世界美術館巡り旅

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2017年12月

 マックス・エルンスト(1891~1976年)はドイツ生まれの画家で、ダダイスムからシュルレアリスムへ移行しました。作風は多岐に亘ります。
 マックス・エルンストはドイツ ケルン近郊のブリュールで、アマチュア画家で聾唖学校教師の息子に生まれました。1909年から1912年の間ボン大学で哲学や美術史を学びました。1912年にアウグスト・マッケの「ライン地方表現主義者グループ」に入会しました。「青騎士グループ」とも接触しました。
 1914年第一次世界大戦に砲兵隊員として従軍しました。1916年にはダダイストの展覧会に参加しました。1919年にはパウル・クレーやキリコと知己を得ました。1920年にはポルノグラフィー制作容疑で起訴されました。
 1922年パリに出て、1923年アンデパンダン展に出品、1924年にはキュビストとして賞賛を受けました。その後その作品はナチスによって「退廃芸術展」に展示されて、晒し者にされました。シュールレアリスム宣言に共感して、合流しました。
 1941年米国に脱出しました。第二次世界大戦後の1949年に、パリへ戻りました。1954年ヴェネツィア・ビエンナーレで大賞を受けました。1956年にベルリン芸術アカデミー会員に選ばれました。1958年にフランス市民権を得ました。年代順に作品を紹介します。
自画像(マックス・エルンスト 1909年作)
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18歳で大学1年生の時の作品です。上手いとは言いづらいですが、迫力ありますネ。
架刑(マックス・エルンスト 1913年作)
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この絵も次の何枚かも、表現主義の影響を強く受けています。
塔(マックス・エルンスト 1916年作)
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手に帽子、頭に帽子(マックス・エルンスト 1919年作)
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家族旅行(マックス・エルンスト 1919年作)
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どちらともとれる人型(マックス・エルンスト 1919年作)
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この絵も次の絵も、キリコからの影響が見られます。
水没(マックス・エルンスト 1919年作)
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雲の上(マックス・エルンスト 1920年作)
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ダダイスムとシュールレアリスムの影響が出て来ました。
病んだ仔馬の脚(マックス・エルンスト 1920年作)
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ダダとゴーギャン(マックス・エルンスト 1920年作)
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パンチングボール、又はブオナローティの不滅
(マックス・エルンスト 1920年作)
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プレイアデス(マックス・エルンスト 1920年作)
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中国のナイチンゲール(マックス・エルンスト 1920年作)
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言語ー女ー鳥(マックス・エルンスト 1921年作)
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友達の再会(マックス・エルンスト 1922年作)
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ひらひらする女性(マックス・エルンスト 1923年作)
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美しい季節(マックス・エルンスト 1925年作)
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三人の目撃者の前で幼いキリストの尻を叩く聖母
(マックス・エルンスト 1926年作)
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花と貝(マックス・エルンスト 1929年作)
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庭の飛行機罠(マックス・エルンスト 1935年作)
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野蛮人(マックス・エルンスト 1937年作)
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米国脱出前の苦しい気持ちを表しているのでしょうか?
対立教皇(マックス・エルンスト 1942年作)
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カクテルを飲む人(マックス・エルンスト 1945年作)
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ユークリッド(マックス・エルンスト 1945年作)
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メドーサ色のコロラド(マックス・エルンスト 1953年作)
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眠りの後(マックス・エルンスト 1958年作)
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ツバメの巣(マックス・エルンスト 1966年作)
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星雲の誕生(マックス・エルンスト 1969年作)
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ありふれた光景 少女死悪魔(マックス・エルンスト 1971年作)
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ライラック(喪)の夕の道(マックス・エルンスト 1975年作)
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哲学・政治に拘って、表現主義/ダダイスム/シュールレアリスム/キュビスムと様々な画風・作風を試しました。晩年は政治や哲学から解放され、純粋に美を求めたように感じますが、皆様はどうでしょうか?

