世界美術館巡り旅

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2017年03月

 ヨース・ファン・ワッセンホフ(1410年頃~1480年)は初期フランドル派の画家で、主にイタリア ウルビーノ公国で「ヘントのユストウス」と呼ばれて活躍しました。
 ヘント(日本風に呼ぶとゲント)の画家ギルト(聖ルカ組合)名簿に類似の名前の画家が6人いたようですが、特定は出来ていないようです。作品にはエイクよりバウツの画風が見られるので、バウツの弟子だった可能性があります。年代順に作品を紹介します。
三賢人の礼拝(ワッセンホフ、1465年作)
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聖アウグステヌ(ワッセンホフ、1474年作)
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12使徒の聖体拝受(ワッセンホフ、1475年作)
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音楽の寓意(ワッセンホフ、1475年作)
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アリストテレス(ワッセンホフ、1476年作)
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プトレマイオス(ワッセンホフ、1476年作)
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海賊ベッサリオニ(ワッセンホフ、1476年作)
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装飾壁(ワッセンホフ、1476年作)
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Montefeltroとその息子の肖像(ワッセンホフ作)
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キリスト架刑の祭壇画(ワッセンホフ作)
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ルネッサンスの画風より初期フランドル派画風に近いです。初期フランドル派の画家と分類されているのは正しいと思います。

 ルイス=レオポルド・ボイリー(1761~1845年)は、フランス人の肖像画家です。ボナ美術館の次の肖像デッサン画作品が気になって調べてみました。
少女の肖像(ルイス=レオポルド・ボイリー作)
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 ルイス=レオポルド・ボイリーは北フランスで木像彫刻家の息子に生まれました。独学で若くして有名になったようです。12~3歳で司教から職を与えられ、絵画を追及出来たようです。
 1787年からパリに出て、絵画で生計を立てるようになりました。多少エロチックな宮廷趣味絵画の依頼も受けていたので、革命の流れの中で問題視される危険性をボイリーは感じたようです。1794年に「マーラーの勝利」を発表して、そのリスクを払しょくしました。1804年のパリ サロンで、表彰メダルを受けました。1833年にサロンの名誉会員となりました。年代順に作品を紹介します。
絵を描く女性(ボイリー、1785年作)
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恋しい人からの贈り物(ボイリー、1790年作)
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化粧室(ボイリー、1791年作)
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マラーの勝利(ボイリー、1794年作)
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ガラス花瓶の静物画(ボイリー、1795年作)
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仕来たりの先端(ボイリー、1797年作)
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入り口で(ボイリー、1798年作)
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郵便馬車の到着(ボイリー、1803年作)
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ビリヤード(ボイリー、1807年作)
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幼女ガブリエル(ボイリー、1815年作)
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貴婦人の肖像(ボイリー、1820年作)
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 これからは制作年の記録の無い作品を紹介します。
 三人の若い画家(ボイリー作)
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自画像(ボイリー作)
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アトリエでの集まり(ボイリー作)
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メロドラマのシーン(ボイリー作)
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眼の大きな美人画・美少女画が多く、可愛らしいですネ。

 エドワード・バーン=ジョーンズ(1833~1898年)はラファエル前派と密接なイギリス人画家・デザイナーです。ラファエル前派をイギリス画壇主流に押し上げた功労者の一人です。死後忘れられた存在でしたが、1970年代に再発見・再評価されました。独特の美しい女性を描いた作品を多く残しています。
 エドワード・バーン=ジョーンズはバーミンガムでメッキ師の息子に生まれました。誕生間もなく母親が亡くなり、父親と家政婦に育てられました。キング・エドワード 6世グラマー・スクールを出て、1848年~1852年オックスフォード大学エクスター・カレッジで神学を学びました。その後ロセッテイに師事して絵画を学び、イタリア旅行で特有のスタイルを確立しました。結局学位を得ずに、オックスフォード大学を卒業しました。1860年に結婚して、当初ステンドグラス美術伝統の復活に打ち込みました。1867年にロンドンへ移住しました。1877年グロウブナー・ギャラリーから油絵展示の要請を受け、高評価を受けました。これで運河開けました。
 1881年オックスフォード大学から名誉学位を受け、1883年には特待校友に選ばれました。1885年にバーミンガム芸術協会会長に就任、1894にナイトに叙せられました。年代順に作品を紹介します。
クララ・フォン・ボルク(ジョーンズ、1860年作)
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セブラ王女(ジョーンズ、1866年作)
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ヘリペリデスの庭(ジョーンズ、1870年作)
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マリア・ザンコバ(ジョーンズ、1870年作)
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この辺りまで、師匠のロセッテイが描いたかと思える程です。
黄金の階段(ジョーンズ、1880年作)
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ロセッテイの呪縛から離れた画題です。
トリニティ教会ステンドグラス(ウィリアム・モリスとの共作、1882年作)
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運命の輪(ジョーンズ、1883年作)
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不吉な顔(ジョーンズ、1887年作)
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廃墟の中の恋(ジョーンズ、1894年作)
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アーサー王最後の眠り(ジョーンズ、1898年作)
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亡くなる年に描いた作品です。予感があったのでしょうか?

