世界美術館巡り旅

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2017年02月

 フランソワ・ブーシェ(1703~1770年)はロココを代表する画家です。次の時代の新古典主義画家が画壇を握ってから、急速に作品の価値を否定されたようです。
 フランソワ・ブーシェは、パリの刺繍デザインをしていた装飾家の息子に生まれました。父親から絵画の手ほどきを受け、その後国王の筆頭画家だったフランソワ・ルモワーヌの下で修行しました。1723年~1728年の間は、版画・出版業者からの素描依頼・エッチング作品等も手がけました。
 1723年にローマ賞を受賞して、ローマのフランス・アカデミーに1727年~1731年の間留学しました。担当高官から嫌われたか賞品の留学費用がもらえず、自費留学だったようです。1731年帰国後、王立絵画彫刻アカデミーの準会員に選任されました。1734年には、正会員に選任されました。1756年にルイ 15世から、タピストリー製作所の長官に任命されました。1765年には、ルイ 15世から国王の筆頭画家に任命されました。作品を年代順に紹介します。
自画像(ブーシェ、1720年作)
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17歳の時の作品です。既にかなり熟達していたようです。
レベッカとエゼキエル(ブーシェ、1725年作)
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22歳ですでに、画風も画力も完成していたようです。
鳥と天使(ブーシェ、1733年作)
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昼食(ブーシェ、1739年作)
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水浴のディアナ(ブーシェ、1742年作)
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ユピテルとカリスト(ブーシェ、1744年作)
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煌びやかで、ロココの極致という絵です。
マリー=ルイーズ・オミュルフィー(ブーシェ、1751年作)
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ブーシェの絵の間で一番有名で、しばしば紹介されている作品です。
橋(ブーシェ、1751年作)
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ポンパドゥール夫人(ブーシェ、1756年作)
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ポードワン夫人(ブーシェ、1760年作)
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水の上を渡る聖ピーター(ブーシェ、1766年作)
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煌びやかなロココ調の絵も多いですが、古典的な絵も結構描いたようです。古典的な絵も良いですネ。

 カルロス・シュヴァーベ(1866~1926年)は、象徴主義のスイス人画家です。神秘的な作品を多く残しました。人間や光景の内面を描こうとしたようです。
 カルロス・シュヴァーベはドイツ(デンマーク国境近くのアルトナ)に生まれ、その後スイスのジュネーヴに移り住んで美術を学んだようです。やがてパリに移り、象徴主義サークルで活動しました。文学の素養や理解が深かった為、文筆家から本の挿絵製作依頼が多かったようです。年代順に作品を紹介します。
夕暮れの鐘(シュヴァーベ、1891年作)
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25歳の時の絵です。象徴主義に逸って、絵の描き込みが上滑りと感じます。
死の日(シュヴァーベ、1892年作)
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メンドーサ(シュヴァーベ、1895年作)
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この頃(29歳)まで描き込みの粗さや上滑りを感じますが、次の絵以降緻密な描き込みの上質な絵にアップグレードされました。開眼させる何かがあったと思われます。
墓堀人夫の死(シュヴァーベ、1895~1900年作)
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葡萄酒の魂/ボードレール本挿絵(シュヴァーベ、1900年作)
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エリュシオンの野(シュヴァーベ、1903年作)
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波 Ⅲ(シュヴァーベ、1906年作)
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不機嫌と理想(シュヴァーベ、1907年作)
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画家の娘(シュヴァーベ、1909年作)
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30歳でこれほど画風が変わる画家も数少ないと思います。