 オーラス・ヴェルネ(1789~1863年)はフランス人の歴史画・戦争画などの画家です。
 オーラス・ヴェルネはパリで、画家のカルル・ヴェルネの息子に生まれました。画家だったクロード・ジョセフ・ヴェルネの孫に当たります。父から手ほどきを受け、古典主義を超えたいとフランス兵などを描いていました。
 後にフランス王ルイ・フィリップとなるオルレアン公から戦闘画を依頼されました。以降主要なパトロンの一人となりました。7月王政でナポレオン3世がパトロンとなりました。クリミア戦争では従軍画家となりました。1829~34年にはローマにあった(フランスからの公式留学生に教える)フランス・アカデミーの総督となりました。年代順に作品を紹介します。
マルムーク王の肖像(オーラス・ヴェルネ 1810年作)
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アルプスでのナポレオン軍の戦い(オーラス・ヴェルネ 1814年作)
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ナポレオン1世の肖像(オーラス・ヴェルネ 1815年作)
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傷ついたラッパ兵(オーラス・ヴェルネ 1819年作)
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ナポレオンの墓(オーラス・ヴェルネ 1821年作)
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画家のアトリエ(オーラス・ヴェルネ 1822年頃作)
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マザッパと狼(オーラス・ヴェルネ 1823年作)
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アルコル橋のボナパルト(オーラス・ヴェルネ 1826年作)
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オリンプ・ペレッシャー(オーラス・ヴェルネ 1830年作)
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ニコライ1世(オーラス・ヴェルネ 1830年作)
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貴婦人の肖像(オーラス・ヴェルネ 1831年作)
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自画像(オーラス・ヴェルネ 1832年作)
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議論するアラブの族長たち(オーラス・ヴェルネ 1834年作)
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自画像(オーラス・ヴェルネ 1835年作)
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ユダとタマール(オーラス・ヴェルネ 1840年作)
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メキシコ遠征の場面(オーラス・ヴェルネ 1841年作)
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スルロ通りのバリケード(オーラス・ヴェルネ 1849年作)
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死の天使(オーラス・ヴェルネ 1851年作)
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傭兵(オーラス・ヴェルネ 1860年作)
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画力でフランス革命変動期を無事乗り越えたようです。

 アシル・アンプレール(1829~1898年)はフランス人画家です。セザンヌが描いた「アンプレールの肖像」のモデルで有名です。
アンプレールの肖像(セザンヌ 1868年頃作)
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セザンヌの絵の間で、最も執着して描かれたと思われます。モデルへの友情と尊敬が原動力だったと思います。
 アシル・アンプレールは南仏のエクス・アン・プロヴァンスで生まれました。生まれつき体が小さく、背骨が曲がった障害を持っていました。地元で1844年(15歳)から1856年(27歳)まで絵を学びました。1858年からパリに移り、トマ・クチュールの塾に通いました。貧乏で苦しい生活だったようです。パリで初めて展覧会に出品するために、前日に作品へワニスを塗りました。翌日作品はひび割れてしまい、以後二度とワニスを使わなかったと伝わります。絵の様子を見ると、ワニス側よりも彼の描き方に問題があったのではないかと思います。1861年にセザンヌと親しくなり、友情を育みました。画風はセザンヌとは一線を画していました。
 やがて徐々に名前が知られ、ルーヴル美術館から注文を受けて1000フランを得ました。そのお金で借金を返し、1873年に故郷のエクス・アン・プロヴァンスに戻りました。1881年と1882年にパリを訪れ、フランス画家自由協会の会員となりました。ただエクス・アン・プロヴァンスを離れなかったようです。
 セザンヌは晩年エクス・アン・プロヴァンスに住みましたが、彼との友情が影響したのではないかと思います。アシル・アンプレールの作品を紹介したいと考えインターネットで調べましたが、余り見つかりませんでした。非常に劣化進み、彼の作品かどうかも不明確な作品ばかりでした。間違いなくアシル・アンプレールの作品と思われるのは、次の一つだけでした。
決闘(アシル・アンプレール作)
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写真で見ると表面に細かい凹凸が見られ、何か粉末が絵の具に混ぜ込まれているような気がします。細かい砂などを混ぜ込む技法は知られていますが、絵の痛みが異常なので特別な粉末と思われます。次からはキーワード検索で見つかった作品を紹介します。
風景画(アシル・アンプレール作?)
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アシル・アンプレールの作品?
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風景のデッサン
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ここから先は傷みがひどく、アシル・アンプレールの作品かどうかも分かりません。
森の道?
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裸婦
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 ルーヴル美術館から高額(1000フラン)で注文があった。セザンヌと親交が深かった。セザンヌの画風から一線を画していたとの批評家コメント。等々と「決闘」の出来栄えを見ると、それなりの絵を描いていたと思います。紛失されたり剥落したりで、描いた直後の様子を推定するのも困難でした。このような画家もいたんですネ。

