院で学びました。1895年からミュンヘン・ガラス宮殿展に、1898年にはミュンヘン分離派店に出品しました。1899~1907年の間ミュンヘン芸術家協会の女子美術学校の教師を務めました。1907年にミュンヘン美術院教授となり、1920年代後半ミュンヘン美術協会の議長を務めました。高級施設の装飾画や雑誌の表紙・挿絵も多く手がけました。年代順に作品を紹介します。
雑誌「若者」の表紙(アンジェロ・ヤンク 1897年作)
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雑誌「若者」の表紙(アンジェロ・ヤンク 1901年作)
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サーカスの移動(アンジェロ・ヤンク 1906年作)
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新聞の挿絵(アンジェロ・ヤンク 1910年作)
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集合(アンジェロ・ヤンク 1913年作)
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狩り(アンジェロ・ヤンク 1904年作)
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集団の狩り(アンジェロ・ヤンク作)
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雑誌「若者」挿絵のオウム(アンジェロ・ヤンク作)
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跳躍(アンジェロ・ヤンク作)
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郵便配達人(アンジェロ・ヤンク作)
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あっさりと描くことを信条とした画家だったようです。

 2018年11月にインド旅行をした際、ジャイプールのシティ・パレスを観光しました。ジャイプール藩王サク―イー・ジャイ・シング2世が1727年アンベール城からジャイプールへ遷都しました。ジャイプールに建築したのがシティ・パレスです。その後増改築を繰り返したそうです。
チャンドラ・マハル(月の宮殿)前景(Wikipediaから)
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チャンドラ・マハルを背景に記念撮影
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ムバラク・マハル(迎賓館)全景(Wikipediaから)
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 ムバラク・マハルは衣装博物館となっていました。王様などの衣装が多数展示されていました。
ムバラク・マハル入り口の両脇の象の置物
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ムバラク・マハル入り口脇の象の置物の前で記念撮影
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ディワニ・カース(一般謁見殿)全景(Wikipediaから)
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ディワニ・カース内部(Wikipediaから)
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ディワニ・カース内展示の銀製水甕
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 「世界最大の銀製品」でギネスに登録されているそうです。
アナンド・マハル(現武器博物館)入り口の古い大砲
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ピタム・二クス・チョウリ(中庭)で人形劇実演
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 近くにあった天文台なども、シティ・パレスの付属施設だったそうです。

 アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー(1865~1941年)はドイツ表現主義のロシア系ドイツ人画家です。
自画像(アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー 1912年作)
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 アレクセイ・フォン・ヤウレンスキーはモスクワで生まれ育ちました。1882年にモスクワで開催された共同国際展覧会で見た絵画に感激して、独学で絵画を学び始めました。トレチャコフ美術館に通い模写を続けました。軍の士官となった後、1889年にサンクトペテルブルクへ移動となりました。夕方ロシア帝国芸術アカデミーに通ったりしました。1892年写実主義画家のイリヤ・レーピンから男爵令嬢のマリアンネ・フォン・ヴェレキンを師に推薦されました。1896年にヴェレキンとともにミュンヘン引っ越し、10年間に亘り指導を受けました。1906年にフランス、1907年にスイスへ旅行をしました。カンデンスキーと知り合ったり、師のヴェレキンとぶつかったりしました。ドイツの外国人退去令により、1914~21年の間スイスに亡命しました。1921年にドイツのヴィースバーデンに移りました。1930年から手の不随意が酷くなりました。1933年にはナチスから「退廃芸術」の指定を受けました。1934年にドイツ国籍を取得しました。体が不自由となり車椅子の生活となり、1941年に亡くなりました。年代順に作品を紹介します。
年老いたユダヤ人(アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー 1893年作)
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ワイン瓶の在る静物(アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー 1904年作)
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自画像(アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー 1905年作)
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背むしの男(アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー 1905年作)
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ドルフシュトラッセの風景(アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー 1908年作)
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ザッハロフの肖像(アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー 1909年作)
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赤い帽子のSchokko(アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー 1909年作)
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赤い帽子の少女(アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー 1910年作)
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紫のターバン(アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー 1911年作)
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青の肖像(アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー 1912年作)
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青い肖像のドイツ切手(1974年発行)
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水差しの在る静物(アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー 1913年作)
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驚き(アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー 1919年作)
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メドゥーサ(アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー 1923年作)
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瞑想(アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー 1936年作)
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 最後の絵は手が不自由で、車いす生活で描いたと思われます。

 2018年11月にインド旅行をした際、ジャイプールにあるジャンタル・マルタン(天文台)を観光しました。18世紀前半(ムガル帝国時代)にジャイプール藩国のジャイ・シング2世が日時計・天体観測施設を設置してジャンタルマルタンを建設しました。
ジャンタル・マルタンの全容(Wikipediaから)
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日時計
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日時計の文字盤(時刻読み取り盤)
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 文字盤に目盛りがあり、影の位置で時刻を読み取る仕組みのようです。
太陽観測器
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 太陽の高さで季節(暦)を読み取る仕組みのようです。
サムラート・ヤントラ(世界最大の日時計)を背景に記念撮影
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サムラート・ヤントラ(世界最大の日時計)の文字盤
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太陽の位置観測機
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 お椀状の窪みの上中央にワイヤーで、丸い穴の開いた金属板が取り付けられています。下に映った小さな陰から、太陽の位置を読み取るようです。
星座観測設備群
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 それぞれの星座に対応する設備が並んでいました。
乙女座の星座計の前で記念撮影
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乙女座の表示パネル
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射手座の表示パネル
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 天文台と言っても、太陽を観測する設備のようです。太陽の位置から、時刻/季節(暦)/星座の位置/経度/緯度を測定したようです。

 フェルディナント・ヤーゲマン(1780~1820年)はゲーテなどの肖像画を多く描いたドイツ人画家です。
自画像(フェルディナント・ヤーゲマン作)
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 フェルディナント・ヤーゲマンはヴァイマールで司書を務める学者の息子に生まれました。カッセルでヨハン・ハインリヒ・ティシュバインから絵を学びました。1802~04年の間パリに滞在して、ジャック=ルイ・ダヴィッドらに学びました。ヴァイマールに戻り、肖像画家として独立しました。ザクセン大公カール・アウグスト設立の美術学校で教授を務めました。1806~10年の間ローマ留学をして、ヴァイマールに戻りました。1814年から美術学校の校長を務め、1820年にヴァイマールで亡くなりました。
クリストフ・マルティン・ヴィーラントの肖像
(フェルディナント・ヤーゲマン 1805年作)
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ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの肖像
(フェルディナント・ヤーゲマン 1806年作)
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ゲオルク・ニコラウス・ニッセンの肖像
(フェルディナント・ヤーゲマン 1809年作)
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 ザクセン大公カール・アウグストの肖像
(フェルディナント・ヤーゲマン 1816年作)
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ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの肖像
(フェルディナント・ヤーゲマン 1818年作)
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フリードリヒ・ヨシアス・フォン・ザクセンの肖像
(フェルディナント・ヤーゲマン作)
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 ゲーテの肖像画を少なくとも二度描いています。ゲーテの肖像画で有名なヨハン・ハインリヒ・ティシュバインの弟子に当たると言うことで、ゲーテとの交流が始まったのでしょうか。

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