エル・グレコ(1541~1614年)は不思議な画家です。肖像画などの作品はオーソドックスな構図を使い、特徴的な色使い(黒の多用)とデッサンで仕上げています。祭壇画は、曲がりくねった構図や複数の視点からの描写が目立ちます。この技法は、「マニエリスム」と呼ばれるようです。ルネサンス後期になると、最盛期ルネサンス画家の技法を誇張したり、歪曲したり、遠近法を誇張したりしたようです。これを「マニエリスム」と呼んで、ルネッサンスと(元来歪んだとか曲がったとかの意味の)バロックの間の画風のようです。エル・グレコはミケランジェロの絵を酷評したが、ミケランジェロのデッサンは(恐らく構図も)絶賛したようです。エル・グレコの祭壇画は、ミケランジェロの構図・画題を誇張したもののようです。
エル・グレコが1541年にヴェネツィア統治下の(ギリシャの)クレタ島のカンディア(現イラクリオン)で、官吏の息子として生まれました。名前のグレコは、「ギリシャ(人)の」という意味のようです。1563年(22歳)には後期ビザンチン風イコン画を描いていたようです。1566年(25歳)までに、カンディアで親方になっていたようです。
1567、8年頃にヴェネツィアに渡り、ティツアーノ・ヴェチェッリオに弟子入りしました。アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿の処に出入りしていたが、1572年に解雇されたようです。同じく1572年頃にヴェネツィアのサン・ルーカ画家組合に親方として登録された。肖像画・小型宗教画を描きながらイタリアを放浪し、1576~77年にはローマに定住しました。その後スペインに移住して、トレドに定住しました。1579年制作の「聖衣剥奪」と1582年制作の「聖マウリティウスの殉教」に続き1605年にも、祭壇画の支払い拒否や受け取り拒否で教会と揉め事を起こしました。製作費を大幅減額することで決着したようです。ギリシャ人という事で、不利だったようです。制作年順に、作品を紹介します。
モテナの三連祭壇画(エル・グレコ、1568年作)

この頃に描かれた他の作品と余りにも画風が違う。不思議である。
ジュリオ・クローヴィオの肖像(エル・グレコ、1568年頃作)

エル・グレコ 1570年の作品

蝋燭に火をともす少年(エル・グレコ、1572年作)

エル・グレコの画力の高さを示しています。
悔悛するマグダラのマリア(エル・グレコ、1577年作)

随分美人のマグダラのマリアですネ。年代的にローマに居た頃の作品となります。
三位一体(エル・グレコ、1577年作)

キリストの曲がりくねった姿勢に、「マニエリスム」が見え始めています。
聖衣剥奪(エル・グレコ、1579年作)

「一番高くあるべきキリストの頭より高く背景の人物が描かれている。」というのが、教会からのクレームだったようです。イタリアよりスペインの方が保守的だったようです。
ヘロニマ・デ・ラス・クエバスの肖像(エル・グレコ、1580年作)

聖マウリティウスの殉教(エル・グレコ、1582年作)

この絵も、殉教の祭壇画のルールを守っていないと受け取り拒否にあいました。原因は良く分からないのですが、代わりに納入された別の画家の絵を見ると推定が出来ました。そちらの絵では、頭上にキリストが掛かれているのと殉教(殺害)の様子が劇的に描かれていました。エル・グレコの絵は前面で、殉教すべきかローマ皇帝の命令に従うかを議論しています。迷わず殉教しないとスペイン教会が満足しなかったようです。
オルガス伯の埋葬(エル・グレコ、1588年作)

エル・グレコが最も信頼していたパトロンだったので、精一杯描いたようです。立ち合い人の知識人たちも良く似せて描いたようで、見物する人が多かった。それで世界三大絵画に数えらるそうです。
トレドの眺望(エル・グレコ、1588年作)

マニエリスム風の風景画という事になります。
オルテンシオ・フェリス・パラビシーノの肖像(エル・グレコ、1609年作)

エル・グレコの肖像画の最高傑作でしょうか?
無原罪の御宿り(エル・グレコ、1613年作)

手前の天使から時計回りに聖母マリアの顔に到達する渦巻き状の構図で、奥行きが出ています。これもマニエルスムなんでしょうネ。
羊飼いの礼拝(エル・グレコ、1614年作)































































