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 2015年11月にプーシキン美術館(モスクワ)を訪問しました。本館の建物から細い道を隔ててヨーロッパ絵画館が建てられて、そこに展示されていました。今回は、ポール・セザンヌ作「ピエロとアルルカン」を紹介します。
 ポール・セザンヌは1839年に南仏エクス・アイ・プロヴァンスで、帽子行商出身の銀行家の息子として生まれました。地元の中学時代(13歳の頃)、後に高名な小説家となるエミール・ゾラがパリから転校してきました。余所者と虐められていたゾラに話しかけた事から、セザンヌは袋叩きになりました。翌日ゾラがリンゴ入りの籠を贈り、後に天文学者になるバティスタ・バイユと三人で親交を深めました。
 1857年(18歳)からエクス・アン・プロヴァンスの私立素描学校に通いました。1858年からエクス・アン・プロヴァンス大学法学部に通いました。ゾラから誘われて1861年にパリに行きましたが、官立美術学校から入学を断られました。画塾のアカデミー・シュイスに通いました。同じ年の9月には故郷に帰り、父の銀行に勤めながら美術学校に通いました。一年でパリに戻り、絵の修行に励みました。
 1874年第一回印象派展に3作品を出品しました。その後もサロン出展を目指し続けて印象派リーダーと気まずくなり、1878年に故郷に帰り画作を続けました。1882年(43歳)に「L・A氏の肖像」でサロン・ド・パリに初入選しました。審査員の弟子という事にして、審査員弟子一人の入選枠を使ったようです。要するに裏口入学のようなものです。
 1886年に父が亡くなり、多額の遺産を受け継ぎました。1890年頃から糖尿病を患いました。1895年に初個展、死後の1907年に回顧展が開かれましたが、酷評を受けました。1925年頃から評価が急に高まりました。
 1886年に父親が亡くなり遺産相続し、長年連れ添った内縁の妻と正式に結婚しました。エクス・アン・プロヴァンスでの隠遁生活も落ち着いたころの作品です。セザンヌは幾つかの画風で作品を描いていますが、「カード遊びをする人々」の画風の最初の作品がこの「ピエロとアルルカン」だと思います。「カード遊びをする人々」は安定した構図ですが、逆に動きがないつまらない構図です。こちらの方が出来が良いと思います。
ピエロとアルルカン(セザンヌ、1888年作)

カード遊びをする人々(セザンヌ、1890~92年作)

 2015年11月にプーシキン美術館(モスクワ)を訪問しました。本館の建物から細い道を隔ててヨーロッパ絵画館が建てられて、そこに印象派・後期印象派作品が展示されていました。今回は、伝ルノワール作「むーらん・ド・ギャレットの中庭」を紹介します。
 ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841~1919年)は仕立て屋の末っ子に生まれ、磁器工場の絵付け職人になりました。1858年に失職して画家を目指し、1862年にエコールド・ボザールに入学し、モネ、シスレー等と知己をえました。一緒に絵を描いたりしていましたが、1876年に「ムーラン・ド・ギャレットの午後」を描き上げました。それの習作かなんかの位置づけだと思われますが、描写が甘い。1876年制作の「ムーラン・ド・ギャレットの午後」、「日光の下の裸婦」ともに、日の光、日陰などが実に美しく・正確にに描かれています。「ムーラン・ド・ギャレットの中庭」には光も日陰も感じません。左側の女性の衣装は、「ムーラン・ド・ギャレットの午後」の前方中央の女性のそれを意識していると思われますが、登場人物の描写がぼんやりとしています。左側女性の足元に暗い部分が描かれています。そうだとすれば晴れで、もっと木漏れ日の光景になっていると思われます。「ムーラン・ド・ギャレットの午後」、「日光の下の裸婦」を描いた画家が、同じ時期にこのような絵を描くとは考えにくい。
 「黒い服の娘たち」と「女優ジャンヌ・サマリーの肖像」は真作と思います。他の画家では、この絵は描けないと思います。
ムーラン・ド・ギャレットの中庭(伝ルノアール、1876年作)
黒い服の娘たち(ルノアール、1881年作)
女優ジャンヌ・サマリーの肖像(ルノアール、1877年作)

