世界美術館巡り旅

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2016年09月

 2014年7月にアムステルダム国立美術館訪問の合間に、アムステルダムを観光しました。写真を紹介します。
アムステルダム中央駅舎遠景
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アムステルダム中央駅舎前景
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列車で着いたアムステルダム中央駅は、重厚な煉瓦造りの駅舎でした。駅正面の道は、幅の広い運河に面していました。運河には運河めぐり観光船の乗り場がありました。駅の背後には、海が意外と近かった。
運河巡り観光船からの風景
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ハイネの館の近くだったと記憶します。
運河巡り観光船からの窓風景
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運河巡り観光船からの風景
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運河の岸には沢山の小舟が係留されていました。
運河の跳ね橋
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跳ね橋のたもとで
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アムステルダム市内はトラムが走っています。旧市街は比較的狭いので、健脚の人は徒歩で十分移動可能です。歩くと運河や橋が一杯あって、景色が楽しめました。

 「快楽の園」を初めとして、シューレアリスム作品かと見紛う画風のヒエロニムス・ボスを調べて見ました。世代的には初期フランドル派に含まれるが、画風がユニークです。出生や環境を考察する必要があると考えました。
 ヒエロニムス・ボス(1450年頃~1516年)は、ベルギー国境近くの地方都市で画家一族に生まれました。祖父、父、三人の叔父、兄も画家であったようです。裕福な家の娘と結婚し、「聖母マリア兄弟会」に入会して幹部となっていたようです。
 「聖母マリア兄弟会」がどのような会か分からないが、「兄弟」と入っているのと既存教会に問題視していることから、フランシスコ会に近い団体と思われます。聖フランチェスコが弟子などと「兄弟」と呼び合っていたからです。
 13世紀初頭アッシジ(イタリア)のフランチェスコは裕福な家に生まれ、前半生は浪費で過ごしました。病気を機会に「神」を意識するようになり、特にハンセン氏病患者に奉仕をしました。キリスト教の戒律を厳しく守り、堕落した既存教会に反抗しました。これに因んだ「フランシスコ会」は、自ら達を「小さき兄弟会」と呼んでいました。
 ヒエロニムス・ボスの心には、堕落した既存教会への反発、聖人への尊敬、最後の審判への恐れがあったと思われます。それを絵画に表現しました。その際既存教会から迫害されるのを恐れ、難解な比喩・描き換えを行いました。それが、シューリアリスムを連想させると考えます。既存教会勢力(多額の寄付や教義を盾にした制約)に困っていた王侯貴族が、彼の絵に共感して争って依頼・購入しようとしました。時代順にボスの作品を紹介します。
いかさま(1475~80年作)
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在りもしない石を頭の中から手術で取り出すという手品を医師がして、暴利を貪る様子を描きました。それを宗教関係者が手助けしたり、傍観しています。医師だけでなく、既存教会関係者も風刺しています。
引き出されるキリスト(1475~80年作)
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イスラム系の人々(トルコ人達?)に厳しく尋問・痛めつけられたキリストが、民衆の前に引き出されています。女性と子供が一旦塗りつぶされたようです。アダム主義の持ち主が、修正したようです。アダム主義では、既存教会が堕落した原因はトルコ人だと考えていたようです。
快楽の園
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左翼には、神・アダムとエヴァ、尖塔の建物(教会の象徴)内にフクロウ(思慮深い象徴)が居ます。エデンの園と思われます。中央は、現世と思われます。尖塔の建物(教会)内にも、裸婦がいます。教会の堕落を象徴していると思われます。現世では、誰もが堕落していると描きました。右翼は、地獄か最後の審判のように見えます。
聖アントニウスの誘惑
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聖アントニウスは病気の治癒に一生を捧げた聖人です。それに現世を対比させて、風刺していると思われます。この絵では、建物がイスラム風です。
最後の審判
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キリスト教会が良く分かりません。建物もどちらかと言えばイスラム風です。ボスは何を暗示しているのか、相当考察しないと分かりません。今後の課題に残したいと思います。

