世界美術館巡り旅

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2023年02月

 2012年7月にルーヴル美術館(パリ)を訪問しました。今回はレオナルド・ダ・ヴィンチ作と伝わる「ミラノの貴婦人の肖像」を紹介します。
 この絵は「ラ・ベル・フェロニエール(美しき金細工商)」と呼ばれていたようです。モデルはミラノ公ドヴィーコ・スフォルツアの公妃ベアトリーチェ・デステという説と公妃の女官で
ドヴィーコ・スフォルツア愛人のルクレツィア・クリヴェッリという説があり、後者の方が優勢だそうです。私は同じくミラノ公ドヴィーコ・スフォルツアの愛妾チェチリア・ガッレーラを描いたと言われる「白貂を抱く貴婦人」との比較から、公妃ベアトリーチェ・デステがモデルだと考えます。理由は下記です。
① 両作品の縦横比は全く同じ1.4倍で、大きさは「ミラノの貴婦人の肖像」の方が、
  一回り大きい。画家への報酬も高く、愛妾よりも高貴な女性がモデルの筈です。
② 「ミラノの貴婦人の肖像」の女性の前には手摺が描かれています。鑑賞者や画家が
  近づいてはいけない高貴な女性だと描かれています。「愛妾の白貂を抱く貴婦人」
  の方には手摺が描かれていません。愛妾より高貴な女性がモデルです。
 この作品がレオナルド・ダ・ヴィンチの真筆かどうかで異論があり、ルーヴル美術館も贋作の可能性を前面否定していません。多数のレオナルド・ダ・ヴィンチ作品を見た経験から、これは真筆だと思います。理由は下記です。
① 真筆だという事に異論のない「
白貂を抱く貴婦人」と縦横比率が全く同じで、一回り
  大きい。ミラノ公妃ベアトリーチェ・デステと整合しています。
② 左に捻ったポーズと視線(瞳)が正面を見ていないのも白貂を抱く貴婦人」と同じ。
  レオナルド・ダ・ヴィンチの美意識のようです。
  背景も暗い。
         
ミラノの貴婦人の肖像(伝レオナルド・ダヴィンチ、1490~96年作)
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白貂を抱く貴婦人(レオナルド・ダ・ヴィンチ作)

ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像(伝レオナルド・ダ・ヴィンチ作)


 2012年7月にルーヴル美術館(パリ)を訪問しました。今回はアンゲラン・カルトン作の「アヴィニョンのピエタ」を紹介します。
 アンゲラン・カルトンは1410年頃にフランス北部で生まれ、フランドルで絵の修行をしました。1444年に南仏アヴィニョンに移り住みました。この地で幾つかの祭壇画を残しました。
 この絵は19世紀末にアヴィニョンからローヌ側を渡ったヴィルヌーブ・レザヴィニョン(アヴィニョンの新しい村の意味)の教会で発見されました。背景などにはゴシックの影響が色濃く出ていて、人物はフランドル風に描かれています。キリスト遺体は痛みからか逆海老ぞり、右のマグダラのマリアは大きく前(左)に傾き、聖母マリアも画面左に首を傾けています。一方聖ヨハネは画面右に首を傾けています。非常に妙な人物配置ですが、全体ではアーチ状で安定感のある構図です。左端には寄進者(製作依頼者)が描かれています。イタリアにはほしっく、北にはフランドル絵画が隆盛のなか、後進地の南仏に傑作が生まれました。ルーヴル美術館の最高所蔵品という評価もあるようです。
         
アヴィニヨンのピエタ(アンゲラン・カルトン作)

