世界美術館巡り旅

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2018年05月

 ヴィルヘルム・フォン・カウルバッハ(1805~1874年)は19世紀のドイツ人画家です。
 ヴィルヘルム・フォン・カウルバッハはヘッセン州フランクフルト近くのバート・アーロルゼンで、金細工師の息子に生まれました。1821年にデュッセルドルフ美術アカデミーに入学し、ペーター・フォン・コルネリウスに師事しました。1826年にミュンヘンの美術学校で修業を続けました。1835年から6年間イタリアに滞在しました。1847年にミュンヘンの美術学校校長に就任しました。息子や従妹も画家となりました。年代順に作品を紹介します。
オマージュの場面(ヴィルヘルム・フォン・カウルバッハ 1840年作)
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エルサレムの破壊(ヴィルヘルム・フォン・カウルバッハ 1846年作)
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ローマでスケッチする画家達
(ヴィルヘルム・フォン・カウルバッハ 1848年作)
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ルートヴィヒ1世に招請される芸術家
(ヴィルヘルム・フォン・カウルバッハ1849年作)
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ノイエ・ピナコーテク壁画スケッチ
(ヴィルヘルム・フォン・カウルバッハ 1850年作)
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蝶(ヴィルヘルム・フォン・カウルバッハ 1860年作)
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サラミスの戦い(ヴィルヘルム・フォン・カウルバッハ 1868年作)
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マキシミリアン1世の肖像(ヴィルヘルム・フォン・カウルバッハ作)
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ヘンゼル(ヴィルヘルム・フォン・カウルバッハ作)
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グレーテル(ヴィルヘルム・フォン・カウルバッハ作)
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高い技量を持っていた画家のようです。

 ヘルミーネ・オーヴァーベック=ローテ(1869~1937年)はドイツ人画家です。フリッツ・オーヴァーベックの妻でもありました。
ヘルミーネ・オーヴァーベックの肖像(ポール・シュローター作)
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青い服のヘルミーネ(フリッツ・オーヴァーベック作)
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 ヘルミーネ・オーヴァーベック=ローテはドイツ北西部ニーダーザクセン州の革製品製造業者の娘に生まれました。若いころから画家になる希望を持ち教育も受けたが父の死で、看護を学んだり家庭教師をしたりしていた。1892年にミュンヘンの女子美術学校へ進んだ。ミュンヘンの展覧会でフリッツ・オーヴァーベックの作品を見て、フリッツ・オーヴァーベックに学ぶ為にヴォルプス・ヴェーデに移り住みました。1897年にフリッツ・オーヴァーベックと結婚した。
 1809年に夫が心臓病で亡くなりました。それ以降は夫の作品保全に注力しました。1937年に自動車事故で亡くなりました。制作年がハッキリしている作品は少ないようです。
洗濯物干し(ヘルミーネ・オーヴァーベック 1896年作)
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窪地の道(ヘルミーネ・オーヴァーベック 1896~1904年作)
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 白樺の道(ヘルミーネ・オーヴァーベック作)
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クリスタル花瓶のバラ(ヘルミーネ・オーヴァーベック作)
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白樺の幹(ヘルミーネ・オーヴァーベック作)
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色調が淡い感じです。

 フリッツ・オーヴァーベック(1869~1909年)はヴォップク・ヴェーデで活躍したドイツ人画家です。
自画像(フリッツ・オーヴァーベック 1900年作)
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 フリッツ・オーヴァーベックはブレーメン出身で、父親はドイツ造船会社の技術重役でした。高校卒業後デュッセルドルフ美術アカデミーに4年通いました。1894年に多くの芸術家が集まっていたヴォップク・ヴェーデにスタジオを構えました。1900年にチョコレート会社のトレーディング・カードのデザンコンテストに入選しました。1905年に妻が結核に罹ったので、ブレーメンのフェーゲザックへ移り住みました。後にドイツ画家協会の会員となりました。1909年心臓発作で亡くなりました。年代順に作品を紹介します。
ソバ畑(フリッツ・オーヴァーベック 1897年作)
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月の夕暮れ(フリッツ・オーヴァーベック 1897年作)
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ソバの花の開花(フリッツ・オーヴァーベック 1900年作)イメージ 4
夕間詰め(フリッツ・オーヴァーベック 1900年作)
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イーゼルに向かう画家(フリッツ・オーヴァーベック 1905~06年作)
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カンペンの崖(フリッツ・オーヴァーベック 1907年作)
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青い服の妻ヘルミーネ(フリッツ・オーヴァーベック作)
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夏の日(フリッツ・オーヴァーベック作)
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月の運河の静寂(フリッツ・オーヴァーベック作)
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月夜の静寂(フリッツ・オーヴァーベック作)
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渡し舟(フリッツ・オーヴァーベック作)
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am birkenhain(フリッツ・オーヴァーベック作)
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独特の色彩感覚を持った画家のようです。