 マスター MSは、16世紀初頭に活躍したゴシック末期/ルネッサンス初期の画家です。ハンガリー/スロヴァキアで工房を構えていたようです。本名は分かっていません。現在確認されている作品は、7点のみです。
 歴史家により何人かの候補者(アウグスブルク出身、ミュンヘン出身、ハンガリー人 等々)が挙げられましたが、決め手に欠けた状況です。ルネッサンス/フランドル/(イタリア留学した)ドイツとは違う地域でも、脱ゴシックが進んでいたようです。推定制作年を記載しますが、本当かどうかも良く分かりません。作品を紹介します。
イエスの誕生(マスター MS、1506年作)
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オリーヴの山(マスター MS、1506年作)
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マリアの聖エリザベート訪問(マスター MS、1506年作)
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十字架を運ぶキリスト(マスター MS、1506年作)
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復活(マスター MS、1506年作)
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三賢人の礼拝(マスター MS、1506~1510年作)
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架刑(マスター MS作)
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歴史的、地理学的に面白い画家です。初期フランドル画家ともチョット違う感じですネ。よりゴシックの影響が残っているとの印象です。

 グエルチーノ(1591~1666年)は、バロック期のイタリア人画家です。本名はジョヴァンニ・フランチェスコ・バルビエーリですが、斜視を意味するグエルチーノをあだ名としていたようです。作品を見ていくと、ティッツアーノを彷彿とさせる雰囲気を持っています。
 グエルチーノはボローニャ近くのチェント村で生まれました。ほぼ独学で画家となったようです。1607年(16歳)からボローニャ派画家ベネデット・ジェンナーリの工房に入りました。1615年に(24歳で)ボローニャに移り住みました。そこでルドヴィコ・カラッチから高い評価を受けて、運が開けました。ボローニャ教皇グレゴリー 15世に推薦され、制作依頼が多くなりました。1621年~1623年の間、ローマで制作しました。グレゴリー 15世が亡くなった後、生まれ故郷に戻りました。売れっ子の上制作工期が短く、裕福な後半生を過ごしました。年代順に作品を紹介します。
聖母への祈り(グエルチーノ、1616年作)
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スザンナと長老たち(グエルチーノ、1617年作)
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放蕩息子の帰還(グエルチーノ、1619年作)
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マグラダのマリアと二天使(グエルチーノ、1622年作)
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茨の冠のキリスト(グエルチーノ、1622年作)
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我アルカディアにもありき(グエルチーノ、1622年作)
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無原罪のお宿り(グエルチーノ、1623年作)
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バビロン反乱の知らせを聞くセミラミス女王(グエルチーノ、1624年作)
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ヴィーナス、マース、キューピッド(グエルチーノ、1633年作)
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自画像(グエルチーノ、1635年作)
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ヨセフとポティファルの妻(グエルチーノ、1649年作)
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ゴリテアの首を持つダビデ(グエルチーノ、1650年作)
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聖母子の絵を見せる聖ルカ(グエルチーノ、1653年作)
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占星術の象徴(グエルチーノ、1655年作)
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キリストの埋葬(グエルチーノ、1656年作)
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青の鮮やかさに眼が行きますネ。

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