世界美術館巡り旅

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2016年10月

 ピエール・オーギュスト・ルノアール(1841~1919年)が1877年(36歳)に描いた「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」は、私が最も好きな絵の一枚です。その木漏れ日の描写と、華やかで楽しそうな雰囲気は観る者を幸せな気持ちにします。
ムーラン・ド・ラ・ギャレット(ルノアール、1877年作)
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この木漏れ日の描写はマネもモネも挑戦しましたが、どちらも汚くなってしまいました。ルノアール自身さえもこのレベルの木漏れ日の絵は、二度と描けていません。
 ルノアールの前半生の絵は、これ以外にも名作が一杯あります。しかしながら、いつの頃からか、画風が変わってしまいました。パステル調の接筆画法になっていきました。画風が進歩したというのが定説ですが、私には画力が退歩したと見えます。何か、モネの後半生と共通するものを感じます。彼の画歴を調べて見ました。
 ピエール・オーギュスト・ルノアールは1841年に、フランス中南部リモージュの仕立て屋の6番目の子供として生まれました。3歳の時に家族は、パリのルーヴル美術館近くに引っ越しました。1850年(9歳)で聖歌隊入りして、声楽を学びました。彼の声楽の才能が高く、声楽に進むことを強く勧めた人もいたようです。父親の知人からの申し出と本人の希望から、1854年(13歳)で磁器工場の絵付け職人見習いとなりました。機械化の流れでその後ルノアールは職を失いました。1858年から画家を目指し、1862年(21歳)官立美術学校エコール・デ・ボザールに入学しました。並行してシャルル・グレールのアトリエにも出入りして、モネ・シスレー・バジール等印象派の画家と知り合いました。
 1864年のサロンに「踊るエスメラルダ」を出品しましたが落選で、その後ルノアール自身が破棄したようです。その後も入選落選を繰り返したようです。1870年に普仏戦争で招集されたが、赤痢で翌年除隊した。1873年に後に「印象派」と呼ばれた匿名協会の創立メンバーとなりました。その後印象派展に出品しましたが、1879年に出展した「シャルパンティ夫人と子供たち」が絶賛を浴びました。
シャルパンティ夫人と子供たち(ルノアール、1879年作)
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その後画作を続けますが、1898年(57歳)にはリューマチ性疾患で、車椅子生活を余儀なくされたようです。リューマチ性疾患の発症は、30歳~50歳が多いようです。指・手から発症して、早ければ2~3年で車椅子が必要になったと思われます。ルノアールも1890年(49歳)から1895年(56歳)の間に発症したと推定されます。
指・手がリューマチになると、強くモノを握るのが辛くなります。一番つらいのは、パレット上の硬くなった絵の具を削り取る作業だと思います。絵筆を強く握るのも辛くなります。この対策としては、絵筆の先端に原色絵の具を少量つけて、緩く筆をキャンバスに擦りつける描き方を選びたくなります。ルノアールの画風の変化は、これが原因ではないかと思わずにはいられません。時代順に作品を紹介します。
ロメール・ラコー嬢の肖像(ルノアール、1864年作)
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生きている(ルノアール、1864年作)
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23歳にしてこれらの絵が描けたというのは素晴らしいと思います。
浴女とグリフォンテリア(ルノアール、1870年作)
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29歳の絵ですが、どう見ても晩年の裸婦より美しい。
桟敷(ルノアール、1874年作)
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この絵も良いですネー。
陽光を浴びる裸婦(ルノアール、1876年作)
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ムーラン・ド・ラ・ギャレットの前年の展覧会にこの作品を出展して、酷評を浴びたそうです。木漏れ日を描くのは難しく、あがいていたのだろうと思います。
舟遊びをする人々の昼食(ルノアール、1881年作)
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この絵と次の絵の色調などに晩年の作との共通性は感じますが、長時間描き込んであると感じさせます。
二人の姉妹(ルノアール、1881年作)
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浴女たち(ルノアール、1887年作)
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背景などに晩年の画風を感じますが、裸婦や水面の描写は素晴らしい。
バラ(ルノアール、1890年作)
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変調を感じます。描き方が非常に粗い。それまでのルノアールの作品には見られなかった描き方です。指・手にリューマチの症状が出たのではないかと思います。
浴女(ルノアール、1892年作)
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泉による女(ルノアール、1895年作)
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カスタネットを持って踊る女(ルノアール、1909年作)
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この頃は車いすに乗って手足の痛みに耐えながら描いたと思われます。
水浴の女たち(ルノアール、1910年作)
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1887年の作品と比べると、粗い描写となっています。
座る浴女(ルノアール、1914年作)
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1870年から1880年頃までが、画力のピークだったと思われます。技術の上達と老いによる体力の低下で、全盛期というのがあるのでしょうか?