 アダム・エルスハイマー(1578~1610年)は小品のキャビネット絵画を多く描いたドイツ人画家です。レンブラントやルーベンスに多大な影響を与えたと言われています。
自画像(アダム・エルスハイマー 1606年作)
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 アダム・エルスハイマーはフランクフルト・アム・マインで仕立て屋の息子に生まれました。フィリップ・ウッヘンバッハに弟子入りして、絵画を学びました。1596年にストラスブールへ、更に1598年にイタリアへ移りました。ヴェネツィアでいくつかの作品を描いた後、1600年にローマへ移住しました。1606年にローマの聖ルカ組合に登録されました。その後多くの作品を描きました。年代順に作品を紹介します。
患者を見舞う聖エリザベート(アダム・エルスハイマー 1597年作)
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祭壇画(アダム・エルスハイマー 1598年作)
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魔女(アダム・エルスハイマー 1598年作)
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キリストの洗礼(アダム・エルスハイマー 1599年作)
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ホロフェリネスの首を斬るユディト(アダム・エルスハイマー 1602年頃作)
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聖ヒエロニムス(アダム・エルスハイマー 1603年作)
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ピエタ(アダム・エルスハイマー 1603年作)
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トロイの炎上(アダム・エルスハイマー 1604年作)
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フランクフルトの祭壇画(アダム・エルスハイマー 1604年作)
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十字架高揚(アダム・エルスハイマー 1605年作)
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バウキスとピレモンの家のユーピテルとメルクリウス
(アダム・エルスハイマー 1608年作)
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エジプト逃避行(アダム・エルスハイマー 1609年作)
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予想以上に多くの作品が残っていました。注文が多かったのだろうと思います。

 ダーフィト・エーレンシュトラール(1628~1698年)はスウェーデンの宮廷画家として活躍したドイツ人画家です。
自画像(ダーフィト・エーレンシュトラール 1690年作)
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 ダーフィト・エーレンシュトラールはハンブルグで生まれ、1648年から地元画家の下で絵を学びました。1651年にスウェーデンに移り住みました。貴族カール・グスタフ・ウランゲルに気に入られ彼の城で仕事をして、息子の教育も行いました。1655年からヨーロッパ各地を旅行し、ヴェネツィアに2年過ごしました。更にローマでピエトロ・ダ・コルトーナの下で学びました。1661年スウェーデンに戻り、主席宮廷画家となりました。年代順に作品を紹介します。
遊ぶ子供たち(ダーフィト・エーレンシュトラール 1651年作)
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カール・グスタフ・ウランゲルの肖像
(ダーフィト・エーレンシュトラール 1652年作)
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チャールズ11世結婚の寓意(ダーフィト・エーレンシュトラール 1668年作)
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チャールズ11世愛馬ブルータイガー
(ダーフィト・エーレンシュトラール 1673年作)
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チャールズ11世の肖像(ダーフィト・エーレンシュトラール 1676年作)
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Ulrika Eleonora of Sweden(ダーフィト・エーレンシュトラール 1681年作)
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寓意的自画像(ダーフィト・エーレンシュトラール 1691年作)
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チャールズ11世夫妻の寓意(ダーフィト・エーレンシュトラール 1692年作)
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チャールズ11世の平和的治世の寓意
(ダーフィト・エーレンシュトラール 1603年作)
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チャールズ12世の肖像(ダーフィト・エーレンシュトラール 1687年作)
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スウェーデン以外の貴族からの依頼は少なかったようです。

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