世界美術館巡り旅

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2017年11月

 ジョルジョ・ヴァザーリ(1511~1574年)はマニエスリム派のイタリア人画家・建築家です。ルネッサンスの芸術家評伝を残し、美術史研究に貢献しました。
 ジョルジョ・ヴァザーリはフィレンツェで生まれ、1529年にローマでラファエロの作品から学びました。フィレンツェに戻り、メディチ家トスカーナ大公コジモ1世のお抱え画家となりました。ウフッツイー宮殿の建築にも参画しました。
 チマブーエからミケランジェロまで133人の芸術家評伝を完成して、1550年に出版しました。1563年に美術アカデミーのアカデミア・デッレ・アルティ・デル・ディゼーニョを創立しました。年代順に作品を紹介します。
ピエタ(ジョルジョ・ヴァザーリ 1540年作)
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聖家族(ジョルジョ・ヴァザーリ 1540年作)
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無原罪のお宿り(ジョルジョ・ヴァザーリ 1540年作)
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幼い聖ヨハネと聖家族(ジョルジョ・ヴァザーリ 1540年作)
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正義(ジョルジョ・ヴァザーリ 1542年作)
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忍耐(ジョルジョ・ヴァザーリ 1542年作)
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聖フランシスと風景のある聖家族(ジョルジョ・ヴァザーリ 1542年作)
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聖ヒエロニムスの誘惑(ジョルジョ・ヴァザーリ 1546年作)
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三賢人の礼拝(ジョルジョ・ヴァザーリ 1547年作)
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自画像(ジョルジョ・ヴァザーリ 1550年代作)
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ユデイトとホロフェルネス(ジョルジョ・ヴァザーリ 1554年作)
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聖ヤコブの夢(ジョルジョ・ヴァザーリ 1558年作)
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自画像(ジョルジョ・ヴァザーリ 1560年代作)
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受胎告知(ジョルジョ・ヴァザーリ 1564~67年作)
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カナの婚宴(ジョルジョ・ヴァザーリ 1566年作)
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預言者エリシャ(ジョルジョ・ヴァザーリ 1566年作)
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三賢人の礼拝(ジョルジョ・ヴァザーリ 1567年作)
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ゲッセマネの祈り(ジョルジョ・ヴァザーリ 1570年頃作)
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殆どが宗教画ですネ。

 ニコラース・ベルヘルム(1620~1683年)は主に風景画を描いたオランダ人画家です。
 ニコラース・ベルヘルムはハールレムで、静物画家のピーテル・クラースの息子に生まれました。父親から絵画の手ほどきを受け、ヤン・ファン・ホイエンを初めとして、多数の画家に学びました。1642~45年の間、イタリア旅行をして腕を磨きました。1650年にルイスダールとヴェストファーレンを旅行し、更にイタリアを回ってアムステルダムに落ち着きました。1661~1670年の間アムステルダムで活動し、1670年に一旦ハールレムに戻りました。その後アムステルダムで亡くなったと伝わります。年代順に作品を紹介します。
鳥罠の風景(ニコラース・ベルヘルム 1646年作)
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冬のハールレム城壁外の風景(ニコラース・ベルヘルム 1647年作)
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エウロペの略奪(ニコラース・ベルヘルム 1649年作)
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羊飼いへの告知(ニコラース・ベルヘルム 1649年作)
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大きな樫の木(ニコラース・ベルヘルム 1652年作)
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廃墟と旅人の風景(ニコラース・ベルヘルム 1654年作)
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廃墟を行く農婦と牛と山羊(ニコラース・ベルヘルム 1655~60年作)
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カッリストとジュピター(ニコラース・ベルヘルム 1656年作)
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蟹取りの海岸(ニコラース・ベルヘルム 1658年作)
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夕方の風景(ニコラース・ベルヘルム 1661~63年作)
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アムステルダム市街拡大の寓意(ニコラース・ベルヘルム 1663年作)
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港の風景(ニコラース・ベルヘルム 1665年作)
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家畜の居る風景(ニコラース・ベルヘルム 1667~69年作)
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イタリアの夕暮れの風景(ニコラース・ベルヘルム 1670~72年作)
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渡し舟(ニコラース・ベルヘルム 1672~75年作)
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流れを渡る農婦たちと家畜(ニコラース・ベルヘルム 1674年作)
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広場の音楽会(ニコラース・ベルヘルム 1680~83年作)
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洗濯をする女性と家畜(ニコラース・ベルヘルム 1681年作)
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風景画なのですが、人物・家畜を描くのが主目的だったでしょうか。人物のポーズや家畜の姿に、相当の工夫を感じます。