 ヤン・ファン・エイク(1390年頃~1441年)は初期フランドル派の画家で、その作品はヨーロッパで非常に高く評価されています。日本の美術教科書での扱いとは対照的です。
 ヤン・ファン・エイクの父母の記録はないようです。ただ、兄弟3人(4人かも?)が画家として一流であったようです。恐らく画家の家に生まれたと推定します。1422年から1424年の間、バイエルン公ヨハン3世の宮廷画家をしていたとの記録があるようです。1424年にヨハン3世が死去した後、ブルゴーニュ公フィリップ3世に招かれ、宮廷画家と外交官に任命されていたようです。その後ギルドの上級会員にもなっており、かなり教養の高い画家であったようです。科学的に画法を改良したと思われます。
 兄のフーベルトが1420年に「ヘントの祭壇画」作成を依頼され途中まで進めていたが、1426年に突如亡くなったようです。派遣されていたヤンがスペインから帰国した後に引き継いで、1430年から1432年で完成させたようです。
ヘントの祭壇画(エイク兄弟作、1432年完成)
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赤いターバンを巻いた男(1433年作)
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アルノルフィーニ夫妻の肖像(1434年作)
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裕福な商人からの依頼作品のようです。
ァン・デル・バーレの聖母子(1434年作)
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1430年代で既に一転消失遠近法を意識し、明暗(陰影)により立体感、色彩なども合わせて臨場感も描き切っています。同時期のルネッサン(フィレンツ派)画家よりも、技術力が高いと思います。参考に同時期のルネッサンス画家の作品を紹介します。
東方三博士の礼拝(ファブリアーノ、1423年作)
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十字架降架(アンジェリコ、1432~34年作)
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ルネッサンスの2作品にはゴシック画風が強く残っています。一転消失遠近法から外れている描写もあります。立体感・臨場感が、エイクの作品よりも劣っています。北ヨーロッパ(アルプスより北)の画家が、ルネサンスよりも進んだ画力を持っていた証拠となります。北ヨーロッパでヤン・ファン・エイクが高く評価するのは、当然のように感じます。

 ミケランジェロが最初に師事したのがドメニコ・ギルランダイオと聞いて興味を覚え、画歴と作品を調べて見ました。
 ドメニコ・ギルランダイオ(1449~1494年)は本名がドメニコ・ビゴルディで、1449年フィレンツェの彫金家の息子として生まれました。父親が制作する花飾りがフィレンツェで持て囃されたようです。それで通称が花飾り(ギルランダイオ)のドメニコとなったようです。父親は彫金師にしたかったようですが、本人の希望で画家になったようです。長兄は彫金師になったようです。
 ドメニコ・ギルランダイオが師事した師匠が誰かは記録が残っていないようです。ボッテチェリやペルジーニと同じ世代で、三人でシステーナ礼拝堂の壁画を請け負ったようです。21~22歳で修道院の壁画を依頼されたようで、腕が確かなだけでなく、著名な師匠に師事したと思われます。世代的に可能性がある著名なフィレンツェ画家(工房)は、フィリッポ・リッピ(ボッテチェリが師事)とヴェロッキオ(レオナルド・ダ・ヴィンチが師事)あたりです。ボッテチェリの絵に作風が似たところもあり、フィリッポ・リッピの可能性を感じますがハッキリしません。
 私が良く知っているのは次の2作品ですが、制作年がハッキリしないようです。
トルブオーニの肖像
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女性の肖像
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制作年順にギルランダイオの作品を紹介します。
修道院の壁画(フレスコ画、1471年作)
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フレスコ画は漆喰を壁に塗って、水彩で一気に描き上げます。漆喰が固まる過程で、顔料を取り込みます。書き損じは漆喰の塗り直しからになるので、高い画力が必要です。21~22歳で請け負ったとは、早熟の画家だったと思います。
聖母子像(1470~75年作)
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1473年の作品
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サン・マルコ大聖堂の最期の晩餐壁画(フレスコ画)
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ユダが一人だけテーブルの反対に座っているのは、当時の作法通りとの事です。後ろの木々の描き込みが斬新との評価です。
聖母子と聖人(1479年作)
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30歳で油絵の技法・画力も完成の領域です。
聖母子と僧侶(1483年)
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1488年の作品
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聖母の顔がボッティチェリのそれを思わせる。ボッテチェリやダ・ヴィンチと同世代(数歳違い)だったので、損をした画家ですネ。

