世界美術館巡り旅

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2016年12月

 エルンスト・ルートヴィッヒ・キルヒナー(1880~1938年)はドイツ表現主義に分類される画家です。非常に特徴的な作品を多く残しています。
 エルンスト・ルートヴィッヒ・キルヒナーは1880年バイエルン州アシャツフェンブルクで生まれまし。1901年ドレスデン工科大学で建築学を学んだ後、ミュンヘンで美術を学びました。1905年ドレスデンで画家グループの「ブリュッケ(橋の意味)」を結成しました。統一した画風がある訳ではなく、アカデミックな芸術に反抗して結成したようです。1911年にベルリンに移り、1912年カンディンスキーやマルクの画家グループ「青騎士」の展示会に出品しました。
 第一次世界大戦の1915年に徴集され、ザクセン州ハレの砲兵隊に配属されました。間もなく神経衰弱で除隊して、フランクフルト近くのサナトリウムで療養しました。1917年からスイスのダボスで画作に励みました。その後肺結核に至った。
 1933年ナチスドイツにより「退廃芸術」とされ、「退廃芸術展」に32点も展示されました。1938年にピストル自殺して亡くなりました。
 フォーヴィズムに(アフリカ、オセアニアの)原始芸術を取り入れた画風です。年代順に作品を紹介します。
座る女(キルヒナー、1907年作)
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ドレスレンの頃の27歳の絵である。
リビングルームにて(キルヒナー、1908年作)
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日本の日傘と少女(キルヒナー、1909年作)
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マルツェッラ(キルヒナー、1910年作)
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女性の居る自画像(キルヒナー、1910年作)
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街(キルヒナー、1913年作)
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ベルリンに出てカンディンスキーやマルクとの親交を通じて、33歳で画風が定まったようです。
街の5人のの女(キルヒナー、1913年作)
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水浴する三女性(キルヒナー、1913年作)
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街の女性(キルヒナー、1914年作)
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街の女性たち(キルヒナー、1915年作)
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兵士としての自画像(キルヒナー、1915年作)
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兵士の水浴と芸術家(キルヒナー、1915年作)
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病人としての自画像(キルヒナー、1918年作)
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二人の兄弟(キルヒナー、1921年作)
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ブリュッケの画家たちの肖像(キルヒナー、1927年作)
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除隊後数年で、元の画風に戻っていったようです。

 ジョン・コンスタブル(1776~1837年作)はターナーとほぼ同時期に、身近な風景画を描き続けた画家です。美術館で作品をしばしば見ます。オーソドックスな風景画ですが、絵の具を混ぜずに筆触で原色を塗り重ねる技法は、印象派画風の先駆けとも言えます。
 ジョン・コンスタブルは1776年ロンドン北東のイースト・バーゴルドの製粉業者の息子に生まれました。1796年に(20歳で)商売を覚える為に、ロンドンに出ました。ジョージ・スミスという風景画家に出会い、1799年に(23歳で)ロイヤル・アカデミー付属美術学校に見習生として入学し、翌年に正規学生となりました。1802年に(26歳で)アカデミー展覧会に初出品しました。ターナーは27歳でロイヤル・アカデミー正会員となりましたが、コンスタブルは43歳で(1819年に)ロイヤル・アカデミー準会員にやっとなれました。文字通り遅咲きの画家でした。年代順に作品を紹介します。
自画像(コンスタブル、制作年不明)
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制作年は分かりませんが、若い頃の自画像と見えます。
デッドハムの谷(コンスタブル、1802年作)
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26歳の非常に真面目で精緻な風景画です。
フラットフォルド近くの道(コンスタブル、1811年作)
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35歳になり、筆致が激しいというか速くなっています。慣れと言うか自信が出て来たのでしょうか?
フラットフォルドの造船所(コンスタブル、1815年作)
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39歳で画風が固まった(完成した)ようです。精緻で正確な描写から来る、雰囲気が感じられる(臨場感のある)風景画です。
フラットフォルドの製粉所(コンスタブル、1817年作)
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水面が良い感じに描かれています。
デッドハムの水門と製粉所(コンスタブル、1818年作)
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何故かフェルメール作「デルフトの眺望」を思い起こさせます。
乾草車(コンスタブル、1821年作)
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1821年のロイヤル・アカデミー展に出品しましたが、ほとんど無視されたようです。1824年パリの(官立)サロンに再度出展したところ、大絶賛を受けたようです。コンスタブルの名声が轟きました。
主教の庭から見たソールズベリー大聖堂(コンスタブル、1823年作)
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荒れた海(コンスタブル、1824年作)
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ターナーと何か共通したものを感じます。空間と言うか空気を描きたかったようです。
跳ねる馬(コンスタブル、1825年作)
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ストーンヘンジ(コンスタブル、1835年作)
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ひたすら真面目に風景画を描き続けた画家だったようです。