 ジャン・バティスト・カミーユ・コロー(1796~1875年)は、バロックから印象派への橋渡しをした画家です。
 コローは1796年にパリの裕福な織物商人の息子に生まれました。一旦は商人として修業したが、1822年(26歳)に父の許しを得て画家を志し、同世代の風景画家アシール・エトナー・ミシャロンに師事しました。ところがミシャロンが僅か26歳で亡くなってしまいました。そこでミシャロンの師匠のジャン・ヴィクトール・ベルタン(当時のフランス風景画第一人者)に師事することになりました。
 コローは、1825年から3年間にイタリア留学を、1834年から1843年にもイタリアに滞在したようです。その後もフランス各地を旅行して、現実の風景を土台にした抒情的風景画を描き、モダニズムの先駆けとなりました。コローはミレーやテォドール・ルソーと親交を深め、彼らに影響を与えました。時代順に作品を紹介します。
ナーニ橋(コロー、1825年作)
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自画像(コロー、1825年作)
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本格的な修業を初めて僅か3年目で、これだけの絵が描けたようです。顔の大きさに比べて、右腕が細くて手も小さいようです。まだ修行中だったんでしょう。
コロッセウム(コロー、1826年作)
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コローの1830年(34歳)作品
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自分は何を描くべきか、悩んでいたのでしょうネ。
シャルトルの大聖堂(コロー、1830年作)
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小さな人影が入った風景画を描き始めたようです。
ガルダ湖(コロー、1835年作)
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コローらしさが出始めて来ました。
女性の肖像(コロー、1838年作)
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初めての女性肖像画のようです。まだ硬いというかギコチナイです。
女性の肖像(コロー、1845年作)
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コローらしい抒情性が感じられます。
朝、ニンフの踊り(コロー、1850年作)
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1850年(54歳)にコローの画風が完成したようです。
モルデフォンティーヌの思い出(コロー、1864年作)
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女性の肖像(コロー、1865年作)
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女性の肖像(コロー、1866年作)
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男性の肖像(コロー、1868~70年作)
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女性の肖像(コロー、1868~1870年作)
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真珠の女(コロー、1868~70年作)
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コローの女性肖像画の間でも抜群の出来栄えです。清楚な若い女性が、細密に描かれています。素晴らしい集中力で長時間描いたと思います。70歳超で最高傑作を描くとは、素晴らしいことです。きっと「神さまが降りて来た。」のでしょう。
コロー1870年(74歳)の作品
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女性の肖像(コロー、1872年作)
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青い服の女(コロー、1874年作)
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コロー1874年(78歳)の作品
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亡くなる前年の78歳まで画力は落ちなかったようです。素晴らしく幸せな画家人生だったと思います。「真珠の女」の出来栄えがあまりにも素晴らしかったので、本人はどう思っていたのかは疑問です。

 ビッグ・ネームのルーベンスの画歴と作品をを調べて見ました。
 ピーテル・パウル・ルーベンス(1577~1640年)は、ドイツ ケルン郊外のジーゲンで生まれました。父はネーデルランド総督のプロテスタント迫害を避けて、アントウェルペンからケルンに逃れて来た法律家でした。父親が1587年に亡くなると、家族は間もなくアントウェルペンに戻りました。
 生活が苦しく、ピーテル・パウル・ルーベンスは1590年(13歳)にフィリップ・ファン・ラレング未亡人の小姓に出されました。そこで芸術的素養を認められ、アントウェルペンの画家に弟子入りすることになりました。その後経緯は良く分かりませんが、合計3人の画家に師事しました。ハンス・ホルバインの木版画やラファエロの絵画模写で修業したようです。
 1598年(21歳)でアントウェルペンの画家ギルドの聖ルカ組合に入会しました。1600年にマントヴァ公の支援でイタリアに留学して、有名作品の模写をしました。1603年にマントヴァ公から外交官としてスペインに派遣され、ラファエロやティッツアーノの名品を見る機会を与えられました。1604年から4年間再度イタリア留学をしました。母が倒れた為、1608年にアントウェルペンに帰国しました。アントウェルペンで工房を構える許可を得て、1610年に工房(現在のルーベンスの家)を建てました。工房にアンソニー・ヴァン・ダイクが弟子入りして、ルーベンスが亡くなった後には工房を引き継ぎました。年代順に作品を紹介します。
1597年(20歳)の作品
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絵の修行を初めて5~6年の20歳でこの技量に到達するとは、天才というしかありません。画力は既に完成の領域です。
1598~1602年の作品
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パリスの審判(ルーベンス、1601年作)
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ルーベンスの作品にしては、少し硬さが感じられます。イタリア留学時代なので、ティッツアーノの影響を受けているのですかネー。
レルマ公騎馬像(ルーベンス、1603年)
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スペインを訪問した時代の作品です。色使いがエル・グレコ(1541~1614年)の絵を連想させます。エル・グレコの絵を見たんでしょうかネ。
1603年の素描
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前の絵の習作なんだと思います。
ブリジーダ・スピノラ・ドリア侯爵夫人(ルーベンス、1606年作)
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衣装の質感が素晴らしいですネ。
羊飼いの礼拝(ルーベンス、1608年作)
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上の2枚は、イタリア再留学中の作と思われます。
キリスト昇架(ルーベンス、1611年作)
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キリスト降架(ルーベンス、1614年作)
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キリスト昇架・降架の2枚の絵は、それまでのどの絵よりも圧倒的な臨場感と躍動感を感じさせます。最高傑作だと思います。
ライオンの穴の中のダニエル(ルーベンス、1615年作)
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レウキッポスの娘たち(ルーベンス、1617年作)
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三美神(ルーベンス、1635年作)
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パリスの審判(ルーベンス、1639年作)
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1640年に亡くなっていますので、最期の作品なのだと思います。
 20歳にして画力が完成していて、修行中の画力の上昇具合が見えなかった。残念です。天才という事で納得します。