ムーラン・ド・ギャレットの午後(ルノワール、1876年作、オルセー美術館蔵)

日光の下の裸婦(ルノアール、1875~76年作、オルセー美術館蔵)
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 2015年11月にプーシキン美術館(モスクワ)を訪問しました。印象派/後期印象派画家の作品に集中して、質の高い作品が多く展示されていました。本館の建物から細い道を隔ててヨーロッパ絵画館が建てられて、そこに展示されていました。今回は、クロード・モネ作「草上の昼食」を紹介します。
  クロード・モネ(1840~1926年)はパリで生まれ、5歳ころからノルマンディ地方のル・アーヴルで育ちました。1859年パリに戻り、画塾で絵を学び直しました。1865年にサロン・ド・パリに初入選しました。エドゥアール・マネ作「草上の昼食」に刺激を受けて、自分はもっとすごい(縦横が4~5メートルで、人物画等身大の)絵を描いて、サロンに出品しようと考えました。パリ郊外で部屋を借りて、大作「草上の昼食」の制作を始めました。貧困で家賃が払えないうえ、作品が部屋の外に持ち出せないことが分かりました。モネは作品を形に(部屋内に残して)、家賃も払わず退去しました。この作品が分解されて、一部がオルセー美術館で所蔵・展示しています。絵をよく見ると、仕上げ(最後の一塗)がされていないようです。
 プーシキン美術館所蔵品は全体像はオルセー美術館所蔵品とほぼ同じで、女性の衣装が一段と豪華です。この作品は最後の一塗がされている完成作品です。オルセー美術館所蔵品を描くために、事前に作品を描いて完成させたようです。これを更に大きくしてサロン・ド・パリに出品しようとして、挫折したようです。プーシキン所蔵作品は出来が良い。この作品をサロン・ド・パリに出品すれば入選して、高い評価を得たように思えます。成功にもっと早く近づけたような気がします。惜しかったですネ。
草上の昼食(クロード・モネ、1865年作、プーシキン美術館蔵)
r/HistoricalCostuming - Anyone ever seen a reproduction of this yellow dress?
モネ作「草上の昼食」の横で
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草上の昼食(エドゥアール・マネ、1862~63年作、オルセー美術館蔵)

草上の昼食中央部(クロード・モネ、1865~66年作、オルセー美術館蔵)

草上の昼食の中央部・左側部合体の様子
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草上の昼食左側部(クロード・モネ、1865~66年作、オルセー美術館蔵)


庭の中の女たち(クロード・モネ、1866年作、オルセー美術館蔵)