 フェルナン・クノップフ(1858~1921年)は象徴主義の画家に分類される、世紀末美術家です。非常に細長い画面の作品で、独特の雰囲気を醸し出しました。
 フェルナン・クノップフは1858年は裁判所判事の息子に生まれました。父親の仕事の都合で、生まれて間もなく家族とともにブリュージュに移り、1864年(16歳)にはブリュッセルに移りました。1876年に(18歳で)ブリュッセル自由大学法学部に入学しました。文学に傾倒したり、法律に興味をなくして、1876年秋にはブリュッセル王立芸術アカデミーに入りなおしました。パリに何回か出かけて、ドラクロア、アングル、ギュスターヴ・モロー、ミレーの作品を見たりしました。1881年(23歳)ブリュッセルのサロンに出展しました。酷評だったようですが、只一人ヴェルハーレンだけが評価して、生涯支援を続けたようです。
 1889年にイギリスでラファエロ前派の画家(ロセッティなど)と知己を得たり、ウィーン分離派の画家(クリムトなど)とも知己を得ました。晩年は舞台装飾・衣装や、オペラ衣装などのデザインも手掛けました。レオポルド勲章も受けましたが、1921年に(63歳で)亡くなりました。年代順に作品を紹介します。
聖アントニウスの誘惑(クノップフ、1883年作)
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25歳で、まだ自分の画風に迷っていたようです。
ジャンヌ・キーファー(クノップフ、1885年作)
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画風(画法)は固まったようです。写真を撮って、それを見て描いたように思えます。
庭(クノップフ、1886年作)
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この絵は写真を使ってないように見えます。
マルグリット・クノップフの肖像(クノップフ、1887年作)
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ホイッスラーを思い出させる描きぶりですネ。
芝テニスの記憶(クノップフ、1889年作)
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海岸にて(クノップフ、1890年作)
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前例がないほどの横長異形キャンバスの最初の絵と思われます。
沈黙(クノップフ、1890年作)
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自分自身にドアを閉ざす(クノップフ、1891年作)
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モミの木の森(クノップフ、1894年作)
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スフィンクスの愛撫(クノップフ、1896年作)
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何といってもこの絵が一番有名です。
眠れるメデューサ(クノップフ、1896年作)
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ドンドン細長くなってきました。
インセンス(クノップフ、1898年作)
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ミュージシャン(クノップフ、1899年作)
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ミューシャを思い出させます。世紀末芸術になってきました。
女性の頭部(クノップフ、1899年作)
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クリムトも連想させますネ。
見捨てられた都市(クノップフ、1904年作)
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シガレット(クノップフ、1912年作)
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芸術家は、美しさだけでなく斬新さを求めます。古典主義的、ラファエロ前派などの写実的な画法のまま、超異形キャンバスで斬新さを創作しました。そのなかで、世紀末的美しさと気怠さも醸し出しました。