 ピーテル・クラース(1597年頃~1660年)は、オランダ黄金期の静物画家です。
 ピーテル・クラースはアントウェルペン近郊のベルヘルムで生まれました。1620年に(23歳頃)ベルヘムの聖ルカ組合メンバーに登録されています。1621年にハールレムに移り、息子のニコラース・ベルヘレムもその地で生まれました。その地で静物画とヴァニタス(人生のむなしさの寓意の静物画)を多数描きました。年代順に作品を紹介します。
チーズと果物のある静物(ピーテル・クラース 1623年作)
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楽器のある静物(ピーテル・クラース 1623年作)
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ヴァニタス(ピーテル・クラース 1625年作)
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七面鳥のパイのある静物(ピーテル・クラース 1627年作)
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骸骨と羽根ペンのあるヴァニスタ(ピーテル・クラース 1628年作)
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ヴァニタス(ピーテル・クラース 1630年作)
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金鎖のある静物(ピーテル・クラース 1636年作)
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ミートパイとレモンとパンの朝食(ピーテル・クラース 1640年作)
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牡蠣のある静物(ピーテル・クラース 1643年作)
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朝食の静物(ピーテル・クラース 1646年作)
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ハムのある朝食(ピーテル・クラース 1647年作)
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蟹のある静物(ピーテル・クラース 1652年作)
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ヴァニタス(ピーテル・クラース 1656年作)
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ヴァニタス(ピーテル・クラース 1660年作)
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超細密の描写力が素晴らしい画家ですネ。

 ウィリアム・ホガース(1697~1764年)はロココ期のイギリス人画家です。風刺画を多く残し、「風刺画の父」と呼ばれたようです。当時の風俗や世相が分からないので、実際の絵を見ても風刺画なのか風俗画なのか分からない絵が多いと感じます。
 ウィリアム・ホガースはロンドンで貧しい教師の息子に生まれました。銀細工工房に弟子入りしたり版画家をやったりの下積みをした後、風刺連作で徐々に知られるようになりました。後半生は肖像画の注文が多かったようです。年代順に作品を紹介します。
Beggarsオペラの一場面(ウィリアム・ホガース 1728年作)
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Beggarsの意味は、乞食/寄付集め/懇願者です。右側の女性が妻で左側の女性が浮気相手のようです。二人の女性が逆の懇願をしているようです。Beggarsはこの二人の事のようです。真ん中の男は困った顔をしています。周りの人々も無関心か困り顔です。イギリスだからか、(フランスの)エスプリを感じません。風刺画と言うより風俗画のように感じます。中央の男性が当時の有名人なんでしょうか?
監獄のコミッティー(ウィリアム・ホガース 1729年作)
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コミッティーのメンバーは全員、夫々別々の方向を向いています。纏まりが無いコミッティーを風刺しているというより、非難している絵です。
ティー・パーティー人形で遊ぶ子供たち(ウィリアム・ホガース 1730年作)
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頭が大きい上、腕や手が極端に小さく描かれています。人形遊びをしている内に、人形みたいになったのでしょうか?何を風刺しているのか分かりません。
採用試験(ウィリアム・ホガース 1730年作)
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採用面接官が袖の下を貰っています。風刺画というより、批判画(非難画)です。
ビフォアー・室内(ウィリアム・ホガース 1731年作)
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アフター・室内(ウィリアム・ホガース 1731年作)
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この2枚も風刺画と言うより、風俗画と感じます。この頃から評判が高まって、肖像画の注文が多く入り始めたようです。
エドワーズ・ハミルトンの家族(ウィリアム・ホガース 1934年作)
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風俗画に比べて、肖像画の顔や首の座りがまだまだ不自然な感じです。何か意図(風刺)があるのか、肖像画特有の「盛る(実物より綺麗に描く)」のに迷いがあったのでしょうか?次の絵も不自然です。
家族の集まり(ウィリアム・ホガース 1735年作)
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家族なのにそれぞれのグループがよそよそしい感じです。風刺なんでしょうか?
浴場のキリスト(ウィリアム・ホガース 1736年作)
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一日の連作・夜(ウィリアム・ホガース 1736年作)
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カトリーヌ・ヴァスレットの肖像(ウィリアム・ホガース 1739年作)
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肖像画の描き方を会得したようです。自信に溢れた描きぶりです。
エビ売りの女(ウィリアム・ホガース 1740年頃作)
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白いプードルと少年(ウィリアム・ホガース 1740~50年作)
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ジョージ・グラハム艦長の肖像(ウィリアム・ホガース 1742~44年作)
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当世風の結婚 第二場(ウィリアム・ホガース 1743年作)
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様々な結婚・化粧(ウィリアム・ホガース 1744年作)
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自画像(ウィリアム・ホガース 1745年作)
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選挙(ウィリアム・ホガース 1755年作)
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描くホガース(ウィリアム・ホガース 1757年作)
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道徳の危機(ウィリアム・ホガース 1758~60年作)
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ジキムスントの哀悼(ウィリアム・ホガース 1759年作)
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40歳にして、当時超一流の肖像画家になったようです。注文が引きも切らなかったと思われます。