 ウィリアム・ホルマン・ハント(1827~1910年作)は、ラファエロ前派(自然を忠実に描くことが重要と考える集団)のイギリス人画家です。非常に写実的でありながら独特の色彩感覚(特別な色というより特別にカラフル)の作品を後半生で残しました。
 ウィリアム・ホルマン・ハントは、1948年に(21歳で)ロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツに入学しました。学生時代に、ミレイ、ロセッティとラファエロ前派を結成しました。聖書や伝道の画題が多く、細密描写を心がけました。一生、ラファエロ前派を貫きました。日本では、ミレイやロセッティ程有名ではありませんが、生粋のラファエロ前派画家です。年代順に作品を紹介します。
自画像(ハント、1841年作)
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14歳の時の絵です。既に素晴らしい描写力を持っていたようです。
自画像(ハント、1845年作)
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まだ、18歳の頃の作品です。
我が英国の海岸(ハント、1852年作)
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25歳の頃の作品ですが、恐ろしいほどの細密描写です。
雇われ羊飼い(ハント、1852年作)
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ミレイの肖像(ハント、1853年作)
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ロセッティの肖像(ハント、1853年作)
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良心の目覚め(ハント、1853年作)
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世の光(ハント、1854年作)
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贖罪の羊(ハント、1856年作)
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ここまで羊を描き込んだ絵は、他に見たことがありません。
自画像(ハント、1867年作)
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イザベラとバジルの鉢(ハント、1868年作)
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死の影(ハント、1870年作)
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アマリリス(ハント、1884年作)
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マグダレン・タワーの五月朝(ハント、1890年作)
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シャロットの女(ハント、1905年作)
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78歳の作品です。まだまだ、細密描写を徹底しています。心底からのラファエロ前派だったのでしょう。

 ジョージ・フレデリック・ワッツ(1817~1904年)はイギリス ヴィクトリア朝時代の象徴主義画家です。写実的で独特の(茶色掛かった)作品を多く残しました。
 ジョージ・フレデリック・ワッツは、ロンドンの貧しいピアノ職人の息子に生まれました。10歳頃からウィリアム・ベ^ネスに彫刻を学びました。才能を見込まれて、18歳でロイヤル・アカデミー・オブ・アーツに入学しました。1843年に(26歳で)再建中のウェストミンスター宮殿壁画デザイン・コンテストで応募したスケッチの「Caractacus」が注目を集め、賞を受けました。1840年代中ごろにイタリアを訪れ、ルネッサンスの名作を見て回りました。1860年代に古典主義の影響も受けるようになりました。1881年には、ロンドンに工房を構えました。年代順に作品を紹介します。
自画像(ワッツ、1834年作)
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ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ入学前、17歳の作品です。若いころから、なかなか良い感じの絵を描いていたようです。
ファタ・モルガナ(ワッツ、1848年作)
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イタリアのルネッサンスの作品をたくさん見た影響でしょうか。かなり古典的な絵です。
良きサマリア人の寓話(ワッツ、1852年作)
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若いころの画風と共通した点も感じます。
サー・ガラハッド(ワッツ、1862年作)
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自画像(ワッツ、1864年作)
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新古典主義の絵ですネ。
祈願(ワッツ、1867年作)
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オルフェウスとエウリュディケ(ワッツ、1872年作)
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パオロとフランチェスカ(ワッツ、1875年作)
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イヴリン・テナント(ワッツ、1880年作)
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プシュケ(ワッツ、1880年作)
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希望(ワッツ、1897年作)
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晩年の作品(最後の2枚の絵)に、象徴主義的な面があります。それ以前の絵は、ラファエロ前派の範疇に入るような気もします。ラファエロ前派の中心のロンドンの画壇にいたので、画家同士影響しあったのかと思います。

 アントワーヌ・ヴィールツ(1806~1865年)は象徴主義のベルギー人画家です。独特の雰囲気の裸婦や人物を描いた作品を、多数描きました。
 アントワーヌ・ヴィールツはベルギー ディナイトの貧しい家庭に生まれました。1820年に(14歳で)アントワープ美術アカデミーへ入学した。1829年から1832年の間パリに住み、ルーヴル美術館の作品から学びました。1828年と1832年のローマ賞2位を受賞しました。その褒美で、ローマにあるフランス・アカデミーに留学しました。ベルギーへ帰国後、リュージュで独立しました。
 1839年以降パリのサロンに出品しました。その後政府の協力でブルッセルにスタジオを設け、現在はヴィールツ美術館となっています。年代順に作品を紹介します。
パトロクルスの死体を奪い合うギリシャ人とトロイ人
(ヴィールツ、1836年頃作)
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墓のキリスト(ヴィールツ、1839年作)
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麗しのロジーヌ(ヴィールツ、1847年作)
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小説を読む女(ヴィールツ、1853年作)
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早すぎた埋葬(ヴィールツ、1854年作)
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ギロチンされた首(ヴィールツ、1855年作)
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若い魔女(ヴィールツ、1857年作)
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自画像(ヴィールツ、1860年作)
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地獄のシーン(ヴィールツ、1864年作)
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画法は新古典主義ですが、画題が象徴主義的な画家のようです。

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