世界美術館巡り旅

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2016年11月

 エル・グレコ(1541~1614年)は不思議な画家です。肖像画などの作品はオーソドックスな構図を使い、特徴的な色使い(黒の多用)とデッサンで仕上げています。祭壇画は、曲がりくねった構図や複数の視点からの描写が目立ちます。この技法は、「マニエリスム」と呼ばれるようです。ルネサンス後期になると、最盛期ルネサンス画家の技法を誇張したり、歪曲したり、遠近法を誇張したりしたようです。これを「マニエリスム」と呼んで、ルネッサンスと(元来歪んだとか曲がったとかの意味の)バロックの間の画風のようです。エル・グレコはミケランジェロの絵を酷評したが、ミケランジェロのデッサンは(恐らく構図も)絶賛したようです。エル・グレコの祭壇画は、ミケランジェロの構図・画題を誇張したもののようです。
 エル・グレコが1541年にヴェネツィア統治下の(ギリシャの)クレタ島のカンディア(現イラクリオン)で、官吏の息子として生まれました。名前のグレコは、「ギリシャ(人)の」という意味のようです。1563年(22歳)には後期ビザンチン風イコン画を描いていたようです。1566年(25歳)までに、カンディアで親方になっていたようです。
 1567、8年頃にヴェネツィアに渡り、ティツアーノ・ヴェチェッリオに弟子入りしました。アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿の処に出入りしていたが、1572年に解雇されたようです。同じく1572年頃にヴェネツィアのサン・ルーカ画家組合に親方として登録された。肖像画・小型宗教画を描きながらイタリアを放浪し、1576~77年にはローマに定住しました。その後スペインに移住して、トレドに定住しました。1579年制作の「聖衣剥奪」と1582年制作の「聖マウリティウスの殉教」に続き1605年にも、祭壇画の支払い拒否や受け取り拒否で教会と揉め事を起こしました。製作費を大幅減額することで決着したようです。ギリシャ人という事で、不利だったようです。制作年順に、作品を紹介します。
モテナの三連祭壇画(エル・グレコ、1568年作)
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この頃に描かれた他の作品と余りにも画風が違う。不思議である。
ジュリオ・クローヴィオの肖像(エル・グレコ、1568年頃作)イメージ 2
エル・グレコ 1570年の作品
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蝋燭に火をともす少年(エル・グレコ、1572年作)
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エル・グレコの画力の高さを示しています。
悔悛するマグダラのマリア(エル・グレコ、1577年作)
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随分美人のマグダラのマリアですネ。年代的にローマに居た頃の作品となります。
三位一体(エル・グレコ、1577年作)
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キリストの曲がりくねった姿勢に、「マニエリスム」が見え始めています。
聖衣剥奪(エル・グレコ、1579年作)
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「一番高くあるべきキリストの頭より高く背景の人物が描かれている。」というのが、教会からのクレームだったようです。イタリアよりスペインの方が保守的だったようです。
ヘロニマ・デ・ラス・クエバスの肖像(エル・グレコ、1580年作)
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聖マウリティウスの殉教(エル・グレコ、1582年作)
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この絵も、殉教の祭壇画のルールを守っていないと受け取り拒否にあいました。原因は良く分からないのですが、代わりに納入された別の画家の絵を見ると推定が出来ました。そちらの絵では、頭上にキリストが掛かれているのと殉教(殺害)の様子が劇的に描かれていました。エル・グレコの絵は前面で、殉教すべきかローマ皇帝の命令に従うかを議論しています。迷わず殉教しないとスペイン教会が満足しなかったようです。
オルガス伯の埋葬(エル・グレコ、1588年作)
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エル・グレコが最も信頼していたパトロンだったので、精一杯描いたようです。立ち合い人の知識人たちも良く似せて描いたようで、見物する人が多かった。それで世界三大絵画に数えらるそうです。
トレドの眺望(エル・グレコ、1588年作)
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マニエリスム風の風景画という事になります。
オルテンシオ・フェリス・パラビシーノの肖像(エル・グレコ、1609年作)
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エル・グレコの肖像画の最高傑作でしょうか?
無原罪の御宿り(エル・グレコ、1613年作)
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手前の天使から時計回りに聖母マリアの顔に到達する渦巻き状の構図で、奥行きが出ています。これもマニエルスムなんでしょうネ。
羊飼いの礼拝(エル・グレコ、1614年作)
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エル・グレコが自らの死期を悟って描いた最後の作品のようです。これも時計回りの二重渦巻き構図です。キリスト(赤ん坊)に向かっている渦巻きです。彼が到達した究極の祭壇画構図なんでしょうか?