 トーマス・ローレンス(1769~1830年)はイギリス人の肖像画家です。
自画像(トーマス・ローレンス 1788年作)
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 トーマス・ローレンスはブリストルの宿屋主人の息子に生まれました。6歳で既に客の好きなものを描いたり、政治家演説の物まねをやっていたようです。1779年に父親が事業に失敗して、トーマス・ローレンスの早熟な才能で家族を養うような状況でした。オックスフォードでクレヨン肖像画家として名が知られるようになりました。1782年に家族はバースに移り住み、1784年にはクレヨン芸術協会から銀製パレットを贈られました。
 1787年にはロンドンに出て、ジョシュア・レノルズに見込まれてロイヤル・アカデミーに入り、1791年には(22歳で)ロイヤル・アカデミーの正式会員となりました。1792年には、古典芸術愛好貴族たちのディレッタンティナ協会の画家に任命されました。更にジョージ3世のお抱え画家になりました。1805年にはナイトの爵位を授けられ、1820年にはロイヤル・アカデミーの会長に就任しました。年代順に作品を紹介します。
マリア・リンリーのクレヨン肖像画(トーマス・ローレンス作)
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シャロット女王の肖像(トーマス・ローレンス 1789年作)
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詩を発表するホーマー(トーマス・ローレンス 1790年作)
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エリザベス・ファーレンの肖像(1791年頃作)
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アレキサンダー・マッキンジーの肖像(トーマス・ローレンス 1800年頃作)
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アーサー・ウェルスリーの肖像(トーマス・ローレンス 1814年作)
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法王Pius7世(トーマス・ローレンス 1819年作)
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ブレッシントン伯爵夫人マーゲリート(トーマス・ローレンス 1819年作)
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ジョージ4世の肖像(トーマス・ローレンス 1821年作)
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Lady Maria Conyngham(トーマス・ローレンス 1825年作)
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ランプトン少年(トーマス・ローレンス 1825年作)
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Mrs. Seymour Bathurst(トーマス・ローレンス 1828年作)
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ポルトガルのマリア2世(トーマス・ローレンス 1829年作)
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サリー・シドン(トーマス・ローレンス作)
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淑女マリア・オグランダー(トーマス・ローレンス作)
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肖像画のモデルは全員が目が大きくてパッチリです。肖像画なので、盛っている(実際より美男美女に描いている)と思われます。

 コニャック=ジェイ美術館はパリにある美術館です。サマリテーヌ百貨店創業者のエルネスト・コニャックとその妻マリー=ルイーズ・ジェイが集めたコレクションを展示しています。コレクションは1928年にパリへ寄贈されました。隣の百貨店の閉館に伴い、この美術館も一旦閉館されました。1990年に現在の建物(オーテル・ドノン)で再オープンしたようです。
         コニャック=ジェイ美術館前景(公式HPから)
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     エルネスト・コニャックの肖像(Jeanne Madeleine Favier作)
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         ヴェニス サンタルチア運河(カナレット作)
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       ヴェニス サン・マルコ広場(Francesco Guardi作)
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              泉(ユベール・ロベール作)
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            クレオパトラの宴(ティエポロ作)
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           預言者バラムとロバ(レンブラント作)
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        階段を降りる人(ルイ=レオポルド・ボワイー作)
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             美女と料理人(ブーシェ作)
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             音楽のレッスン(ブーシェ作)
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            ディアヌ追いの帰り(ブーシェ作)
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             愛の衛兵(フラゴナール作)
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          壺からこぼれたミルク(フラゴナール作)
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             鍋のある静物(シャルダン作)
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       バラライカを弾く賭博師(Jean-Baptiste Leprince作)
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     ルイ15世妃マリー・レクザンスカの肖像(Jean-Marc Nattier作)
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        幼いCalmadyの肖像(Sir Thomas Lawrence作)
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     Petit Garçon au gilet rouge(ジャン=バティスト・グルーズ作)
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大傑作はなさそうですが、秀作を多く所蔵展示しているようです。

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