世界美術館巡り旅

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2017年05月

 テォドール・キッテルセン(1857~1914年)はノルウェーの画家です。風景画や伝説・妖精の作品が多く、ノルウェー国内で高い評価を得ている画家です。
 テォドール・キッテルセンはノルウェー南部ブラッツベルク県クラーゲリョーで生まれました。幼少の頃父が亡くなり、僅か11歳で時計職人に弟子入りしました。17歳の時に画才をディートリッヒ・マリア・オールに見いだされ、現オスロにあったヴィルヘルム・フォン・ハンノ芸術学校で学べるように、更にはミュンヘンに留学させて貰いました。1879年には支援が来なくなり、新聞・雑誌の製図工として働きました。1882年に奨学金を付与されて、パリで学びました。1887年にノルウェーに戻り、ロフォーテン諸島で生活しました。1899年からノルウェー南部でアートスタジオを構えました。民話集の挿絵を依頼されたりしました。1908年にノルウェー王国の聖オラフ勲章を授与され、ナイトの称号も授けられました。1910年に体調を崩し、スタジオを売却しました。そして56歳で亡くなりました。年代順に作品を紹介します。
ストライキ(キッテルセン、1879年作)
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待合室で(キッテルセン、1883年作)
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やまびこ(キッテルセン、1888年作)
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自画像(キッテルセン、1891年作)
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水の精(キッテルセン、1892年作)
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12匹のカモ(キッテルセン、1897年作)
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遠く望むソリア・マリア宮殿(キッテルセン、1900年作)
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丘に向かって吹くラッパ(キッテルセン、1900年作)
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森のトロール(キッテルセン、1906年作)
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馬の姿をした水の精霊(キッテルセン、1909年作)
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年齢不詳のトロール(キッテルセン、1911年作)
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キツツキ(キッテルセン、1912年作)
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北極熊の精霊(キッテルセン、1912年作)
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森の精霊やトロールの存在を子供の頃から教えられたノルウェー人には、堪らなく好きな絵なんでしょう。

 ピエトロ・ダ・コルトーナ(1596~1669年)はバロック期のイタリア人画家・建築家です。本名はピエトロ・ベレッイィーニですが、出身地に因んでコルトーナというあだ名で呼ばれたようです。歴史画に分類される作品が多いようです。
 ピエトロ・ダ・コルトーナはフィレンツェ近郊のコルトーナで石工の息子として生まれました。フィレンツェの画家コモディに師事しました。1613年に師と一緒にローマへ出ました。1620年頃までに独り立ちしたと思われますが、古典主義やカラヴァッジョ風とは違う、独自の画風を作り出しました。1623年にローマ教皇がウルバヌス8世に替わった以降、教皇庁の仕事もするようになりました。1633年~34年の間公立美術学校のアカデミア・ディ・サン・ルーカの校長を務めました。1633年~39年の間に制作したパラッツオ・バルベリーニの二階天井画が代表作となりました。1637年~47年の間フィレンツェにも滞在し、ピッティ宮殿の装飾に携わりました。その後ローまに戻りました。年代順に作品を紹介します。
ギャラリーのアーチ天井(コルトーナ、1623年作)
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ピエタ(コルトーナ、1625年作)
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マルセロ・サッキエッチの肖像(コルトーナ、1626年作)
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ウルバヌス8世の肖像(コルトーナ、1627年作)
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聖母と聖人(コルトーナ、1628年作)
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サビネの女性たちの略奪(コルトーナ、1629年作)
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ヘラクレスの懲罰(コルトーナ、1635年作)
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金の時代(コルトーナ、1637年作)
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銀の時代の習作(コルトーナ、1637年作)
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バルベリーニ宮殿の天井画(コルトーナ、1639年作)
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半円形の壁画(コルトーナ、1642年作)
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エジプト逃避行の休息(コルトーナ、1643年作)
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天井画(コルトーナ、1644年作)
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ガーディアンの天使(コルトーナ、1656年作)
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聖ステファンの石打ち(コルトーナ、1660年作)
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ルネッサンス全盛期の頃のような画風ですネ。

