ゴッホの絵画を多数見た経験から、私が感じる傑作と世評にズレがある事が分かった。私が選ぶベスト・スリーは下記です。
跳ね橋(1888年作、クレラー・ミュラー美術館所蔵)

4本の切ったひまわり(1887年作、クレラー・ミュラー美術館所蔵)

カニ(1888年作)

これらの三作品は、ゴッホの画力がピークを迎えた1887~1888年に描かれています。画力/美しさ/斬新性ともに出色の傑作です。
ゴッホの画歴を紹介します。牧師の息子に生まれたゴッホは、牧師になることを諦めて画家を目指す決心をしたのが1880年頃のようです。弟の理解と仕送りで、画家になるべく研鑽に励みました。年上の女性に求婚したり娼婦と同棲したりと、女性関係ではトラブル続きの人生だったようです。
ゴッホの画力の源泉は、たぐいまれな鉛筆デッサン力です。上記三作品は、その技量を遺憾なく発揮しています。
1880~1882年
鉛筆デッサンに僅かに色彩を載せたような画風です。1882年頃に
売れやすい風景画を描く事を勧められ、描き始めました。
1883~1885年
ミレーの影響か農民の生活を描くことを目指します。1885年に父が
亡くなり、集大成として「馬鈴薯を食べる家族」を描きました。
馬鈴薯を食べる家族(1885年作)

1885年11月にアントワープに移住しましたが、間もなく居られなく
なりました。
1886~1887年
モンマルトルの弟の部屋に転がり込み、画塾に数か月通いました。
売れることを期待してか、風景画に加え花の絵を描き始めました。
様々な画風を試してみたり、多数の自画像を描きました。「なぜ自分の
描いた絵が売れないのだろう?」と、自分を責めたと思われます。
花の絵(1886年作)

1888年
ゴーギャンの絵に惚れ込み、同居して制作に励みました。暫くすると、
お互いの絵に口出しするようになり喧嘩別れしました。
葡萄畑の収穫(1888年作)

1889~1890年
精神を侵されて、精神病院に入院したりしました。糸杉が代名詞ですが、
このころから描き始めた題材だったようです。
ひまわり(1989年作)

耳を切った自画像(1889年作)

カラスの居る麦畑(1890年作)

ゴッホはゴーギャンのデッサンの不備(不整合)を散々指摘して、ゴーギャンはゴッホに「記憶で描け。(デッサンに拘りすぎるな?)」と反論したようです。
ゴーギャンの助言の為か、精神の問題(根気が無くなった)か1889年以降、ゴッホの抜群のデッサン力は影を潜めてしまいました。ゴッホは自分の絵が売れる/認められる事を望んで(焦って)、1886年以降様々な画風を試しては諦めるのを繰り返しました。1887年から1888年の画風を自分の画風と定め、その画風を守れば生前に名声が得られたのじゃないかと考えるのは邪推でしょうか?
ゴッホが自分のデッサン力を封印した以降の作品が、死後持て囃されるとは不思議なものです。写実的な絵の進歩が止まってしまい、セザンヌ/アンリ・ルソー/モディリアーニ等のヘタウマが持て囃された時代背景があるのでしょうか?



















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