 ドミニク・アングル(1780~1867年)は、「泉」で最も美しい裸婦を描いた画家で知られています。(ナポレオンの肖像画で有名な)ダヴィッドの後継者と位置付けられ、新古典主義派と分類されています。ラファエロに心酔していたようです。
 ドミニク・アングルは1780年フランス南西部のモントーバン近郊の装飾美術家(職人に近く、家具装飾や看板制作をやっていた)の息子として生まれました。幼少期から、ヴァイオリンと絵画を学びました。1792年に(12歳で)トゥールーズのアカデミーに入学しました。
 1797年(17歳で)パリに出て、ジャック=ルイ・ダヴィッドのアトリエに入門しました。1801年に「アキレウスのもとにやって来たアガメムノンの使者たち」でローマ賞を受賞しました。イタリア留学が褒美だったようです。事情があったようで、実行がかなり遅れたようです。
 1806年からイタリア留学に出掛け、1820年まではローマ、その後1824年まではフィレンツェに滞在したようです。留学の間、「浴女」や「グランド・オダリスク」を発表しました。
 1824年にアングルが帰国すると、ダヴィッド後継者として喝采を受けました。1825年にレジオンヌール勲章を受け、アカデミー会員にも選ばれました。1834年にローマのフランス・アカデミーの院長に就任しました。1841年に帰国しました。年代順に作品を紹介しましょう。
男のトルソ(アングル、1801年作)
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自画像(アングル、1804年作)
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玉座のナポレオン(アングル、1806年)
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ここまでが、イタリア留学前と思われます。ダヴィッドの画風を強く引き継いでいます。ここからイタリア留学の影響(効果)か画題も変わりましたし、裸婦も登場します。
スフィンクスの謎を解くオイディプス(アングル、1808年作)
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浴女(アングル、1808年作)
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ジュピターとテティス(アングル、1811年作)
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グランド・オダリスク(アングル、1814年作)
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裸婦の背中が長すぎる(背骨の骨が三個多い)と酷評を受けました。ケチをつけたい批評家が騒いだのだと思います。
アンジェリカを救うルッジェーロ(アングル、1819年作)
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ここからはフランスに帰国して叙勲されたり、アカデミー会員になった直後の絵です。立場を考えた画題を選んだようです。
ルイ13世の請願(アングル、1824年作)
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ホメロス礼賛(アングル、1827年作)
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ルネッサンス風の絵を描く事に、再び飽き足らなくなったようです。
奴隷の居るオダリスク(アングル、1842年作)
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ドーソンヴィル伯爵夫人(アングル、1845年作)
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美しさと気品が両方強く感じられる絵です。
泉(アングル、1856年作)
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1820年頃から画想を練ったとか、描き始めたとか伝わっています。グランド・オダリスクのリベンジと名誉ある立場の両立をさせることに苦心したのでしょう。絵画史で最も美しく清廉な裸婦像だと思います。
トルコ風呂(アングル、1863年作)
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依頼された作品のようですが、卑猥だと受け取り拒否されたようです。その後、縁を丸く塗りつぶしたようです。清廉とは言えない絵です。個人的には、「泉」で描き納めにした方が良かったかと思います。