 2012年7月にルーヴル美術館(パリ)を訪問しました。今回はフラ・アンジェリコ作の「聖母の戴冠の祭壇画」を紹介します。
 フラ・アンジェリコはフィレンツェ北部で生まれ装飾写本家として生計を立てていたが、二十代半ばで修道会に入信して、フラ(修道士)を名乗るようになった。この祭壇画はフィレンツェに新しく造られたサン・マルコ修道院に移る直前に描かれたと思われる。
  ゴシックの時代であったが、アンジェリコはルネッサンスの萌芽を含んだ作品を描いた。青が美しい作品です。戴冠を見る人々や聖人はよそ見をしたり、個人間で喋ったり、まちまちの行動をしています。ゴシックでは作法や形式に五月蠅く、このような祭壇画を描かないと思います。例えばジョットなどは、聖母の戴冠の方向を皆向いています。ルネッサンスの画家が描く聖母の戴冠は、周りの人々がまちまちの方向を向いたり、私語をしたりしています。これもルネッサンスの萌芽です。
         
聖母の戴冠の祭壇画(フラ・アンジェリコ、1434~35年作)
         

 2017年6月の南仏旅行の際、グラネ美術館(エクス・アン・プロヴァンス)に行きました。画家だったグラネが収集した作品を中心に所蔵・展示している美術館です。アングル作品が目玉の美術館ですが、今回はエミール・ルーボン作の「カマルグで群れを導くリーダー」を紹介します。
 エミール・ルーボンは1809年にプロヴァンスの裕福な商人の家に生まれ、地元の画家たちに学びました。1829年にグラネに誘われて、ローマに2年程留学しました。地元で美術学校教授をしたりしていました。プロヴァンスの風景を多く描きました。1859年にレジオンドヌール勲章を受賞しました。
  エミール・ルーボンはプロヴァンスの風景と家畜を多く描きました。カマルグというのは地名で、ローヌ側と地中海に囲まれた三角州地帯のようです。牛や馬などの家畜動物を放牧し、半野生化した家畜もいたようです。他の作品も少し紹介します。
カマルグで群れを導くリーダー(エミール・ルーボン作)
カマルグで群れを導く頭   エミール・ローボン
アンティーブからニースへの道 (エミール・ルーボン作)

市場のある日のマルセイユの風景(エミール・ルーボン作)

 2017年6月にカルヴェ美術館(アヴィニョン/南フランス)を訪問しました。アヴィニヨン旧市街のひっそりした通りで、美術館の門を見つけました。今回はシャイム・スーティン作の「没落」を紹介します。
 シャイム・スーティンは1893年ロシアの貧しいユダヤ系家族の10番目の子として生まれました。病弱で兄弟からも厄介者扱いを受けました。17歳から3年間リトアニアの美術学校に学びました。その後パリに出て、エコール・デ・ボザールに通いました。シャガール、レジェと集団生活も送りました。モディリアーニが支援しました。画商の費用で、1920~21年に南仏セレに滞在しました。その頃の作品がカルヴェ美術館に所蔵されているようです。
 1923年にアメリカのコレクターのアルバート・C・バーンズがギョームの画廊でスーティン作の「ケーキ職人」を見て感動、そこにあった全作品を買い上げました。アメリカで展示会を開き、大好評でした。その評判がパリに伝わって、パリでも高評価を受けるようになりました。
 カルヴェ美術館の所蔵品は大評判になる直前の頃の作品です。
 この「没落」は(モデルに失礼と思われる)製作時の作品名とは考え辛く、後の命名と思います。スーティンの絵の具を擦り付けるような荒々しい描き方では、その汚らしさを打ち消すような「白」の面積が重要なようです。「白」の面積比率が高い程見栄えがして、代表作となっています。一番有名な「ケーキ職人」も白い衣装が目を引き付けます。
 「没落」は白い部分が殆どなく物足りませんが、スーティンらしさが良く現れています。

没落(シャイム・スーティン作)
「没落(スーチン作)」の前で
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ルションノセレの村(スーチン作)
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スーチンの珍しい風景画です。
エイの静物画(スーチン作)
村の白痴(スーチン作)
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村の白痴(スーチン作)」の前で
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老人の肖像(スーチン作)
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 スーティンの作品は筆跡が荒々しい写真(特に「小さなケーキ職人」)で見て、もっと小さな作品だと思っていました。結構太い筆で、ダイナミックに描かれていました。調べると「小さなケーキ職人」も同じくらいの大きさでした。

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