 ニコ・ピロスマニ(1862~1918年)は、原始主義・素朴派の画家です。独学の画家で、「ヘタウマ」の作品が多いと思います。旧ソ連のグルジアの国民的画家です。1ラリ紙幣にもニコ・ピロスマニの肖像が描かれています。
グルジアの1ライ紙幣の写真
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 ニコ・ピロスマニは南コーカサスのグルジア東部ミルザーニの村で生まれました。トビリシに出てグルジア鉄道で働いたり商店を経営したりしましたが、上手く行かなかったようです。その後独学で絵を描きました。グルジアを流浪して絵を描き、その日暮らしを続けました。一旦はロシア美術界から注目されましたが、新聞などが「幼稚だ。」と非難しました。失意の内貧困の中で亡くなりました。死後グルジアで国民的画家と愛されました。グルジアの1ライ紙幣に肖像が描かれています。
 1894年町を訪れたフランス人女優のマルガリータとロマンチックな出会いをして、ニコ・ピロスマニは彼女を愛しました。その愛を示す為、彼女の宿泊ホテルの前の広場を花で埋め尽くしました。15年後にアンドレイ・ヴォズネセンスキーが発表した詩「女優マリガリータ」で、この事件が有名になりました。日本でもこの事件を歌った「百万本のバラ」が流行しました。年代順に作品を紹介します。
自画像(ニコ・ピロスマニ、1900年作)
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ビール・マグを持つ女性(ニコ・ピロスマニ、1905年作)
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花とパラソルを持つ女性(ニコ・ピロスマニ、1905年作)
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五人の王子の祝宴(ニコ・ピロスマニ、1906年作)
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アレクサンダー・ガラノフ(ニコ・ピロスマニ、1906年作)
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オルガン奏者の居る祝宴(ニコ・ピロスマニ、1906年作)
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夜の山影(ニコ・ピロスマニ、1908年作)
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女優マリガリータ(ニコ・ピロスマニ、1909年作)
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門番(ニコ・ピロスマニ、1909年作)
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黒い熊(ニコ・ピロスマニ、1910年作)
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月夜の熊(ニコ・ピロスマニ、1913年作)
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衛生検査官(ニコ・ピロスマニ、1916年作)
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鹿の家族(ニコ・ピロスマニ、1917年作)
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狐(ニコ・ピロスマニ、1918年作)
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流浪の画家なので制作年が特定できる絵は、少ないようです。制作年が分からないのですが、気になる作品を紹介します。
静物(ニコ・ピロスマニ作)
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Tamar女王(ニコ・ピロスマニ作)
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野ブタ(ニコ・ピロスマニ作)
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親子(ニコ・ピロスマニ作)
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黒い背景や夜の絵と思われる絵に、印象深い絵が多い画家です。画家の心理状態を表しているのでしょうか?その日暮らしで亡くなった画家です。収入の十分ある弟を持っていたゴッホより悲惨だったと思います。

 ジョシュア・レノルズ(1723~1792年)はロココ期のイギリス人肖像画家です。英国ロイヤル・アカデミーの初代会長になりました。作品中の人物の視線の方向に、かなりの工夫(作為)が見られます。
 ジョシュア・レノルズはイングランド南東部プリンプトンで、教師の息子に生まれました。1740年~43年の間肖像画家トマス・ハドソンの下で修業しました。1746年にロンドンで友人と「ザ・クラブ」を創設し、芸術論などを戦わせていました。1749年~52年の間、イタリアで古典などを学びました。1768年に英国ロイヤル・アカデミーだ創設されると、初代会長に任命されました。1784年に主席宮廷画家に就任しましたが、1789年に左目を失明して、リタイアしました。年代順に作品を紹介します。
自画像(レノルズ、1740年作)
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ラファエロの学校のパロディ(レノルズ、1751年作)
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ロバート・オルム隊長の肖像(レノルズ、1756年作)
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ダートマスの未亡人(レノルズ、1757年作)
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婦人の肖像(レノルズ、1760年作)
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ロバート・クライブの家族とインド人女中(レノルズ、1765年作)
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コックバーン夫人と三人の息子(レノルズ、1773年作)
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自画像(レノルズ、1776年作)
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幼いサミュエル(レノルズ、1776年作)
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ジョージ大佐の肖像(レノルズ、1782年作)
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ラヴィニア・ビンガムの肖像(レノルズ、1782年作)
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サンダーリン夫人(レノルズ、1786年作)
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幼いヘラクレス(レノルズ、1786年作)
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ヴィーナスの紐を解くキューピッド(レノルズ、1788年作)
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スコーピオ(レノルズ、1789年作)
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マスター・ヘア(レノルズ、1789年作)
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やがて新古典主義が勃興して、忘れられた画家になってしまったのでしょうか?

 マックス・リーバーマン(1847~1935年)はベルリン分離派に分類されるドイツ人画家です。前半生はドイツ印象派というべき作品を沢山残しました。
 マックス・リーバーマンはベルリンでユダヤ人実業家の息子に生まれました。法学や哲学を学びましたが、画家への思いが断ち切れなかったようです。1869年からヴァイマルで、1872年からパリで、1876年からはオランダで絵画の勉強をしました。一旦ミュンヘンに住みましたが、1884年にベルリンに戻りました。ドイツ印象派の代表的画家と言われましたが、ゴッホの絵を評価しなかったようです。1899年から1911年までベルリン分離派を指揮しました。1920年~1932年の間プロイセン芸術院の総裁を務めました。プール・ル・メリット勲章を受章したリ、ベルリン名誉市民に選ばれたりしました。
 1933年にナチスが権力を掌握すると、名誉総裁の職を返上しました。失意のうちに亡くなったようです。年代順に作品を紹介します。
ガチョウの梱包(リーバーマン、1871年作)
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バルビゾンの収穫(リーバーマン、1874年作)
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水浴の後(リーバーマン、1877年作)
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アムステルダムの老人ホーム(リーバーマン、1880年作)
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ミュンヘンのビアガーデン(リーバーマン、1884年作)
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ラーレンの糸繰り(リーバーマン、1887年作)
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ライデンのホスピス(リーバーマン、1889年作)
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ヤギと女性(リーバーマン、1890年作)
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芝生での漂白(リーバーマン、1892年作)
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Martha_Marckwald(リーバーマン、1896年作)
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水浴する少年たち(リーバーマン、1898年作)
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サムソンとデリラ(リーバーマン、1902年作)
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オウムの通り(リーバーマン、1902年作)
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画家のスタジオ(リーバーマン、1902年作)
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ライデンのレストランの外(リーバーマン、1905年作)
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自画像(リーバーマン、1911年作)
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ガーデン・レストラン(リーバーマン、1916年作)
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自画像(リーバーマン、1925年作)
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Wannseeの庭(リーバーマン、1926年作)
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ナチスの権力掌握で消えた画家のひとりです。

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