 ラファエロ・サンティ(1483~1520年)は、ルネッサンスで最も有名な画家の一人です。大きな工房を構え、沢山の作品を残したことが知られています。
 ラファエロ・サンティは、ウルビーノ公国の(詩的才能もあった)宮廷画家の息子として生まれました。母は1491年(8歳の時)に死去、父も再婚後1494年に亡くなりました。11歳で孤児となってしまいました。後見人が父方叔父のバルトロメオで、継母が父の工房を細々と続けたようです。
 ペルジーノの工房に弟子入りして、1501年に僅か18歳でマスターに登録されたようです。次々と作品を描き、若くして工房を経営したようです。37歳で亡くなるまで、多くの傑作を残しました。年代順に作品を紹介します。
自画像のデッサン(ラファエロ、1499年作)
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17歳でこれだけの絵が描けたのですネ。
天使(ラファエロ、1501年作)
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ディオタルヴィの聖母(ラファエロ、1503年作)
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モンドの磔刑図(ラファエロ、1503年作)
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聖母の婚礼(ラファエロ、1504年作)
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大公の聖母(ラファエロ、1504年作)
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一角獣を抱く貴婦人(ラファエロ、1505年作)
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ベルヴェデーレの聖母(ラファエロ、1506年作)
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自画像(ラファエロ、1506年作)
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23歳の自画像です。知的ですが、気が弱そうですネ。
聖ギオルゲルスとドラゴン(ラファエロ、1506年作)
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カンジャーニの聖家族(ラファエロ、1507年作)
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ダ・ヴィンチ作「レダと白鳥」の模写(ラファエロ、1507年作)
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アテナイの学堂(ラファエロ、1510年作)
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ユリウス2世の肖像(ラファエロ、1512年作)
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システーナの聖母(ラファエロ、1514年作)
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小椅子の聖母(ラファエロ、1514年作)
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シチリアの苦悶(ラファエロ、1517年作)
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キリストの変容(ラファエロ、1520年作)
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37歳で亡くなったとは思えないほど、おびただしい数の名品・傑作です。18世紀までは、ヨーロッパの絵画市場取引額の過半(大部分)がラファエロの作品の売買によるものだったそうです。

 ベルト・モリゾ(1841~95年)の作品を紹介しようと思います。彼女本人の絵よりも、彼女をモデルにしたマネの絵の方をご存知の方が多いと思います。彼女は女流画家の先駆けとなりましたが、それなりの苦労も多かったようです。
すみれの花束を付けたベルト・モリゾ(マネ作)
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美しい絵ですネ。モネは彼女を弟子とは扱わず、モデルとして扱ったようです。彼女はバルビゾン派の風景画家コローに7~8年前から師事しており、既にあるレベルに達していたと思います。マネと知り合う前に、サロン入選した経験もあったようです。画家同士がモデルになった事例が多くあり、彼女を画家と認めていたのではないでしょうか。彼女はマネの弟子として扱われたかったので葛藤があったようです。
 ベルト・モリゾは1841年ブールジュで県官吏の子として生まれました。姉とともに、画家を志したようです。1861年に(20歳で)バルビゾン派のコローに師事しました。1864年に(23歳で)2つの風景画がサロン入選を果たしたようです。1868年に(27歳で)エドアール・マネと知り合い、モデルを度々頼まれたようです。マネは彼女を弟子とは扱いませんでした。彼女より7歳年下のエヴァ・ゴンザレスをマネは弟子として扱い、彼女はフラストレーションを感じたようです。1870年に「モリゾ夫人(母)とその娘ポンティヨン婦人(姉)」をサロン出品前にマネに見せた処、マネに手直しされた挙句サロン入選となりショックだったようです。以降サロンには出品せず、印象派展に出品するようになったようです。1874年に(33歳で)モリゾは、マネの弟のウージェーヌ・マネと結婚しました。1895年に(54歳で)他界しました。作品を年代順に紹介します。
ロリアンの小さな港(モリゾ、1869年作)
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モリゾ夫人とその娘ポンティヨン婦人(モリゾ、1870年作)
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マネの画風(特に黒い衣服)を真似ているように見えます。マネは「俺だったらこう描く。」と、素直に手直ししたのだと思います。モリゾは手直しされた事にショックを受けたようです。その絵がサロンで入選したので、更にショックを受けたようです。
バルコニーにて(モリゾ、1872年作)
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マネの画風と共通性を感じる最後のモリゾ作品です。これ以降、マネの画風を真似なくなりました。
ゆりかご(モリゾ、1872年)
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第一回印象派展に出品して、大好評を得たようです。ここで、自分自身の画風を確立したようです。
読書(モリゾ、1873年作)
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蝶を追って(モリゾ、1874年作)
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ワイト島のウジェーヌ・マネ(モリゾ、1875年作)
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舞踏会で(モリゾ、1875年作)
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夏の日(モリゾ、1879年作)
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ジュリー・マネの肖像(モリゾ、1893年作)
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マネとは違う画風を確立できました。
 一方マネの弟子となったエヴァ・ゴンザレスは、マネの画風から脱却して自分自身の画風を確立できなかったようです。彼女の作品を二つ紹介します。
エヴァ・ゴンザレスの作品
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エヴァ・ゴンザレスの作品
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絵は上手いですが、マネの画風から逸脱できてません。マネはモリゾにこうなって欲しくなかったのだと思います。

