世界美術館巡り旅

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2018年02月

 ジャン=マルク・ナティエ(1685~1766年)はルイ15世時代の肖像画家です。ロココ調が見られます。
ジャン=マルク・ナティエの肖像(ルイ・トッケ作)
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 ジャン=マルク・ナティエはパリで肖像画家の息子に生まれました。父と叔父から絵を学びました。1718年に(33歳で)王立絵画・彫刻アカデミーへの入会を許されました。以降多数の肖像画を描きました。年代順に作品を紹介します。
音楽のレッスン(ジャン=マルク・ナティエ 1710年作)
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Lesnayaの戦い(ジャン=マルク・ナティエ 1717年作)
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エカテリーナ1世の肖像(ジャン=マルク・ナティエ 1717年作)
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ピョートル1世の肖像(ジャン=マルク・ナティエ 1717年作)
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ブルボン家のルイーズ・アン(ジャン=マルク・ナティエ 1731年作)
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クレルモンのサルタン令嬢(ジャン=マルク・ナティエ 1733年作)
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不正を懲らしめる正義の寓意(ジャン=マルク・ナティエ 1737年作)
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プルヌフ夫人の肖像(ジャン=マルク・ナティエ 1739年作)
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フローラに扮したアンリエット(ジャン=マルク・ナティエ 1742年作)
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恋人たち(ジャン=マルク・ナティエ 1744年作)
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ディアナに扮したポンパドール夫人(ジャン=マルク・ナティエ 1746年作)
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ブルボン家のイザベラ(ジャン=マルク・ナティエ 1747年作)
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処女神ベスタルに扮した貴婦人の肖像(ジャン=マルク・ナティエ 1759年作)
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 美男美女の肖像画ばかりなので、盛る(実物より綺麗に描く)のが上手い画家だったようです。

 ポール・ドラローシュ(1797~1856年)は新古典派とロマン主義の中間位の立ち位置のフランス人画家です。
自画像
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 ポール・ドラローシュはパリで美術鑑定家の息子に生まれました。1816年に(19歳で)パリ国立美術学校に入学し、1822年に(25歳で)サロンに初出品しました。このサロンでジェリコーやドラクロアと知己を得ました。1824年のサロンに出品した「ジャンヌ・ダルク」が注目を集めました。1832年に(35歳で)美術アカデミーの会員に選ばれ、1833年委は国立美術学校の教授に就任しました。1838年と1843年にイタリアを旅行しました。妻のルィーズが1845年に亡くなり、落ち込んだようです。年代順に作品を紹介します。
獄中のジャンヌ・ダルク(ポール・ドラローシュ 1825年作)
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エリザベス1世の死(ポール・ドラローシュ 1828年作)
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Henriette Sontagの肖像(ポール・ドラローシュ 1831年作)
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 ロンドン塔の若き王と王子(ポール・ドラローシュ 1831年作)
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聖アントニウスの誘惑(ポール・ドラローシュ 1832年作)
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レディー・ジェーン・グレイの処刑(ポール・ドラローシュ 1833年作)
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最近日本で開催された「世界で最も恐ろしい絵の展覧会」で、この絵も展示されました。
ギーズ公爵の殺人(ポール・ドラローシュ 1834年作)
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母と子供たち(ポール・ドラローシュ 1843~48年作)
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水盤の中の若い女(ポール・ドラローシュ 1844年作)
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聖母子(ポール・ドラローシュ 1844年作)
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臨終のルィーズ習作(ポール・ドラローシュ 1845年作)
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読書を学ぶ子供(ポール・ドラローシュ 1848年作)
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アルプスを越えるポナパルト(ポール・ドラローシュ 1850年作)
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若い殉教者(ポール・ドラローシュ 1855年作)
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セントヘレナのナポレオン(ポール・ドラローシュ 1855~56年作)
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絵の上手い画家です。特に清純な女性や子供を描かせたら、ピカイチですネ。