 エゴン・シーレ(1890~1918年)は独自の捻じれた人物画で知られたオーストリア人画家です。
 エゴン・シーレはウィーン近郊で、帝国鉄道員の父とチェコ系オーストリア人の母の間に生まれました。家族は伝統的にカソリックではなくルター派に属していました。15歳で父が亡くなり、叔父に引き取られました。16歳でクリムトも通っていたウィーン工芸学校に入学し、更にウィーン美術アカデミーに進学しました。古典的なウィーン美術アカデミーに馴染まず、工芸学校先輩のクリムトの工房に出入りしていました。クリムトから推薦され、ウィーン工房に入会しました。
 1908年に個展を開催して、翌年にはウィーン美術アカデミーを正式に退学しました。ノン・クンスト・グルッペ(古い芸術を否定する集団)を仲間と設立しました。ゴッホやドイツ表現主義の絵画に強く影響を受けました。
 1914年に第一次世界大戦が勃発すると、オーストリア・ハンガリー軍に召集されました。軍上層部に画家であることを説明して理解され、前戦には出ずにスケッチなどの習作を続けました。1918年に終戦となり、クリムト主催の第49回ウィーン分離派展に多数出品しました。妻に引き続き、スペイン風邪で若くして亡くなりました。年代順に作品を紹介します。
バルコニーのある家(エゴン・シーレ 1905年作)
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メロン(エゴン・シーレ 1905年作)
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15歳で正式な絵画教育を受ける前の作品です。上手いですね。
マリア・シーレ(エゴン・シーレ 1907年作)
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まだ工芸学校生のころ描いた(恐らく)母親の肖像です。
舟遊び(エゴン・シーレ 1907年作)
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画家Anton Peschkaの肖像(エゴン・シーレ 1909年作)
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この絵はクリムトの画風の強い影響を受けているように見えます。
ダナエ(エゴン・シーレ 1909年作)
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アナキスト(エゴン・シーレ 1910年作)
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独自の画風に目覚め始めたようです。
胎児と女(エゴン・シーレ 1910年作)
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野の花(エゴン・シーレ 1910年作)
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三様の自画像(エゴン・シーレ 1911年作)
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秋の木々(エゴン・シーレ 1911年作)
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青い川の街(エゴン・シーレ 1911年作)
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Cardinal and Nun(エゴン・シーレ 1912年作)
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自画像(エゴン・シーレ 1912年作)
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橋(エゴン・シーレ 1913年作)
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聖家族(エゴン・シーレ 1913年作)
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自画像(エゴン・シーレ 1914年作)
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川の上の家(エゴン・シーレ 1914年作)
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眼の見えない母親(エゴン・シーレ 1914年作)
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死と乙女(エゴン・シーレ 1915年作)
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従軍中のスケッチ(エゴン・シーレ 1915年作)
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うつぶせの裸婦(エゴン・シーレ 1917年作)
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四本の木(エゴン・シーレ 1917年作)
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家族(エゴン・シーレ 1918年作)
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画商グイド・アルノの肖像(エゴン・シーレ 1918年作)
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街の端(エゴン・シーレ 1918年作)
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僅か28歳で病に倒れ、亡くなってしまいました。10年20年更に修練した後の絵を見たかったですネ。

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