ピエール・オーギュスト・ルノアール(1841~1919年)が1877年(36歳)に描いた「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」は、私が最も好きな絵の一枚です。その木漏れ日の描写と、華やかで楽しそうな雰囲気は観る者を幸せな気持ちにします。
ムーラン・ド・ラ・ギャレット(ルノアール、1877年作)
この木漏れ日の描写はマネもモネも挑戦しましたが、どちらも汚くなってしまいました。ルノアール自身さえもこのレベルの木漏れ日の絵は、二度と描けていません。
ルノアールの前半生の絵は、これ以外にも名作が一杯あります。しかしながら、いつの頃からか、画風が変わってしまいました。パステル調の接筆画法になっていきました。画風が進歩したというのが定説ですが、私には画力が退歩したと見えます。何か、モネの後半生と共通するものを感じます。彼の画歴を調べて見ました。
ピエール・オーギュスト・ルノアールは1841年に、フランス中南部リモージュの仕立て屋の6番目の子供として生まれました。3歳の時に家族は、パリのルーヴル美術館近くに引っ越しました。1850年(9歳)で聖歌隊入りして、声楽を学びました。彼の声楽の才能が高く、声楽に進むことを強く勧めた人もいたようです。父親の知人からの申し出と本人の希望から、1854年(13歳)で磁器工場の絵付け職人見習いとなりました。機械化の流れでその後ルノアールは職を失いました。1858年から画家を目指し、1862年(21歳)官立美術学校エコール・デ・ボザールに入学しました。並行してシャルル・グレールのアトリエにも出入りして、モネ・シスレー・バジール等印象派の画家と知り合いました。
1864年のサロンに「踊るエスメラルダ」を出品しましたが落選で、その後ルノアール自身が破棄したようです。その後も入選落選を繰り返したようです。1870年に普仏戦争で招集されたが、赤痢で翌年除隊した。1873年に後に「印象派」と呼ばれた匿名協会の創立メンバーとなりました。その後印象派展に出品しましたが、1879年に出展した「シャルパンティ夫人と子供たち」が絶賛を浴びました。
シャルパンティ夫人と子供たち(ルノアール、1879年作)
その後画作を続けますが、1898年(57歳)にはリューマチ性疾患で、車椅子生活を余儀なくされたようです。リューマチ性疾患の発症は、30歳~50歳が多いようです。指・手から発症して、早ければ2~3年で車椅子が必要になったと思われます。ルノアールも1890年(49歳)から1895年(56歳)の間に発症したと推定されます。
指・手がリューマチになると、強くモノを握るのが辛くなります。一番つらいのは、パレット上の硬くなった絵の具を削り取る作業だと思います。絵筆を強く握るのも辛くなります。この対策としては、絵筆の先端に原色絵の具を少量つけて、緩く筆をキャンバスに擦りつける描き方を選びたくなります。ルノアールの画風の変化は、これが原因ではないかと思わずにはいられません。時代順に作品を紹介します。
ロメール・ラコー嬢の肖像(ルノアール、1864年作)
生きている(ルノアール、1864年作)
23歳にしてこれらの絵が描けたというのは素晴らしいと思います。
浴女とグリフォンテリア(ルノアール、1870年作)
29歳の絵ですが、どう見ても晩年の裸婦より美しい。
桟敷(ルノアール、1874年作)
この絵も良いですネー。
陽光を浴びる裸婦(ルノアール、1876年作)
ムーラン・ド・ラ・ギャレットの前年の展覧会にこの作品を出展して、酷評を浴びたそうです。木漏れ日を描くのは難しく、あがいていたのだろうと思います。
舟遊びをする人々の昼食(ルノアール、1881年作)
この絵と次の絵の色調などに晩年の作との共通性は感じますが、長時間描き込んであると感じさせます。
二人の姉妹(ルノアール、1881年作)
浴女たち(ルノアール、1887年作)
背景などに晩年の画風を感じますが、裸婦や水面の描写は素晴らしい。
バラ(ルノアール、1890年作)
変調を感じます。描き方が非常に粗い。それまでのルノアールの作品には見られなかった描き方です。指・手にリューマチの症状が出たのではないかと思います。
浴女(ルノアール、1892年作)
泉による女(ルノアール、1895年作)
カスタネットを持って踊る女(ルノアール、1909年作)
この頃は車いすに乗って手足の痛みに耐えながら描いたと思われます。
水浴の女たち(ルノアール、1910年作)
1887年の作品と比べると、粗い描写となっています。
座る浴女(ルノアール、1914年作)
1870年から1880年頃までが、画力のピークだったと思われます。技術の上達と老いによる体力の低下で、全盛期というのがあるのでしょうか?