 ウジェーヌ・ドラクロワ(1798~1863年)はロマン主義のフランス人画家です。ルーヴル美術館所蔵の「民衆を導く自由の女神」を教科書でご覧になった方も多いと思います。
自画像(ドラクロワ 1837年作)
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 ウジェーヌ・ドラクロワはパリ近郊で外交官の息子に生まれました。実夫はウィーン会議のフランス代表だったクレーランとの伝承もあります。新古典派画家ピェール=ナルシス・ゲランに入門しました。1822年に(24歳で)「ダンテの小舟」がサロンに初入選しました。1824年にサロンへ出品した「キオス島の虐殺」が、賛否両論で大評判となりました。否定的な意見は、「実際に起きた事件で残虐過ぎ、芸術の場に相応しくない。」というものでした。結局この絵は、政府買い上げとなりました。
 1830年に七月革命を描いた「民衆を導く自由の女神」を発表しました。1832年に政府高官に同行して、モロッコを旅行しました。このときのスケッチを基に、1934年に「アルジェの女たち」を作成・発表しました。その後政府関係の建築の装飾なども手がけました。テォドール・ジェリコーの作品に影響を受けていました。その後テォドール・デ・ボザールへの入会も許されました。新古典派のドミニク・アングルはドラクロアの作風に否定的でした。年代順に作品を紹介します。
自画像と推定される肖像画(ドラクロワ 1816年作)
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 18歳の時の絵と思われますが、既に高い画力を持っていたようです。
ダンテの小舟(ドラクロワ 1822年作)
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キオス島の虐殺(ドラクロワ 1824年作)
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異端者とハッサンの戦い(ドラクロワ 1826年作)
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サルダナパールの死(ドラクロワ 1827年作)
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民衆を導く自由の女神(ドラクロワ 1830年作)
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母虎に戯れる子虎(ドラクロワ 1831年作)
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アルジェの女たち(ドラクロワ 1834年作)
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十字軍のコンスタンティノープル入城(ドラクロワ 1841年作)
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モロッコのスルタン(ドラクロワ 1845年作)
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十字架のイエス(ドラクロワ 1846年作)
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花束の静物(ドラクロワ 1850年作)
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水浴者たち(ドラクロワ 1854年作)
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レベッカの略奪(ドラクロワ 1858年作)
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庭の苦悶(ドラクロワ 1861年作)
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山間のアラブの小競り合い(ドラクロワ 1863年作)
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 ドラクロワは花や肖像画も多く描きましたが、「躍動」や「ドラマチックな場面(残虐・暴力)」を多く描きました。アングルは「静寂」や「美しいものを美しく」描きたかったようです。ドラクロアの話題性を狙った(残虐だったり事件性があったりの)画題を描く姿勢をアングルは嫌ったのかも知れません。アングルも若い頃批判を多く浴び、アカデミー会長を経て最晩年に「泉」でやっと万人から大喝采を受けました。自分自身の反省から、ドラクロワの話題性を狙った絵を嫌ったのでしょうか?或いはアカデミー会長だったアングルは、アカデミーの品位や権威を守る責任を感じたのでしょうか?アングルが到達した静寂な裸婦画を紹介します。
泉(アングル 1856年作)
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 絵画歴史上最も清純な(清々しい)裸婦像のひとつだと思います。モデルが乙女であることと、場面が泉(裸であることの理由を説明している)である事、徹底的に写実的に描いているからかと思っています。

 アンドレ・ドーシェ(1870~1948年)はフランスの自然風景を主に描いたフランス人画家です。
 アンドレ・ドーシェはパリで、弁護士の息子に生まれました。銅版画を学んだ後、17歳から3年間ほどリュック=オリヴェン・メルソンのアトリエに通いました。ドーシェ家が避暑で過ごしたブルターニュ地方ベノデで自然に愛着を持つようになりました。姉婿の画家リュシアン・シモンを通じで、地元画家グループ「バンド・ノワール」のメンバーと交流しました。
 1887年に(17歳で)フランス・サロンに銅版画を出品しました。1894年にサロン・ナシオナルに初出品すると、1896年に正式会員となりました。1938年にはサロン・ナシオナルの会長とフランス学士院会員となりました。年代順に作品を紹介します。
レスコニルの砂丘(アンドレ・ドーシェ 1906年作)
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砂浜の船(アンドレ・ドーシェ 1908年作)
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コンブリの先(アンドレ・ドーシェ 1918年作)
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古い井戸(アンドレ・ドーシェ 1921年作)
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ロクテュディの前の松(アンドレ・ドーシェ 1925年作)
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ラ・パリュの家(アンドレ・ドーシェ 1928年作)
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ベノデ(アンドレ・ドーシェ 1935年作)
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風車のある風景(アンドレ・ドーシェ 1940年作)
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カンペールのロクマリア(アンドレ・ドーシェ 1941年作)
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Ploare(アンドレ・ドーシェ 1945年作)
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画題と製作年が分かったのは、ファイル容量が小さいものだけでした。画像がボケていて申し訳ありません。画題や製作年が分からないのですが、ファイル容量が若干多い写真を紹介します。
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印象派や後期印象派が全盛の時代に、古典的な風景画を描き続けた画家のようです。

 オーギュスト・トゥールムーシュ(1829~1890年)はアカデミズム絵画のフランス人画家です。
オーギュスト・トゥールムーシュの肖像(ジャン=ルイ・アモン作)
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 オーギュスト・トゥールムーシュはフランス西部ブルターニュ地方ロワール川河畔のナントで、裕福な商人の家に生まれました。地元の彫刻家・画家に学んだ後、1846年に(17歳で)パリへ出て、シャルル・グレールの画塾で学ぶようになりました。1848年に(19歳で)パリ・サロンに初出品しました。1852年と1861年のパリ・サロンでメダルを受賞しました。1861年にクロード・モネの親戚筋のマリー・ルカードルと結婚しました。1870年に(41歳で)レジオンドヌール勲章を受賞しました。年代順に作品を紹介します。
古い求愛(オーギュスト・トゥールムーシュ 1853年作)
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誕生(オーギュスト・トゥールムーシュ 1861年作)
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不本意な花嫁(オーギュスト・トゥールムーシュ 1866年作)
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慰め(オーギュスト・トゥールムーシュ 1867年作)
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手鏡(オーギュスト・トゥールムーシュ 1868年作)
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図書館にて(オーギュスト・トゥールムーシュ 1872年作)
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午後のまどろみ(オーギュスト・トゥールムーシュ 1874年作)
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無為(オーギュスト・トゥールムーシュ 1877年作)
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手紙(オーギュスト・トゥールムーシュ 1879年作)
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室内の若い女性(オーギュスト・トゥールムーシュ 1881年作)
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舞踏会の準備(オーギュスト・トゥールムーシュ 1883年作)
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バラ園の若い女性(オーギュスト・トゥールムーシュ 1886年作)
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化粧(オーギュスト・トゥールムーシュ 1889年作)
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虚栄(オーギュスト・トゥールムーシュ 1889年作)
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アカデミーで学んだことが無いようですが、素晴らしい画力を身に着けました。徹底したアカデミズムを通して、勲章まで貰いました。

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