 ゴヤの作品中で最も有名な「裸のマハ」と「着衣のマハ」のモデルが誰かとの議論が残っているようである。私もそれに参画したいと思う。ゴヤのパトロンであったスペイン国王カルロス4世の王妃マリア・ルイサ、同じくパトロンのアルバ公爵夫人、ゴヤ友人のバビ神父の愛人(ゴヤの孫マリアーノの証言)が候補となっている。
 先ず2作品を紹介する。
          裸のマハ(1797~1800年作?)
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           着衣のマハ(1797~1803年作?)
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 この2作品はスペイン国宰相のマヌエル・デ・ゴドイの屋敷に飾られていたとの記録がある。ゴドイはゴヤのパトロンの一人である。この二点から考えて、これらの作品はゴドイが発注したか、又は贈られたと思われる。この時代はキリスト教会の締め付けがあり、この2作品はゴドイ邸から門外不出であったと思われる。更にゴドイは1797年に(実質的に王妃マリア・ルイサから)宰相を罷免された。更に、1801年に宰相に復帰した。この2作品は、彼が謹慎中か謹慎あけ直後に描かれたと思われる。謹慎中にこのような絵を制作依頼するとは思えず、第三者から贈られて受け取るとは思えない。贈り主は、カルロス4世か王妃マリア・ルイサのどちらかしか思いつかない。この二人ならばゴドイは受け取るだろうし、その後宰相に復活したことも説明がつく。
 モデルの候補から二人を消去する。
 王妃マリア・ルイスはゴドイを重用し、男女の仲まで疑われたようである。私はありえないと思う。
          カルロス4世の家族(1801年作)
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中央の中年女性が王妃マリア・ルイサである。1751年生まれなので、裸のマハが描かれた時に50歳前後である。彼女がモデルである可能性はない。「若い頃を想像して描かせた。」という仮説は、王妃の現実体形の見苦しさをより強調する。王妃が許すはずがない。更に王妃は14人の子供を産み、ヘトヘトの筈である。色恋沙汰の余裕はないと思われる。カルロス4世は凡庸の人で、王妃マリア・ルイサが国政を取り仕切っていたようである。宰相のゴドイは軍人出身であったが、外交交渉に長けていたようである。王妃マリア・ルイサが国政を果たし、息子に王位を無事継がせるためにゴドイの協力が不可欠であった。色恋沙汰ではなく政治的意味で、ゴドイを重用したと思う。
 もう一人のモデル候補アルバ公爵夫人を考察する。
          白衣のアルバ公爵夫人(1795年作)
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アルバ公爵夫人は1762年生まれで、裸のマハ制作年の頃は40歳直前と思われる。彼女の若い頃を想像して描いたということも、王妃と同じ理由で考えられない。裸婦の顔を彼女の顔に据え替えたというのも考えにくい。謹慎中のゴドイがそのような絵を受け取るとは思えない。アルバ公爵夫人は社交界で王妃マリア・ルイスと競い合った関係である。裸の絵の事を王妃マリア・ルイスに聞かれたら、宰相復帰はなくなる。そのようなリスクを負うはずがない。
 残るモデル候補は、ゴヤ友人のバビ神父の愛人である。恐らく平民であって、ゴヤの孫マリアーノの証言もある。可能性を考察する。
 宰相のゴドイは1767年に軍人(大佐)の息子として生まれた。軍人からスタートして、1792年(25歳)に宰相に任じられた。王妃マリア・ルイサは彼を更に取り込むために、カルロス4世の親戚筋のマリア・テレサ(1780~1828年)に持参金を持たせて、1797年に結婚させた。マリア・テレサは嫌がったが、家名再興を約束して説得したようである。ゴドイはペピータという愛人がいて、結婚後も
同居していた。1797年にゴドイは突然宰相を罷免された。そしてマリア・テレサとの間に子供が生まれた翌年(1801年)宰相に復帰した。生まれた子供の洗礼に、カルロス4世と王妃マリア・ルイサが立ち会って名付け親となった。
           マリア・テレサの肖像(1800年作)
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マリア・テレサの髪と容貌をみると、マハのモデルである可能性はない。
 マリア・テレサは嫌々16歳か17歳で結婚し、ゴドイには愛人がいた。結婚生活が上手く行かなかったと思われる。王妃マリア・ルイサはメンツをつぶされ、怒りのあまりゴドイを罷免したと推定する。二人の間(1800年)に子供が生まれるとお怒りが解けて、ゴドイは再び宰相に任命されたと見える。

 いよいよマハのモデルの推定に入る。結婚が上手く行っていないことに気が付いた王妃マリア・ルイサはゴドイを罷免して、17歳のマリア・テレサとゴドイと面談したのではないか。そして夫婦円満に勤め子宝に恵まれたらゴドイを宰相に復帰させると約束したのではないか。それを受けてゴドイは愛人のペピータを一時遠のけて、夫婦円満に務めたと思う。ゴドイが宰相に復帰してほとぼりが冷めた1805年以降、ペピータとの間に子供が生まれたようである。
 王妃マリア・ルイサが二人に夫婦円満のコツを教える為に、この2枚一組の絵をゴドイ夫婦に贈ったと思う。「裸のマハ」を描いた後に、カモフラージュの為の「着衣のマハ」を描いたというのが通説であるが、私は違うと思う。「着衣のマハ」が「昼間の妻の理想」、「裸のマハ」が「夜の妻の理想」である。王妃マリア・ルイサは夫婦円満のコツを絵で示したのである。
 王妃マリア・ルイサから注文を受けたゴヤは困ったが、王妃の注文を受けざるを得なかった。2枚の絵を見る限り、とても想像で描ける内容ではない。実際のモデルが必要だった思われる。この時代、裸のモデル探しは難しい。目的は正しいので、友人のバビ神父に相談したのではないか。バビ神父の愛人をモデルにマハを描いたと思う。その様子を子供(娘)が目撃して、更に娘(孫のマリアーノ)に伝えたと思う。
 1820年過ぎにキリスト教裁判でゴヤは、注文主とモデルを詰問されたようである。ゴヤは既に死んだアルバ公爵夫人と答えて、親友のバビ神父を守ったのである。
 私の考察が正しいかどうかは分からないが、三人のモデル候補の間ではバビ神父の愛人の可能性が一番高い。更に孫のマリアーノの証言もある。彼女が嘘を言う理由が思いつかない。マハが貴族である可能性は限りなく低いと思う。
 ゴヤが別のルートでモデルを見つけた可能性はゼロではないが、非常に低いと思う。

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