 ヤン・ステーン(1626~1679年)の作品は、一流と言われる美術館のほぼ全てに所蔵・展示されています。地理的な理由だと思いますが、レンブラント、ルーベンス、フェルメール、ライスダールの絵の近くにさり気なくステーンの絵が展示されています。ステーンの絵を見に行くというほどの魅力は感じませんが、無いと物足りません。映画でいうと、名脇役という感じです。絵は上手いのですが、感動とか衝撃は感じない画家です。チョット興味を覚えて、調べて見ました。
 ヤン・ステーンは1626年(現在オランダの)ライデンの醸造と宿屋を営む家に生まれました。ラテン・スクール(文法学校)を卒業後、ドイツ人画家に師事したようです。1648年に(22歳で)仲間とともに、ライデンの聖ルカ組合を創立しました。風景画家のヤン・ファン・ホイエンの助手などをしていたようです。その後デン・ハーグに移り、ホイエンの娘のマルグリットと結婚しました。ホイエンに見込まれたのでしょうか。
 1654年デルフトへ移り、醸造所を経営したようです。1656~60年に(ライデン北方の)ワルモルトで、1660~1670年にハールレムで作画を続けたようです。1670年にライデンに戻り、宿屋を開業しました。1674年にライデンの聖ルカ組合代表に就任しました。1679年に亡くなったようです。年代順に作品を紹介します。一番若い頃の作品でも1655年(29歳)作のようです。技量的には既に完成していて、以後変わりません。風俗画が多く、新しい画風や画題を求めた形跡はありません。風俗画を割り切って描いて、実業と両立させたと思われます。絵に共通しているのは、注文された肖像画はほとんどない/画題が恋煩いの若い女性・宴会・賭博・娼家など/床が乱雑などです。
リュート奏者に扮した自画像(1655年作)
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往診(1660年作)
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牡蠣を食べる少女(1660年作)
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居酒屋の庭(1660年作)
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婚宴(1660年作)
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酔っ払い(1660年作)
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博士たちとキリスト(1660年作)
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珍しい宗教的画題です。
恋煩いの少女(1660年作)
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宿の外で九柱戯をする人々(1663年作)
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ステーンの代表作の一つのようです。
朝の着替え(1663年作)
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聖ニコラスの休日(1665年作)
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婚約(1668年作)
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訪問者の到着(1668年作)
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おデブの台所(1669年作)
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自画像(1670年作)
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大人が歌えば子供が笛吹く(1670年作)
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セレナード(1775年作)
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庭のパーティー(1677年作)
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画風・画力が全く変わっていません。風俗画を淡々と書いていたようです。画作をビジネスのひとつと割り切っていたのでしょうか?

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