 2015年11月にプーシキン美術館(モスクワ)を訪問しました。印象派/後期印象派画家の作品に集中して、質の高い作品が多く展示されていました。今回は、アンリ・マティス作「金魚」を紹介します。
  アンリ・マティス(1869~1954年)は、フランス北部で豊かな穀物商人の長男に生まれました。父親の意向で、1887年パリで法律を学び、1888年に法科資格に合格、法律事務所の書記の職を得ました。1889年盲腸炎の療養中に母親から絵画の道具を送られ、絵画に興味を持ちました。1891年からアカデミー・ジュリアンに通い、官立のエコール・デ・ボザールを目指しましたが入学できず。熱意を買われて、ギュスターブ・モローが個人指導をしました。1896年の国民美術協会サロンに4作品を出品、1作品が国家買い上げとなりました。「読書をする女性」という作品ですが、これが何故国家買い上げになったかは謎です。国民美術協会は衰退したのを風俗画家や彫刻家が再興し、サロン・ド・パリからの分離・独立で運営されていたようです。
  アンリ・マティスは法科資格に難なく合格し、絵画を急に目指して予備校に通ったが正式な美術大学には入れず、予備校教師だったギュスターブ・モローの個人指導を受けました。恐らく写実的な絵画では限界を感じ、新たな技術模索を重ねました。開眼の切欠がシニャックの分割画法(点描)を使った「豪奢、静寂、逸楽」で、シニャックが大喜びで買い上げた。経歴と初期の絵から見て、「日曜画家」という感じです。色彩感覚とデザイン(画面の分割)感覚は独特で魅力的なんですが、デッサン力の裏付けがあまり感じられません。そんな感じの作品が多いマティスですが、この「金魚」は他の画家が描いたことの無いレベルの傑作です。
  テーブル(下皿)の円、水槽底の円、水面の円、水槽の端の二重円がリズミカルに積みあがっています。それらを手すりや草花で囲んでいます(安定化させています)。水槽の中で金魚が、乱れた方向に漂っています。テーブルの脚は貧弱で細いが、周りの草花のお陰で倒れる感じはしません。
金魚(アンリ・マティス、1912年作)

読書をする女性
(アンリ・マティス、1895年作、ポンピドゥ―・センターからマティス美術館に貸与)
豪奢、静寂、逸楽(アンリ・マティス、1904年作、オルセー美術館蔵)
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 2015年11月にプーシキン美術館(モスクワ)を訪問しました。印象派/後期印象派画家の作品に集中して、質の高い作品が多く展示されていました。今回は、ポール・ゴーギャン作「ジヌー夫人」とその他の作品を紹介します。
 ポール・ゴーギャン(1848~1903年)はパリでジャーナリストの息子に生まれました。ナポレオン三世のクーデターでパリを逃れ、母親の親戚を頼ってペルーに向かいました。父親が公開中に亡くなりました。7歳までリマで育ち、その後父方の親戚を頼ってオルレアンに移住しました。商船の水先案内見習い、兵役を務め、1871年からパリ証券取引所の仲買人と絵の仲買を始めました。1873年から絵を描き始めました。1882年の下部暴落で収入が減りルーアンに移住、更に妻と家族はコペンハーゲンに移住しました。その後はポンタヴェン、タヒチと流住み、妻や家族から見放される生活でした。他人を批判したり、対立したりで、困った性格だったようです。
  1887年にパナマに友人と行き、(フランス植民地)マルティニーク滞在中に破産、パリへの帰国を要請されました。これを抜け出してマルティニークに滞在し続け、いくつかの作品を描いた。パリ帰国後グーピル商会のゴッホの弟のテオに評価され、買い上げられた。1891年からタヒチに移住して一旦パリに戻ったが、1895年から再びタヒチに移住した。
  「アルルの夜のカフェ ジヌー夫人」は1888年秋にアルルでゴッホと合流した直後に描かれた作品です。ゴッホもジヌー夫人を描いています。ゴーギャンのジヌー夫人の方が人間的温かみを感じますね。
  その他のゴーギャン作品も充実していて、特に最後の絵は名品と感じましたが、インターネットで調べても良く分かりませんでした。
アルルの夜のカフェ ジヌー夫人(ポール・ゴーギャン、1888年作)
Night Cafe in Arles (Madame Ginoux), 1888 - Paul Gauguin
アルルの女 ジヌーふじん(ヴィンセント・ファン・ゴッホ、1888年作) 
嫉妬するの?(1892年作)
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働くなかれ(1896年作)
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彼女の名はヴァイラウマチ(ポール・ゴーギャン、1892年作)
博物館品質の複製|ポール・ゴーギャン(1848-1903、フランス)によるヴァイラウマティ・テイ・オア(彼女の名前はヴァイラウマティ)|WahooArt.com
異国の鳥のある静物(1902年作)

自画像(ゴーギャン作)
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ゴーギャンの作品
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