 ギュスターヴ・カイユボット(1848~1894年)は印象派画家の兄貴分のような存在で、印象派展の費用を負担したり印象派画家作品を購入したりしました。シカゴ美術研究所所蔵の「パリの通り、雨」は、私の最も好きな絵のひとつです。二点消失遠近法を強調したのと、濡れた敷石を描き切った名品です。
パリの通り、雨(カイユボット、1877年作)
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 ギュスターヴ・カイユボットはパリで、裕福な衣料製造業経営者の息子に生まれました。1857年(9歳)にルイ・ル・グラン高等中学に入学しました。1870年(22歳)法律学校を卒業して、法律免許を得ました。その頃から、レオン・ボナの画塾に通うようになりました。1873年にパリ国立美術学校に入学しましたが、余り登校しなかったようです。1874年に、ドガ/モネ/ルノアールと親しくなりました。
 1875年(27歳)の官展に「床削りの人々」を持ち込んだが、粗野であると展示を拒否されました。一点消失遠近法を強調しています。床や汗に濡れた肌が、印象的に描かれています。今では名作と言われています。
床削りの人々(カイユボット、1875年作)
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 1878年(30歳)に莫大な遺産を分割相続して、画業に専念するようになりました。印象派展開催費用を負担し、第7回展まで自身の作品を出品しました。1882年(34歳)以降は、作品を公表しなくなりました。1894年(46歳)に肺鬱血で亡くなりました。作品を年代順に紹介します。
イエール、雨(カイユボット、1875年作)
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余り有名な絵ではありませんが、水面をジット見ると良い絵ですネー。類似の絵を見たことがありません。非常にユニークです。
窓辺の若い男(カイユボット、1875年作)
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ヨーロッパ橋(カイユボット、1876年作)
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この絵をカイユボットの代表作に押す人もいるようですが、チョット粗い描き方でカイユボットらしくないと私は思います。
イエール川のカヌー(カイユボット、1877年作)
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キャフェにて(カイユボット、1880年作)
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バルコニーの男、オスマン通り(カイユボット、1880年作)
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店先の果物(カイユボット、1882年作)
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トゥルヴィーユの別荘(カイユボット、1884年作)
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作業衣の男(カイユボット、1884年作)
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ジャンヌヴィエリの草原(カイユボット、1888年作)
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金蓮花(カイユボット、1892年作)
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プティ・ジャンヌヴィリエの庭、冬(カイユボット、1894年作)
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 1880年以前のカイユボットは、強調した遠近法と質感描き切っています。水面/濡れた敷石/油の沁み込んだ床面の描写などが素晴らしい。公表を止めた1882年前後から、素晴らしい質感の描写が無くなっています。一枚の絵を描き込んだ時間も大幅に短くなっています。この頃から体調が悪くなったのか、良い絵を描きたいという熱意が弱まったのか。打ち込んで絵が描けた期間は僅か5~6年間だったようです。体調が良ければ、もっと傑作が描けたのではないかと思わずにはいられません。

 次々回の旅行で、デトロイト美術館に訪問しようかどうか迷っている。デトロイトの治安が悪いとの評判が高いからである。公式HPを事前調査した。作品を紹介する。実際に訪問したら、写真と情報を追加して再投稿する。
デトロイト美術館前景
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ヤン・ファン・エイクの作品
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ルーカス・クラナッハの作品
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ピーター・ブリューゲルの作品
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描写と色合いから、子供の方のピーター・ブリューゲルと思われる。
ベラスケスの作品
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レンブラントの作品
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ルイスダールの作品
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コプレーの作品
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セザンヌの作品
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自画像(ゴッホ作)
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郵便配達人のヨセフ(ゴッホ作)
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若い画家の肖像(ゴーギャン作)
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ドガの作品
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質の高い絵が所蔵されています。収集した人の眼力が確かだったのだろうと思います。写真で見る限り絵も非常に綺麗です。修復やクリーニングが適切のされているのだと思います。一流の美術館だと思います。行きたいなーと思います。

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