 パオロ・ウッチェロ(1397~1475年)はゴッシックの最晩期とルネッサンス黎明期を繋ぐ画家です。遠近法を積極的に作品へ取り入れたと伝わります。マサッチオと同時代ともいえます。メトロポリタン美術館に展示されている次の濃い女性肖像画をご記憶の方も居られと思います。
女性の肖像(ウッチェロ、1450年代)
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 パオロ・ウッチェロは1397年 フィレンツェ近くのプラトヴェッキに、床屋兼外科医の息子として生まれました。1412年(15歳)から、彫刻家・金細工師のロレンツォ・ギベルティに弟子入りしました。1415年(18歳)にフィレンツェの医師薬剤師組合に登録されています。父親の手配によるものでしょうか。
 1425~27年(28~30歳)の間ヴェネツィアのサン・マルコ聖堂のモザイク装飾に携わったとの記録があるようです。
 1431年にフィレンツェに移り、1436年 フレスコ画の「サー・ジョン・ホークの葬祭の記念碑」で広く知られるようになりました。年代順に作品を紹介します。
聖母の誕生(ウッチロ、1435年作)
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近景と遠景の両方を描き込み、遠近法を使い始めています。
男の肖像(ウッチロ、1430年代作)
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サー・ジョン・ホークの葬祭の記念碑(ウッチロ、1436年作)
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若い男の肖像(ウッチロ、1442年作)
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キリストの誕生(ウッチロ、1445年作)
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大洪水と収束(ウッチロ、1447年作)
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強めの遠近法を使って居ますが、一点消失遠近法からは多少ズレが見られます。
サン・ロマーノの戦い(1450年代作、ロンドン・ナショナルギャラリー版)
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サン・ロマーノの戦い(1450年代作、ウフッツィー版)
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サン・ロマーノの戦い(1450年代、ルーヴル版)
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聖ジョージとドラゴン(ウッチェロ、1456年作)
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聖ジョージとドラゴン(ウッチェロ、1460年作)
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磔刑(ウッチェロ、1465年作)
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 ウッチェロはゴシック画法を色濃く残しながら、遠近法に挑みました。遠景と近景の両方を描き込むことに度々挑みました。一点消失遠近法を完全にはマスター出来なかったようですが、陰影などは描き分けていたように見えます。ルネッサンスの先駆けを果たしたと思います。長い間評価されず、忘れ掛かっていたようです。20世紀に入って、ようやく評価が高まったとの事です。

 アルマン・ギヨマン(1841~1927年)は印象派画家と親交を結んでいました。第一回印象派展も出品しました。作品を見ると古典主義と明らかに違い、特に色使いが印象派・後期印象派の画家に影響を与えたと思えます。
 アルマン・ギヨマンは1841年にパリの労働者階級の家庭に生まれました。1857年に(15歳で)叔父の経営する服飾店で働き始め、夜にはドローイング教室で学びました。1860年に(19歳で)パリーオルレアン鉄道の務め始め、自由時間に絵画の練習を続けました。1866年(25歳)に退職して、アカデミー・シエイスで本格的に絵画を勉強しました。この間に、セザンヌやピサロと親交を深めました。経済的な問題からと思われますが、1868年からパリの土木局で夜勤を務め、昼間に絵を描くという生活を続けました。
 1870年代初頭からピサロとともに、農村から工業化されつつあるポントイーズに移住しました。1874年第一回印象派展に出品するに当たり、無審査の筈ですがドガやモネに出展を拒絶されました。親友のピサロの執成しで、やっと出展出来たようです。絵画制作を続けるなか1891に宝くじ当選で10萬フラン得て、絵画に集中できる環境が整ったようです。1927年にパリの南のオルリーで生涯を閉じました。年代順に、作品を紹介します。
雪の小路(ギヨマン、1869年作)
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28歳の絵です。雪景色は比較的見栄えのする絵が描きやすいです。それを割り引くと、アマチュアとプロの中間ぐらいの技量と見えます。
静物(ギヨマン、1872年作)
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ピサロと一緒に画作に集中し始めて1~2年経ったと思われる時期です。技量が相当上がったようです。
イヴリーの夕暮れ(ギヨマン、1873年作)
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夕焼けの色使いが、素晴らしいと思います。
雪の駅(ギヨマン、1875年作)
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雪の景色は空をモット青くするか、暗い灰色にすると見栄えがする絵になり易いです。雪景色はあまり得意でなかったようです。
横たわる裸婦(ギヨマン、1877年作)
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自画像(ギヨマン、1878年作)
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雪景色(ギヨマン、1879年作)
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灰色の空をモット暗くすると、モット見栄えがすると思います。
釣り人(ギヨマン、1885年作)
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ノルマンディーの風景(ギヨマン、1887年作)
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パリの郊外(ギヨマン、1890年作)
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ここから宝くじが当たって、絵に集中できるようになってからの絵です。
ラヴィンの沼(ギヨマン、1894年作)
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アゲイの眺望(ギヨマン、1895年作)
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川、クローザン(ギヨマン、1910年作)
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アゲイ湾(ギヨマン、1910年作)
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ギヨマンの色使いは、ゴーギャンのそれに強く影響を与えたと思われます。特にゴーギャン前半生の色使いは、ギヨマンのそれに非常に近いと感じます。

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